明治人たちの懐の深さ。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【風の間に間に】論説委員・皿木喜久



別件の取材で新渡戸稲造について調べたことがある。

 樋口一葉の「先代」の五千円札の顔だ。だからおなじみといえばおなじみなのだが、その功績を語れと言われると、やや心もとない。「知名度」でも、他のお札の顔である福沢諭吉、夏目漱石らには劣る。

 人名辞典的にいえば、明治初期、「少年よ大志を抱け」のクラーク博士で知られる札幌農学校で学んだ。東京大学入学後、すぐ米国に渡り、農政学などを学ぶ。いったん日本に帰り母校で教鞭(きょうべん)をとるが、病気のため再び渡米し療養にあたる。

 明治36年、京都帝国大学の教授となり、一高校長や東大教授を歴任、ジュネーブの国際連盟で事務局次長をつとめる。昭和初期には太平洋問題調査会長として、悪化する日米関係の修復に努力した。

 人生のかなりの部分を海外で過ごし、米国人女性を妻とし、クエーカー教徒となった。米国で療養中には英語で『武士道』を書いた。そのため札幌農学校の同級生、内村鑑三らと並ぶ明治・大正期を代表する「国際人」とされ、日米協調論者、さらには反軍思想家とも見られてきた。お札の「顔」に選ばれた所以(ゆえん)かもしれない。

 だが新渡戸には、忘れてはならない業績がほかにもあった。台湾の製糖業の振興だ。

 明治28(1895)年、日本は日清戦争の結果として台湾を得て、その統治にあたる。当初は治安維持で手いっぱいだったが、31年、児玉源太郎を台湾総督、後藤新平を民政長官として送りこみ、本格的に台湾の開発に乗り出す。児玉は後に陸軍大臣、後藤は満鉄総裁や外相を務める。大物コンビだった。

 その後藤にとって気がかりが糖業だった。当時日本だけでなく世界の砂糖需要は急速に増えており、有力な生産地、台湾への期待は大きかった。だが生産高は下降線をたどっていた。その立て直しを同郷(岩手)の新渡戸に託したのである。

 再三の要請に応えて引き受けた新渡戸はヨーロッパなどの糖業を視察して34年、台湾総督府の民政部殖産課長となり「糖業改良意見書」を書き上げる。これが採用された結果、台湾における生産高は数年の間に3倍に増えたという。台湾の経済を支え、日本による台湾統治を安定したものに導く「快挙」だった。

 新渡戸は大正6年には後藤の推薦で、もともと台湾での起業を後押しする目的で設立されていた東洋協会植民専門学校(1年後に拓殖大学と改称)の学監に就任する。学長に次ぐナンバー2だった。新渡戸は他の職と兼任ながら5年間にわたり、学生たちに日本の植民政策や植民地に赴く心構えなどを説いた。

 残念ながら今、こうした台湾での活躍や拓殖大学学監としての新渡戸の働きについてはほとんど語られない。国際協調主義者としてのイメージに「植民地」は似合わないということだろうか。

 だが、当時の日本の植民地政策は決して非難ばかりされるものではなかった。新渡戸もまた、ひとつのレッテルで済まされるような人物ではない。国際人であると同時に『武士道』を書いた愛国者でもあった。植民地の重要性など当時の日本の国益にも強い関心を持っていた。

 新渡戸だけではなく、明治人たちが持っていた懐(ふところ)の深さだろう。国際的荒波にもまれる日本人に今、求められるものである。