ヤオヨロズ 13 第3章の4と5 |  ZEPHYR

 ZEPHYR

ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

 ――イヨイヨダナ。
 夜半から降り始めた雪は、勢いを増すこともないかわり、止むこともなく、ずっと静かに振り続けていた。すっかり葉を落としてしまった木の枝にも、わずかに雪が積もっている。その枝の一つに、大きなカラスの姿があった。
 スサノヲはうんざりしたようにそれを見上げ、毒づいた。「このストーカー野郎が」
 ――ハッハッハ。ズイブント洒落タ言葉ヲ知ッテオルナ。
「クシナーダが言うには、二千年ほどたつと、自分自身が生きることよりも、他人に執着して生きるよすがにする人間が現れるそうだ」
 ――ソナタニ縁(ヨスガ)ハアル。ガ、ソレユエニ見守ッテオルダケノコト。ワレハ何モソナタニ要求ハセヌ。
「楽しんでいるだろう」
 ――ソレハワレデハナイ。ワレノソバニオル女子(おなご)ガ面白ガッテオルノダ。
「ウズメとかいうやつだろう。クシナーダが言っていた。この頃、ずっとウズメ様の気配を感じると」
 ――ウズメダケデハナイゾ。アラユル存在ガ見テオル。
「鬱陶しい」スサノヲは言葉ほど苛立っているわけではなかった。むしろ、カラスとの対話を面白がっている様子すらあった。「なんのために、そのように見ているのだ」
 ――ワレラガイナケレバ、ソナタラノ世界ハ存在スルコトサエ危ウイ。見守ル者ガアッテコソ、コノ世界ハ成立スル。
「……そういうことか」
 ――コノ根ネ世界ハ、ジツハトテモ危ウイモノダ。ウタカタノ夢。見守ル者ナクシテ、コノ世界ガ成リ立ツコトハアリ得ヌ。
「しかし!」スサノヲは言葉を荒らげた。「ここで生きる者には、これは夢ではない。人の死や悲しみ、飢えや病や老いの苦しみ、すべてが現実だ」
 カラスは喉の奥で笑うようなヒビキを伝えてきた。
 ――オウオウ。ソナタノ言ウ通リジャ。イイゾイイゾ。
「なにが『いいぞいいぞ』だ」
 ――よもつひらさかヲ抜ケ、イザナミ様ニ会ウテ来ルガヨイ。
 カラスは木の枝を飛び立った――いや、そのように見えた。実際には羽ばたいた瞬間には消えていた。
 静かだった。
 トリカミの里にはうっすらと雪が積もっている。巨大な柱が直立する場所から、広い里の風景を眺望すると、なにもかもが真っ白で美しかった。静寂が包み込んだ里を、里人が飼っている犬が歩いていく。
 あまりにも静かだった。
 スサノヲはアシナヅチの居宅へ向かった。そこからはすでに人の話し声が聞こえていた。
「だから、俺も行くって」と、強硬に主張しているのはイタケルだった。「このところ里の周辺がおかしいんだ。例のカナンのやつら、妙に殺気立っている。なにがあるか、わかんねえ」
「だからこそ、イタケルには里に残って、皆を守ってほしいのです」返すのはクシナーダだった。
「岩戸を開けるのは、わしとクシナーダ、それにミツハがおれば良い。――お、スサノヲ、参ったか」
 アシナヅチの言葉を受けて、皆が戸口を振り返った。その視線を浴びながら、スサノヲは中に入った。クシナーダが少し動いて空けた場所へ座る。アシナヅチ、ナオヒ、クシナーダ、イタケル、ミツハ、そしてオシヲまでいた。
「なにを……?」話し合っていたのか、という問いは、どちらかというと確認のためだった。
「おめーをあの世に送るのに、誰が行くかって話だ」と、イタケル。
「あの世……」
「ヨミの国です」と、クシナーダが修正する。
「同じだろう」
「同じではありません」
