足利尊氏 ~無責任天下人一代記~ | ~ Literacy Bar ~

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ここはイマイチ社会性のない自称・のんぽりマスターの管理人が、
時事、徒然、歴史、ドラマ、アニメ、映画、小説、漫画の感想などをスナック感覚の気軽さで書き綴るブログです。
※基本、ネタバレ有となっていますので、ご注意下さい。

四半世紀も歴史の研究に携わっていると、

「尊敬する歴史上の人物は○○です!」

と胸を張って断言する純粋さが失せてくる。そういう純粋な気持ちをなくした者は、何時しか、歴史上の人物を有能・無能、高潔・卑劣などで図るのではなく、面白い奴か、つまらない奴かで判断するようになる。少なくとも、私はそうなってしまった。このブログでは機会を見計らって、私が『面白れェ』と感じた歴史上の人物を取り上げていきたいと思う。


栄えある第一回目の人物は足利尊氏である。

彼は鎌倉幕府を間接的に打倒し、次いで、後醍醐天皇による新政権を崩壊せしめて征夷大将軍となり、室町幕府の基礎を築いた。ただし、その人生、及び人間性は凡人の理解するところではない。その言動は一貫性を欠き、支離滅裂、朝令暮改も甚だしかった。何故、このような男が天下人たりえたのかと疑うほどである。以下、史料に基いた足利尊氏の人生に大幅な脚色を加えて紹介する。


 幕府への反逆編


尊氏という人物を理解しようと努めるにあたって、まず、確認しておきたいのは、彼がよくいわれるような『足利の御曹司』ではないということである。彼には父・貞氏と正室の間に生まれた兄・高義がいた。尊氏は側室の子であった。尊氏の幼名・又太郎は『二番目の長男』という意味が込められていたと思われる。高義の母は北条氏の一門・金沢家の女であり、本来なら、まかり間違っても尊氏が足利家を継ぐことはありえなかった。ところが、兄の高義が家督を継いで早々、夭折してしまう。慌てた父・貞氏は隠居の身から現役復帰したものの、老骨を推して政務に携わった疲労から五十九歳で病没する。こうして、尊氏は源氏の名門である足利家を相続したが、次男坊の彼には、武家の棟梁としての心得を学ぶ機会が殆どなかった。名門財閥の当主に、何の帝王学の経験もない若造が就任したようなものである。尊氏の生涯を貫く原則性に乏しい言動は、こうした事情によるものと思われる。

この頃、西国方面では後醍醐天皇が二度に渡って倒幕の兵を挙げていた。討伐軍を送る必要に迫られた鎌倉幕府は尊氏にも出陣を命じる。一度目の時は父・貞氏の喪中の最中、二度目の時は妻子を人質として鎌倉に残すべしといわれたことで、尊氏は北条氏への不信を強めたとされているが、武士が幕府の命令に従うのは当然の義務である。しかし、そんな武家の心得など教わったことのない尊氏は、

「そもそも、幕府を支配してる北条氏は元々、俺の先祖の源氏の配下じゃねぇか。源氏の名門の俺が部下の命令を聞く義理なんてねぇよ」

と後醍醐天皇の討幕軍に鞍替えすることを決意。腹黒い弟の直義も、この事態を、かねてから境界線争いの絶えない新田義貞を滅亡させるチャンスと踏んで、

「どうせなら、カッペの新田も巻き添えにしましょう。我々が京で叛旗を翻すと同時に奴に鎌倉を襲わせるんです。戦下手の新田は負けるでしょうけど、それで疲弊した北条氏を我々が滅ぼせば、足利氏が鎌倉に幕府を開くこともできます」

と火事場にガソリンを撒くようなことを囁いた。極度のブラコンである尊氏は弟のいうことは何でも聞いたという。西国へと発った尊氏はその途上で叛旗を翻し、京における幕府の出先機関である六波羅探題を制圧するが、予想外なことに新田義貞も鎌倉を攻略して、北条氏を滅亡させてしまったのである。しかし、腹黒い弟の直義は密かに鎌倉を脱出させた尊氏の子を新田軍に捻じ込ませており、

