これがこのシリーズ、最後の記事です。
長いことお付き合いいただきまして、ありがとうございます。
何かの成功体験に依存した自己肯定は、その土台が失われると力を持たなくなります。
そのようなものに由来する安心感も、偽りではありませんが、脆いと言えば脆いのです。
私にとっての「まことの安心感」とは。
自分がこの世界と切り離されておらず、どのような状況でも常に恩寵を受けることができる、というような安心感です。
これは宗教的なお立場の方からすれば、「神は常に我らをお守り給う」というような信念かもしれませんし、実感をお持ちの方もいらっしゃると思います。
私のそれがどこから生まれてきたかというと、高校時代に書いた三つの長編小説の執筆体験から生じています。
作家にもいろいろなタイプがあります。
左脳的にとことん突き詰めて細部まで考え抜いて書く方もいらっしゃいます。
私はそうではありません。
むろん必要なことはしています。物語のテーマであるとか、それに合わせた筋、登場人物のキャラクター造形とか、事前に多くのものを考え用意します。
しかし、あまりに細かいところまでは考えませんし、書き始めると物語自体の命の動きというのか、多くは登場人物たちの行動に任せるところがあります。
彼らは物語の中で生きていて、勝手に行動します。
むろんそれを操作しようというのは、作家としてあります。ゼロにはできない。
しかし、すごく肝心なところで、ふっと書き手である自分が消失することがあります。
でも、もちろん書き続けている。
そうして紡がれた物語は、私の予想を裏切る展開になったり、思いがけない真実を切り出して見せたりしますし、なによりも
自分が考えて作るものよりも、格段に面白いのです。
何かが自分の書いている原稿用紙に降りてくる……勝手に物語ができる。
そのような感覚なのです。
もっとも初期はノートで、次が原稿用紙で、今はPCの文書作成ソフトで作る物語の中に、勝手にそれは生まれてくるのです。
これは高校時代だけではなく、その後もありました。
ただプロになってからは考えすぎていたようで、そのために話が小さくまとまってしまった傾向があります(1993年ごろまでか?)。
近年、それを強く実感したのは、三つのミュージカルの執筆時でした。
「最後の五匹」
「ヤオヨロズ」
「KAZEの道」
これらの執筆中に、この「降りてくる」感覚が強くありました。
とくに「ヤオヨロズ」は物語の8割以上が、勝手に出来上がっています。
このようなことを申し上げると、信じられないと感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、これには理由があります。
「ヤオヨロズ」を書き上げるための資料や歴史観といったものは、神話や古代史が好きだった私の中で、もう何十年もかけて醸成されていて、もう後は書くだけだったのです。
そのため着手したら、ほぼ自動的に出来上がったのです。
物語が降りてくるのなら、本人は何もしなくてよいのではなく、
技は磨いておかなければならない
知るべきことを知っておかねばならない
自分で考えるべきことはとことん考えておく必要がある
という前提があります。
そうやって自分が作るのは、「器」なのです。
その器に、物語が降りてくる。
器にものを降ろすためには、器を空っぽにしたほうが良く、器を空っぽにするというのはエゴを消すということなのです。
高校時代にもそれは降りてきましたが、当時の私の器では、やはりお恥ずかしい程度のものしか生み出せなかった。
つまり未熟な器のままでは、より大きなもの、深いものは受け入れられないのです。
でも、未熟な時でさえ、書いたことが、「執筆時には知りもしなかったある真実を描いていた」というようなことは、よくありました。
これは現実だけを考えたら、ありえないような偶然の一致です。
そういったことは、かならず「降りてきた時」に生まれているのです。
未熟ながら私は、高校時代に知ってしまったのです。
物語は自分が作るものではない。
それは自分がなくなった時に降りてくる。与えられる。
そうやって物語を受け取っているときの驚き、至福。
それは私の経験上、この世のほかのどのような喜びよりも豊かです。
逆に自分の考えにこだわり、何かに執着した作り方をすれば、そこには喜びはなく、物語もつまらない。
つまりこれは、エゴで書くとダメだということなのです。
考えてもよいのです。
とことん考えた先にインスピレーションが湧きます。
が、そのインスピレーションはたいてい、自分がふっと後ろに引いたとき、あるいは自分がなくなった時に入ってくるのです。
こういったことから、私はよく人に言います。
「あれは自分が書いたものではない」と。
もちろん執筆者は私ですが、私はどこか上の世界にある情報の受け皿=器にすぎない。
それをうまく受け取ることができたら、良いものが作れる。
すでに完成した物語が、上の世界のどこかにあり、私がうまく受信できればできるほど良くなる。
私はそれを受け取っていくだけなので、自分が書いているというのとは、実感としては違うのです。
それにはエゴが邪魔なのです。
器を空っぽにするために。
高校時代にこういう一種の書き手の法悦のようなものを得てしまい(作家ならこの種の感覚は多くの方が持っているはず)、私は確信したのです。