「お、俺も行かせてください!」
 オシヲが両手をついて、前のめりになって言った。が、アシナヅチは、「だめじゃだめじゃ」と一蹴した。
「なぜですか。みんなを守るためです」
「おまえごときがなにを守るじゃ」
「いや、オシヲはこのところ剣の練習だってしてるし、へたな大人より、よっぽど頼りになるぜ」
 イタケルの言葉に、長く垂れ下がった白い眉毛の下でアシナヅチの眼が動いた。
「剣の練習?」
「あ、いや、その……」
「イタケル、おまえはあのオロチ兵たちの剣を捨ててなかったのか」
「――い、いや、だってもったいねえだろう」
「お、俺がイタケルに頼んだんです! 剣を教えてくれって!」
 弁護に回ったオシヲに、アシナヅチとクシナーダは顔を見合わせた。
「剣を持つ者は剣によって滅びる」と、口を挟んだのはナオヒだった。「アシナヅチ、そなたのいうこと正論じゃ。しかしな、ツクシの有様を見てみるがいい。毎日のように侵略を受け、生まれ育った土地や、愛する親兄弟を奪われ、それでも剣を取らずにすむほど、現実はゆるくはないぞえ」
「わかっておるわ、そのようなこと」
「スサノヲをヨミに送った後が心配なんだよ」イタケルが助勢を得て、勢い込んだ。「岩戸は里から離れた山ん中にある。そんなところにアシナヅチ様とクシナーダ、ミツハだけなんて、危険すぎる」
「それはたしかにそう思うが」と、スサノヲはアシナヅチを見た。
 そしてクシナーダの横顔も同時に、その視野に収めた。彼女は表情をこわばらせ、白い顔をさらに白くしていた。彼女にしては珍しいほど、何か張りつめたものを感じさせた。
「仕方ない……。イタケル、オシヲ、約束せよ」アシナヅチが告げた。「どのようなことがあろうと、自ら剣を抜くな。良いか?」
「あ、ああ」
 イタケルとオシヲは顔を見合わせた。二人はうなずき合った。
「わかった。約束する」
「よかろう。では、二人に同行してもらおうか」
 やった、と言わんばかりに、イタケルとオシヲは互いの手を叩き合った。
「わしは足が悪い。ニギヒと共にここで留守番しておることにする」ナオヒが言った。「そのほうがよかろ? アシナヅチよ」
「そうじゃな。そうしてもらおう」
「岩戸まで陽があるうちに着いたほうがいい。雪も降っているし、そろそろ出かけなくては」イタケルが立ち上がった。
 クシナーダも無言で腰を上げた。アシナヅチの居宅を出、雪景色となったトリカミの里を見つめる。その眼差しが何を見ているのか、スサノヲはひどく胸騒ぎを覚えた。
 気配を察してか、家に籠っていた里人がおおぜい見送りに出てきていた。トリカミの里人は、なぜか勘の鋭い人間が多い。
「お気をつけて」
「かならずお帰り下さいよ」
 そんな声があちこちからかけられた。そんな中から、スクナがやって来るのが見えた。
「スサノヲ……」少女の眼はうるんでいた。「絶対、帰って来てよ」
「ああ、心配するな」微笑し、頭に手を置く。
「絶対だよ」
「ああ」
 スクナにとって、スサノヲは親代わりのようなものだった。絶対のよりどころなのだ。
 スサノヲにとっても、スクナは小さな存在ではなかった。少女を助けることで、自分の中での何かが変わった。その後の流れもきっと変えた――。
 最初はあわれと思い、気まぐれに助けたにすぎなかった。
 しかし、助けるということが、自分のどこかに血を通わせた。それがきっと、クシナーダや今身の回りにいる人々とのつながりを生み出す源になったような、そんな気がしていた。