「鎌倉を陥とした原動力は東国の武士を結集させた足利の御曹司の御威光。新田? アイツは海に宝剣をポイ捨てしただけの罰当たり野郎」

との風聞を広めることで、鎌倉攻略の功績まで足利家で独占にすることに成功。ブラコン尊氏は益々、腹黒い弟の直義への信頼を深めていった。


 朝廷への反逆編


こうして、鎌倉幕府は滅亡して、後醍醐天皇による建武の新政が始まるが、これは諸々の事情から中途で挫折を余儀なくされる。これによって、多くの武家は後醍醐天皇に代わる統治者として、源氏の名門である尊氏を推そうとするが、武家の棟梁のくせに武家の心が読めない尊氏は、京で流行の猿楽に熱中してまるで動こうとしなかった。しかし、何だかんだと屁理屈を捏ねて鎌倉に駐屯し、足利幕府開闢の機会を窺っていた腹黒い弟の直義が、北条氏の残党にコテンパンに叩きのめされて消息不明になると、ブラコン尊氏は後醍醐天皇の制止を無視して鎌倉へ向かい、これを救出。ついでに、新田領に攻め込んだうえ、自分の生命を狙っていた後醍醐天皇の皇子をドサマギで暗殺してしまう。これに激怒した後醍醐天皇は、

「北条氏の残党を退治した御褒美をあげるから、ひとまず、京に帰って来い」

といって、尊氏を京都におびき出そうとした。鎌倉にいる武士たちは皆、

「あんなミエミエのウソに、どこの馬鹿がひっかかるんだよ」

と鼻で笑っていたものの、なんと、当の尊氏が嬉々として、

「帝の命令だもの、早く京にいかなくちゃね」

と上洛の支度を始める始末。腹黒い弟の直義が、

(だめだこいつ……早くなんとかしないと……)

と必死で諌めたため、ブラコン尊氏は上洛を思いとどまった。実際、尊氏が上洛していたら、よくて流罪、悪くて死罪に処されるところであった。尊氏上洛せずの報を受けた後醍醐天皇は、新田義貞に尊氏討伐を命ずる。しかし、これを迎え撃つべき尊氏は、こともあろうに、

「畏れ多くも帝の軍と戦うなど、この尊氏にはできん!(キリッ」

というチキンな言葉を残して寺に籠ってしまったのである。このため、総大将不在の足利軍は連戦連敗。尊氏の側近である高師直が、

「御舎弟殿が戦場で死にかけてますぞ」

と尊氏のブラコン魂を刺激する報告をしなければ、足利家は新田軍に攻め滅ぼされるところであった。しかし、腹黒い弟の直義のピンチを知ったブラコン尊氏は急いで戦場に駆けつけると、手もなく新田軍を蹴散らした。何だかんだで尊氏は戦には強かったのである。ところが、調子こいた尊氏が新政権を樹立せんと一気に京に攻めのぼったところへ、



ジャーン ジャーン ジャーン

楠木正成「殺し間へようこそ」

足利尊氏「げぇっ、河内守!」



こうして、孔明楠木正成の罠に掛かった尊氏は尻の毛まで抜かれるほどの大敗北を喫して九州に落ちのびたそこには後醍醐天皇派の菊池軍が手ぐすねひいて待ち受けており、泡を喰った尊氏は、

「もうダメだ。俺はここで死ぬ」

などと『死ぬ死ぬ詐欺』の先駆けのようなことを喚き散らす。流石に愛想を尽かしたのか、腹黒い弟の直義が戦死上等とばかりに敵軍に突っ込むと、ブラコン尊氏は、

「直義殺すな、直義殺すな」

とさっきまで自分の腹に突きたてようとしていた刃を掲げて、腹黒い弟の直義を救出に向かった。すると、運よく強風が敵に向かって吹き荒れて、何故か足利軍は大勝利。九州で再起を果たした尊氏は再び、京に向けて進撃する。足利軍は湊川で楠木・新田連合軍と対峙したが、ここで新田義貞が、

「河内の田舎侍と轡を並べて戦えるか。俺は降りるぜ」

とよく判らん言い訳を残して戦線を離脱したため、楠木軍は壊滅した。尊氏は正成に対して畏敬の念を抱いており、彼の首級をキチンと弔って、親族の元に帰してやった。非常識で、躁鬱の気があって、極度のブラコンで、死ぬ死ぬ詐欺の常習犯の尊氏であったが、基本的にはいい人なのである。尤も、父親の首級を見た正成の息子が精神錯乱状態に陥ったというから、空気が読めないのは相変わらずであった。こうして、京を制圧した尊氏であったが、幽閉しておいた後醍醐天皇には逃げられてしまう。腹黒い弟の直義や高師直から責任を追及された尊氏は、