いわゆるこの物質世界だけではない、上位の世界がどこかにある。
それと私たちはつながっている。
つながることができる。
そう実感することで、幼年少年期の様々な心理的な問題は、私の中でかなり小さなものにすぎなくなっていました。
最高の宝物を与えられたので、過去、自分がさげすまれながらもつながっていたいと思っていたものは、すでに価値がなくなっていたのです。
そんなものはどうでもいい、くらいに。
なにかよくわからないが、上位の世界には私たちを常に見守り、援助の手を差し伸べ、恩寵をもたらしてくれる存在がある。
それを神様仏様、天使や菩薩という表現を取ることもできるでしょう。
プロデビュー後、作家として大きな挫折を迎えた時も、私はいつものこのことを考えていました。
自分はその恩寵を受け取るだけの器ではなかったのだと。
うまく自分を無にして、良い器になることができなかったからだと。
事実、その頃はそうでした。
でも、どこかで自分と世界(宇宙)はつながっているはずだと信じることができました。
成功体験だけに依存する自分では、もうとっくになくなっていたからです。
プロとしてうまく行かなくても、自分はあの体験を得られる存在なのだとしたら、それはやはり作家として誇らしく生きられる。
いつかそこへ戻れるのならば、それまでになんでもやってやろう(そうしてバイトに始まり、長年のホテル勤務となりました)。
おかしな言い方なのですが、自分がなくなるからこそ、誇らしくいられるのです。
逆にエゴにとらわれると、誇らしく生きられない。
念のために申し上げますが。
そういった上位の世界の存在に、何もかも任せればうまく行く、ということを申し上げたいのではありません。
先ほども申し上げたように、技術も知識も見識も自らが用意するものです。
そこには多くの努力や時間が必要となります。
でも、そのうえで自分というエゴをなくすことができたら?
かならず恩寵が誰の上にも訪れるはずなのです。
これは作家業だけに限りません。
つまり自分の為すべきことを為し、一生懸命に尽くせば、その先にふっと自分が後ろに下がり、大きな恩寵を受けられる瞬間が、誰にもあるということです。
今は望むような成功が訪れていなくても、その望むことに集中し、力を尽くすことです。
その作業がどこかでエゴではなく、大きなものを受け取れる空っぽの器となることがあります。
その時には必ず大きな成果を得られる。
そのときにたいがい、自分がやった! と思いがちですが、本当は何かの恩寵です。
むろん世の中には、そういうルートではない成功のやり方を実践なさっている方もいます。
エゴを押し通すことで他者を押しのけてでも勝つ、というのは、そういうやり方になるでしょう。
私が今メッセージを送りたいのは、それができない方、自信がない方、自己肯定が弱い方です。
これは事業的・仕事的な成功だけではありません。
家庭環境や過去の人間関係から、良い伴侶に恵まれない方なども同様です。
※ 原因が過去生由来の場合もあります。
私の申し上げたいことが伝わるでしょうか。
人は誰でも皆、恩寵を受けられる存在だということです。
愛される存在。
誰か特別な人間だけが恩寵を受けているのではない、ということです。
今現実に、隣に愛を感じさせてくれる存在がいなくても、誰もがこの宇宙とつながっていて、上位の世界の見守りを受けています。
その世界からは、かならず、すでに愛されている。
それを信じてみてください。
そのような上位の世界は信じられない、とお思いになる方は、そのような世界を信じている私を信じてみてください。
いや、私でなくてもよくて、そのような生き方をしている人たちを。
そんな身近な誰かを。
でも、本当はみんな知っているはずです。
よく考えてみてください。
小さなことで忘れ去ってしまっているかもしれませんが、過去、何かに導かれたことはありませんか?
不思議な出会いを得たことはありませんか?
危ういところを救われたことはありませんか?
自分というエゴが後ろに引いたときに、とても良い考えが浮かんだことはありませんか?
私が執筆の法悦を得たように、何かをしているときに心が震えるほどの喜びを感じたことはありませんか?
それらはすでに、あなたが恩寵を受けている証拠です。
その一つ一つの体験を、自分の中に探してください。
自分がこの世界の中で愛される存在だという証拠を見つけてください。
かならずそれはあります。
そのとき、とらわれていたこれまでの自分という殻が、かつての私のように少しずつ取れていくはずです。
いつか、大きく脱皮できるはず。
いや、今すぐにでもできるのです。
エゴにとらわれず、ただ今為したいこと・為さねばならないことに集中すればいい。
そのときには、あなたはすでにまことの安心感の中で生きていられる。
ふっと心の中に、うまくはめ込まれるものを感じるはずです。
それを感じられたらしめたもの。
それはいずれ大きなものへと成長を遂げ、さらに強いまことの安心感の中へ導くでしょう。
そのときには、本当にあなたを愛する誰かが、現にそばにいるかもしれません。
長い記事にお付き合いいただき、ありがとうございました。
うまく伝わればよいのですが。
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