「おまえは大切な存在だ」そういうスサノヲの眼はやさしかった。「おまえが俺に与えてくれたものは、きっととても大きい。だから、おまえのところに必ず戻って来るよ」
 うん、とスクナはうなずいた。泣きそうな表情だ。
「準備はできた。行こうか」イタケルが声をかけてきた。肩に長い大きな縄のようなものを担いでいた。
 スサノヲはスクナをその場に残し、歩き出した。里を出て行く道筋に、ニギヒと彼の従者数人の姿が見えた。イト国の皇子である彼は、この場に逗留するというナオヒのわがままにつき合され、この十日ほど、トリカミに留まっていた。アソの大巫女一人を残して帰還もできないからだ。
 ニギヒは部下から何事か報告を受けていた。部下に指示を与え、その者が離れて行くのと、スサノヲたちが彼のそばに近寄るのはほぼ同じだった。
「お気をつけて」と、ニギヒは言った。「ヨミの国なるもの……わたしも一度、この目で見てみたいものです」
「そんなに気軽に行く場所ではない」と、アシナヅチ。
「ナオヒ様がこの場におられる理由、呑み込めてきました。お留守の間、わたしもナオヒ様とご一緒に、この地をお守りいたします」
「よろしく頼む」
 アシナヅチの言葉と共に、一同はニギヒをその場に残し、再び歩き出した。
 何かが起きようとしている。
 それは全員が感じ取っていた。

 岩戸への道。
 それはトリカミの里から川の支流の一つを、上流へと遡る道筋だった。獣道のような道を歩き、時に瀬を渡り、岩場を登らねばならなかった。大の男のイタケルでさえ、息が切れる道のりだ。とりわけ足腰の弱っているアシナヅチには厳しく、イタケルとスサノヲが交代で彼を背負う場面も多かった。
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 途中、一行は一頭のクマに遭遇した。先頭を歩くオシヲが気づき、静かにして山の斜面を歩くクマが行きすぎるのを待った。
「おかしいな……。もう冬眠している頃なんだが」イタケルがつぶやいた。「今年は栗とか、木の実も豊富だった。腹が減っているはずはないんだが」
「彼らも気づいているのです」クシナーダが言った。「安心して眠れる状況ではないと」
「山がざわざわしています」ミツハもそんなことを言い、自らの胸を抱くようにしていた。
 クマをやり過ごし、斜面の険しい道を登りきった彼らは、もう岩戸を目前にしていた。道を下って行くと、一度離れていた渓流沿いにまた近づくのが音で分かった。
 夕暮れが迫って来ていたが、眼下に川の流れが見えた。
「あれが、岩戸じゃ」アシナヅチが指差した。
 それは……。
 まさに巨大な一枚の岩だった。
 それが渓谷をふさぐように、縦に突き刺さっている。
 谷間を埋める一枚の板のように。ただ、それは板というには、あまりにも巨大であり、岩盤の一部が切り出され、そこにはまり込んでいるように見えた。その一枚の大きな壁が、川を上流と下流で隔てていた。
 ただ、流れはその岩の下を通過してきているのだろう。とだえることなく、流れ続けている。
 が、視覚的にはその巨岩は、完全に渓谷と川を隔てているように見えた。
 巨岩のもとへと降りて行く道は、人の手によって明らかに手を加えられ、階段状になっていた。ここが祭祀場として、長く大切にされてきた証(あかし)だった。
 降りて行く途中、岩戸の前にの水場にいた白い影が動いた。
「あ……」と、オシヲが小さな声を上げた。
 ふわっとその白い影は羽を広げ、岩戸の向こう側へと飛び去って行った。首の長い鳥だった。