「だって、閉じ込めておくための警備代が勿体ないじゃないか!」

と逆ギレして話をウヤムヤにしてしまうのであった。


腹黒い弟の反逆編


尊氏は吉野に逃れた後醍醐天皇のことはなかったことにして、京に新しい朝廷と幕府を開く。これが室町幕府である。いまだに後醍醐天皇を奉じる南朝の勢力は衰えを見せなかったが、軍事では高師直、政務では腹黒い弟の直義が、それぞれの分野で辣腕を振るったため、尊氏が奉ずる北朝は確実に優勢になっていった。ところが、室町幕府の内部で武断派の師直と文治派の腹黒い弟の直義が対立するようになる。尊氏は両派の間に入って調整役を果たすべき立場にあったのだが、師直と腹黒い弟の直義に軍事・政治の全権を託した尊氏は、相変わらずの猿楽三昧で幕府の空気を全く読もうとしなかったのである。

先にキレたのは、やはり、腹黒い弟の直義のほうであった。政務上の相談があると偽って師直を誘き出し、暗殺する支度を整えていたが、それを察した師直はトイレのふりをして脱兎の如く退散し、腹黒い弟の直義を討つべく、大軍を率いて京を制圧した。さらに、腹黒い弟の直義が尊氏の屋敷に逃げ込んだことを知ると、師直はこともあろうに、将軍の邸宅を包囲したのである。腹黒い弟の直義はブラコン尊氏に仲裁を頼んだが、猿楽ジャンキーで骨抜きになっていた尊氏は、

「はぁ…まぁ…その…、言ってることはわかるし、俺も助けてやりたいのはヤマヤマなんだけど…、でも、なんていうか…何しろ、囲まれてるわけだろ、助けてくれっていうのは簡単だけど…、それで師直がキレたら、要するに俺がただ困るわけで、そういうの俺には向かないっていうか…、ムリ…多分ムリ…っていうか不可能…、おそらくムリ…いや、絶対にムリだな…、ムリムリ、ムリ…」

とかいって、まるで現実と戦おうとしない。一方の師直は流石に将軍の屋敷を囲んだままというのは立場上マズいと考えたらしく、結局、なし崩し的な形での交渉がまとまり、腹黒い弟の直義は出家させられた挙句、二人の腹心を謀殺されてしまった。この沙汰に長年、非常識な兄を支えてきた腹黒い弟の直義が本当にブチぎれた。腹黒い弟の直義は、何と宿敵である南朝に降伏して後顧の憂いを絶ち、尊氏に戦いを挑んだのである。戦下手で評判だった腹黒い弟の直義であるが、この戦いには快勝した。惨敗した尊氏はここでも死ぬ死ぬ詐欺をしでかしたが、何だかんだで兄のことを心配した腹黒い弟の直義が気配を察して和睦に持ち込んでくれた。空気を読む才能の確かさは兄の比ではない。

ただし、高師直はキッチリとブチ殺した。

ところが、将軍の帰還を出迎えた腹黒い弟の直義の一党に対して、尊氏は、

「この中に俺の許可を得ずして勝手に師直を殺した奴がいる! 石塔頼房、オマエは死刑!」

と敗軍の将とは思えない難癖をつけたのである。腹黒い弟の直義も流石に顔色を変えて、

「兄上、空気嫁」

と囁いたが、そんな才能を生来持ち合わせていない尊氏は、

「オマエ、この戦いで誰と戦ったんだ? 俺じゃないだろ? 師直だろ? アイツを幕府から追い払うために戦ったんだろ? じゃあ、あの戦いはオマエと師直の私戦で、俺は巻き込まれただけじゃん。将軍の座を奪われたわけでもない以上、賞罰の権利は俺にある。違うか?」

などと捲したてて、自分の敗北をなかったことにしてしまった。この辺り、尊氏は余程の器量人か、ホントに自分の敗北が判ってない馬鹿なのか後世の評価の分かれるところである。そして、今度は尊氏の方が南朝に降伏して、腹黒い弟の直義と戦い、ついには自殺に追い込むのである。あれほどのブラコンぶりを発揮していた尊氏とも思えない非情さであり、この男の行動理念はホントに判らない。腹黒い弟の直義の死から六年後、尊氏もこの世を去る。それから丁度、百日後に生まれた尊氏の孫は、祖父とは似ても似つかない不逞な野心と権謀術数をもって、南北朝の騒乱に終止符をうった。孫の名を足利義満という。


追記


ここに記されていることは、基本的に史実と通説から管理人の創作に都合のよい方をとったものです。足利尊氏をかなりボロクソに描いてみましたが、冒頭に述べたようにホントは私は尊氏が大好きです。『腹黒い弟』という形容詞をつけ続けた直義はもっと好きです。いつか、直義から見た尊氏の姿を小説にしてみたいですね。

ここまでお読み頂きまして、本当にありがとうございました。