強さと弱さ 人生は複雑 |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

人は弱い。

 

の、一つの典型を見せてくれたのは、亡父だと思う。

身内のことを語りますが、亡父を貶めたい意図ではないとご理解下さいね。

 

 

多数のかたと出会い、お話をさせていただく機会を持てる立場なので、それこそ

 強い人

 強そうに見える人

 弱い人

 弱そうに見える人

 強さにも弱さにもとらわれない人

 強くもあるし弱くもある人

と、いろんな印象を受けます。実際には上記ばかりではなく、もっと複雑で、隠された強さもあれば隠された弱さもあり、意図的に作り出されたそれらもある。

そもそも「強さ」の定義ってなに? という問題もあります。

 

肉体の強さについて語っているわけではないとは、皆さん、ご理解いただいていると思うのですが。

 

強さと弱さで人間を類別するのは、もちろん暴論で、そんな「類別」の意図はありません。

人間は誰でも多面性を持っていますし、ただただ強い人もいないし、強さ弱さという判断基準を持ち込むのが、そもそも間違っている人もいます。

人間ですから、あるときは強く存在できても、挫折することもあれば、消えてなくなりたいような気持ちのときもあるわけで。

 

ま、そういう全部の前提で。

 

結構、乱暴な考えなのですが。

 

私の父は弱い人であった(ある部分が)。

 

 

それは段階的に表面化したように思われます。

 

一つは私たち兄弟を世に送り出したとき(兄が就職し、私が作家デビューしたとき)。

このときに、すでにポキンと何かが折れていたように思えます。

 

「自分の役目は終わった」ような発言を幾度も聞いています。

 

兄と私の結婚。

孫の誕生。

 

仕事も辞め、酒量が増え続けました。

昼から呑んでいることが常態化。

(この頃、私は実家を一時的に出ていました)

 

この頃から壊れていき、末期の肝硬変へまっしぐら。

 

家族がいかに言って聞かしても、お酒の誘惑を退けることができなかった。

言動もおかしい。

 

幾度もの救急搬送。

数度の死の危機。

 

本当にお酒を断てたのは、もう身体が呑めなくなったときでした。

 

2012年の他界。

もちろん肝硬変が根本的な原因の衰弱です。

 

 

酒の誘惑に勝てなかったことを持って、弱い人の烙印を押すことは簡単です。

 

私は、今は、実はそうは思っていないのです。

父が亡くなったときは、別に深くも考えもしませんでしたが、そのような考えであったかと思います。

 

しかし。

いろいろ考え合わせ、思い起こすと。

 

根本は違うのではないかと。

 

父は長男として産まれ、いろいろと理不尽な運命を歩いています。

 

たとえば、本当の誕生日は4月2日なのに、届け(戸籍)は3月30日にされています。

 

え? と思われるでしょう。

そうなんです。

 

わざわざ早生まれの学年に押し込まれているのです。

 

 

3月30日とか31日に生まれたら、とくに成長の初期段階では、他の4月生まれとか5月生まれの子に対してハンデがあります。

1年近い差があるわけで。

 

だから、次の学年にする、というのなら、理解されやすいでしょう(今はないと思いますが、昔の話ですから)。

 

 

しかし、父はあえて有利な学年ではなく、不利な前年度グループに放り込まれたのです。

 

これは……

 

ぶっちゃけ、長男をさっさと一人前にして働かせ、家のために役立てさせようという意図が働いたとしか考えられません。

つまり、親の立場から「子育て期間」を1年短縮できるわけです。

 

ヒドイ……

 

このように考えさせられる要素が、私の家系にあったことは否めません。

 

ちょっと前に冥王星資質が、私の母方の家系にあるように書きましたが、実は父方家系にもあった可能性はあります。

 

 

父はもともと「大工」になりたかったようで、実際、旧宅でも大工的な仕事はこなしていました。

しかし、大工になることは反対され、工業系・製造業系へ。

つまり、これも、「さっさと給料もらえるようになれ」ということです。

大工だと一人前になるのに、もっと長くかかります。

 

そうして結婚(私たちの母と)。

その後も祖父母たちは、生活の上で「一銭のお金も出さなかった」というのが母の弁です。

 

すべて父の稼ぎで回していた(当時は兼業農家でもあり、祖父母や曾祖父母なども含め、稲作はしていたが、もちろん父母もそれに参加)。

 

これは、へたをすると、父にすべて寄生していたような状態です。

むろん、見えていない要素はあるのでしょうが、基本、すべて父が頑張っていたわけです。

 

 

つまり、父は家族を支え、家族のために働くことが宿命づけられていたような人物で、それは出生時から運命をいじられています。

 

そういう父にとっては、

兄や私の独立、結婚。

自分より上の世代(私からいう曾祖父母や祖父母)を送ること。

こういった出来事は、その都度都度で、自分の存在意義を減じさせていたのではないか。

 

と、ふと思ったのです。

 

世の中には、仕事で成果を出すことやキャリアアップすることに自分の存在意義を感じる人も多いですし、家族のために働くことや、配偶者との関係に存在意義を感じる人も多い。

 

何かのために頑張れるのは良いことです。

そこには何の問題もない。

 

でも、たとえば妻子のために一生懸命働いていたのに、その妻と子がある日亡くなってしまったら……

 

そこで、心が折れてしまっても当然です。

 

それ以前の人生が家族のためであったからこそ、父にはもう何もないように感じられていたのかも知れない。

 

というのは、ちょっと美化しすぎのような気もするが……(笑)

 

当たらずとも遠からずのような気がしたのです。

ちょっと、父のことを話すことがあり。

 

 

ふと、頑張れるものがあるということは、

それは強さでもあるのだけれど、

 

ひょっとするとどこかで、

いつの間にか、

そのこと自体に依存してしまうことでもあるな、

 

と思った次第。

 

それが人の弱さになってしまうことも。

 

人生は複雑だ。

 

 

 

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