 あまりにも幻想的な光景だった。その鳥は、まるで神の遣いのように見え、これから岩戸を通り抜けようとするスサノヲを導くようだった。
 雪は、今はやんでいた。
 しかし、木々の枝に乗っている雪が、風に吹かれては細かい塵のように舞い落ちてきていた。それが岩戸の前に小さな泉のようになって溜まっている水面に、音もなく吸い込まれていく。ただ波紋だけを広げ。
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 言葉にできぬ霊気が、あたりには濃厚に立ちこめていた。
 ――なんという場だ。
 スサノヲはこの地上に降りて以来、初めて感じるほど強い〝神気〟に全身の皮膚が粟立つのを感じた。
 こんな神聖な場が現実に存在しているとは、にわかには信じがたかった。いや、すでにここは半分、地上ではないように思えた。
 あたりは急速に暗くなってきていた。
 もっとも日照時間の短い季節。しかも深い渓谷。
 闇の訪れは、あまりにも速やかである。
 イタケルとオシヲが持ってきた火打石を使い、可燃性の高い木屑に火を起こし、それを松明数本に移した。このような時のために用意されているのだろう。岩戸の近くに小屋があり、そこには薪も蓄えられていて、焚火も用意された。燃え盛る炎が、神聖なるその場を、さらに神秘的な光でゆらめかせた。
「用意ができました」
 小屋の中で着替えを済ませてきたクシナーダとミツハは、真っ白な衣装に身を包んでいた。ただ、クシナーダはその肩に、鮮やかな朱の領布(ひれ)をまとわせていた。
「もうよいかな」アシナヅチは渓谷の隙間にある、わずかばかりの空を見上げた。
 そこにはすでに太陽の光はなく、目を凝らせば、雲の切れ間に見える星さえあった。
「この岩戸の向こうに、ヒバという御山がある」アシナヅチは、スサノヲに向かって言った。「イザナミ様が眠る御山じゃ」
「イザナミ……母が?」
 スサノヲは戸惑った。彼にとり母は、天界に存在した大きなヒビキそのものだった。人ではなく、物質でもない。
「スサノヲよ、そなたが人の身としてこの地上に生まれた瞬間に、この地にも母なる存在が生まれたのじゃ」
「どういうことだ」
「母なくして、子は生まれぬ。道理であろうが」
「それはそうだが」
「スサノヲ、いつぞや、月の夜にお話しいたしました、わたくしたちの民に伝わる古い物語を覚えておられますか?」クシナーダが言った。「天界で乱暴を働き、ヒビキの女神を岩戸に閉じ込めた弟神のことを」
「覚えている」
「その神の名は、スサノヲ、と伝えられています」
「な……」
 その神話上の神の名を、たまたまスサノヲはスサの地で、エステルの弟、エフライムによって与えられた――?
 ――スサノヲ?
 初めて出会ったとき、その名を聞き、クシナーダが目を丸くし、何度か頷いていた光景がよみがえる。
「あなたの物語が生まれた瞬間、母なるイザナミ様もこの地上にすでに在ったのです。歴史はすべて一瞬にして生まれたのです、きっと」
「母が地上に……」
「それがいつの時代なのかは定かではありませぬ。イザナミ様はこの地上のすべて、この星のすべてを生み賜うた母神様。そしてこの世を去られ、ヨミにおさまられた大神。スサノヲはその母のことを想い、天界で〝泣きいさちる神〟でした。母に会いたいと」
「母に会いたいと……」
「けれど、わたくしたちの物語は伝えておりませぬ。天界を追いやられ、母に会いに行かれたはずのスサノヲの物語を。スサノヲは――いえ、あなたは――」
 クシナーダの手が、スサノヲの胸に触れた。
「その物語の本当の続きを紡ぎに来られたのです、きっと」
 クシナーダの掌から、熱いと感じるほどのものが伝わってきて、スサノヲの心臓を打った。
 クシナーダ、アシナヅチ、ミツハ、イタケル、オシヲ。
 十の瞳がスサノヲを見つめていた。
「俺は……神などではない。ただ、天界から零(こぼ)れ落ちてきただけの男だ。少しばかり人より力に優れているにすぎぬ」
「わかっています。今のあなたは天にある神などではありません。人です。ただ、稀有な生まれをしたにすぎません。なぜなら――」クシナーダは他のトリカミの同胞を振り返った。「人はみな、天から零れ落ちたものだからです。それはご存知でしょう」
「それは……わかる」
「わたくしたちは幾度も幾度も生まれ変わり、幾多の人生を生きる御霊の一つです。あなたも、わたくしも……」
 見つめるクシナーダの瞳の中に吸い込まれそうだった。
「いつかの時代より、あるいは始源の時より、イザナミ様はあの御山に眠っておられます。天界の〝今〟は、この地上世界の〝すべての時〟……そうなのでしょう? スサノヲ」
「そなたの言う通りだ。俺に母なるものがあるのなら、たしかにイザナミもこの地上存在していなければならない」スサノヲは振り返り、岩戸の向こうにあるはずの、すでに闇の中に沈んでいる山の姿を想った。「母があそこに……」
「ヒバはヨミそのものとも言える」アシナヅチが言った。「これよりこの岩戸を開けば、ヨミへ通じるヨモツヒラサカも開かれる。したが、スサノヲよ。この岩戸を開いておれる時間、それは今宵限りじゃ」
「今宵限り」
「この季節の新月の夜しか、ヨモツヒラサカは開かぬ。夜が明ければ、岩戸は自然と閉じる。そうなれば、そなたはもはや地上には戻れぬ」
「わかった。……しかし、どうやってあの岩戸を開くのだ」
 スサノヲは松明の炎に照らされる巨岩を仰いだ。それは決して動かすことなどかなわぬ重量感を備えていた。渓谷にがっちりとはまり込んでいて、たとえ二十人三十人の男たちが渾身の力をふるっても決して微動だにしないだろう。
「ご心配には及びません。さあ、アシナヅチ様。始めましょうか」
 うむ、とアシナヅチはうなずいた。
 ミツハが手にしていた笛を顔の横に添えた。
 ひと呼吸あった。
 ミツハの奏でる笛の音が、冴えざえと渓谷に響き渡った。神気の漂う水場に、それは波長となって広がった。岩戸の巨岩の前にある大きな岩の一つの上にクシナーダが登る。ミツハの笛の調べに合わせ、ゆっくりと舞い始める。
 さながらそれは天女の舞いだった。彼女の身に付けている白い衣装が、ふわっと風をはらんで羽衣のようだった。
 最初、クシナーダは硬い表情で踊り始めた。が、やがてそれは柔らかいものへと変わり、表情には静かな悦びに満ちたものが広がって行った。踊ることに夢中になり、やがては忘我のような境地へと変わっていく。その時、クシナーダの身には何かが降りてきたように思えた。
 いや、実際、スサノヲの眼にはクシナーダの身体がすうっと半透明のようになり、その身体に重なり合って踊る女神の如き存在が視えた
 その女神は輝くような裸身だった。
 あまりのその美しさに、スサノヲは呆然となった。女神は嬉々として踊っていた。その女神の喜悦が、今はそのままクシナーダへ伝播していた。
 その女神の姿が見えているのかどうか、イタケルとオシヲが声を上げた。
「お、おい……あれ」
 見ると、岩戸の巨岩が透けはじめていた。あれほど密度が高く、強固そうに見えた岩盤が、まるで薄い紙のように透けたり、また元に戻ったりを繰り返していた。
 おおおおおおおお―――――!
 両手を胸の前で組み合わせたアシナヅチが、地の底から湧き出るような声を発した。老体の肉体を通じ、蒼白いオーラのようなものがほとばしり、それは二つに割れて岩戸の左右両端につながったように見えた。
 すると岩戸は透明化したままの状態で定着した。
 笛の調べは終わっていた。
 クシナーダは岩の上で、崩れるようになっていた。
「クシナーダ……」スサノヲは岩に上がり、彼女の肩に手をかけた。「大丈夫か」
「……はい。心配ありません」
 そう言いながら立ち上がろうとするが、消耗は隠しがたかった。スサノヲの手に支えられ、ようやく岩を降りてくる。
「大丈夫です。ウズメ様と共鳴したので、戻るのに少し時間がかかるだけです。それよりもスサノヲ、これを――」クシナーダは肩からかけていた朱の領布を、スサノヲの首に回してかけるため、伸び上がった。「これがヨミの亡者たちからあなたを守ります。さあ、早く行ってください。時間が……」
 スサノヲは自分の肩から掛けられた領布を握った。
 岩戸を振り返った。それは今も完全に透明化していて、その先の風景が見えていた。
 その先には岩戸を上から見たときにあった、岩戸に隔てられた渓谷の向こう側があるだけだった。
「本当にこの先に……?」
「何をしておる。ヨモツヒラサカはすでに開いておる」
 アシナヅチに叱咤され、スサノヲは動き出した。クシナーダから手を離すのが忍びなかった。が、このままではいられなかった。岩戸の前の水場へ、ざぶざぶと入っていく。水は恐ろしく冷たかった。
 岩戸の先には、ただの渓谷しかない。そこにあったはずの岩……手を伸ばすと、そこに吸い込まれたスサノヲの手は見えなくなった。引くと、元に戻る。
 あきらかに空間がそこで切り替わっていた。
 スサノヲは振り返り、一人一人を見つめた。
「スサノヲ様、どうか御無事で……」ミツハが祈るように言った。
「さっさと戻って来いよ」と、イタケル。
 スサノヲはうなずき、最後にクシナーダと目を合わせた。そして、彼女の目を振り切るように、水を撥ね、岩戸の中へ飛び込んで行った。彼の姿は、異なる空間に呑み込まれ、すぐに見えなくなった。
「スサノヲ……」クシナーダは岩戸の前にしゃがみこんだ。彼女もまた祈るように。
「イタケル、早くしめ縄を。その左右に張るのじゃ」
 アシナヅチに命じられ、イタケルが担いでいた縄を持って、「お、おお」と動き出した。彼自身、岩戸を開くところを見るのは初めてで、何もかも要領を得ているわけではなかった。岩戸の前に左右に張り巡らす。
「これで、いいのか」
「ああ、こうしておかねば、わしの張った結界だけでは心もとない」
 そのときだった。
 彼らの頭上に人の気配がした。甲冑が触れ合う音。男たちの話し声。彼らが松明の光を見つけ、やって来ているのは明らかだった。
「こいつはやばいぜ」イタケルが言い、腰の剣に手をかけた。
 急な石段を降りてくる男たちは、四人の男たちだった。その武装から、一目でカナンの兵士と分かった。
「おまえたち、このような場所でいったい何をしている……」
 降りてきた男たちはいずれも血濡れた剣を持ち、そして息も絶え絶えだった。血走った眼をぎらつかせ、警戒心をみなぎらせていた。傷を負っている者もいた。
「わしらはたたこの聖地で供え物をしておっただけのこと」と、アシナヅチが言った。
「こんな夜にか」
「おい、こんな連中、放っておこう。追手が来るぞ」他の兵士が言った。「あの化け物みたいなのに襲われたら、ひとたまりもな――」
 ぶわっと黒い風圧が、空から降ってきた。カナンの兵士たちは、そこに出現した巨漢を見て、悲鳴を上げた。
 黒頭巾の巨漢は、残忍な笑みを浮かべ、両手を大きく広げ、カナン兵たちの前に立ちはだかった。
 カガチだった。




 満を持して、カガチはカナンに攻勢をかけた。
 イズモの東方より、二つに分けられたタジマ、イナバ、コシを主力とする部隊、そして南からキビ、ヒメジ、ヤマトらを中心とする大戦力が侵攻し、それぞれ初期のカナンの防衛線を突き崩した。
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 イズモを中心とするカナンは、この東と南二方向からの侵攻は、イズモの東側で合流し、そのまま西へ押してくるものと読んだ。それが地理的にもっともあり得る進路だったからだ。そのため、戦力のほとんどをその東の防衛に振り向けた。
 カガチの策略は、まさに図に当たった。その直後、タジマの水軍、コジマの水軍が北方よりやや遅れて侵攻したため、カナンの動揺は甚大なものとなった。
 こうして幾多の山野で戦いが繰り広げられ、オロチの連合軍は巨大な大蛇の如き勢いを得て、それぞれの峠を越え、イズモへと侵攻を果たした。
 そして、カガチの策略はそれにとどまらなかった。
「われらは西から峠を越える」
 総攻撃の前、直感のようにカガチは南のキビ方面から侵攻する部隊も二つに分け、そして西へ迂回する部隊の指揮を自分が執った――いや、カヤを奪還したときのように、自らが先陣を切った。数で勝るという確信があるからこその戦術だったが、なによりも己自身に頼むところが大きかった。
 ヒバの山の近く。
 カガチの部隊は中枢である巫女たちを抱えての峠越えを敢行した。脚を止められるほどの雪でなかったのが幸いし、侵攻の時期を合わせ、手薄なカナンの防衛線に襲いかかった。その峠はトリカミの南の山中にあり、エステルはトリカミに手を触れないというスサノヲとの約定を守っていたため、この南の峠についての防衛線は、きわめて手薄だったのだ。
 そしてカガチ自身、今はトリカミの聖地、岩戸の前に立っていた。
 血に飢えた、破壊の欲望の化身として。

「おや――これはアシナヅチ様。久しいのぉ」カナン兵を追って乱入したカガチは、そこにいる面々を見渡し、言った。「ほお。巫女様もおるではないか。たしかクシナーダと申したな」
「カガチ……」イタケルはほとんど剣を抜きかけ、アシナヅチとの約束を思い出したのか、思いとどまり、ただクシナーダとアシナヅチを守るべく動いた。
 オシヲもそれに倣う。オシヲはミツハをかばうように立っていた。
 頭上から声が降ってきた。
「カガチ様! カナンのやつらは!?」
「ここにおるわ」
 オロチ兵たちが十数名、石段を駆け下りてくる。多勢に無勢。カナン兵たちの進退は窮まった。彼らの背後には冷たい渓流しかなく、川も岩場だらけである。
「カガチ、ここでの殺し合いはやめるのじゃ」アシナヅチが言った。「ここはわれらの聖地。ここを血で汚してはならぬ」
「どこであろうが、知ったことではないわ。――やれ」
 カガチの命を受け、オロチ兵はカナン兵に斬りかかった。剣の弾ける音。火花。そして、悲鳴。
 オロチの剣は以前よりも鍛えられていた。カナンとの剣戟に耐え、しかもオロチ兵たちは首や関節など、鎧の隙間を狙うよう訓練されていた。
 一人、また一人と打ち倒され、その地が聖地の水を赤く染めた。
 逃げ場を失っているカナン兵はしゃにむに突進し、囲みを破った。そのうちの一人はカガチによって、首を切り飛ばされた。が、もう一人は岩戸のある方、アシナヅチやクシナーダのいる方へ走った。今は消えている岩戸の先へ逃げようとしたのだ。
 だが、他のオロチ兵たちが追いかけた。
「危ねえ!」イタケルが叫び、アシナヅチやクシナーダをかばいながら守ろうと動いた。
 殺到するオロチ兵が、カナン兵の背後から襲った。一撃二撃は鎧によって守られた。首を狙って横払いに振るわれた剣をかろうじてかわす。
 空振りに終わったオロチ兵のその剣は、結界のしめ縄を切った。
「いかん! 結界が!」アシナヅチが大声を上げ、岩戸に近づいた。
 その瞬間、オロチ兵が突きだした剣が、動いたアシナヅチの胴を貫き、最後のカナン兵も別な者に首を貫かれた。
 息を呑む一瞬、そしてその直後、ミツハの悲鳴が上がった。
 岩戸の前に、カナン兵とアシナヅチは折り重なるように倒れた。
「アシナヅチ様!」そばにいたクシナーダが取りすがった。「アシナヅチ様!」
「……てめーら」イタケルは双眸を燃え上がるように光らせ、振り返った。「許さねえ……アワジや、みんなの恨み……」
 イタケルは剣をついに抜いた。振りかぶり、カガチに向けて叩きつけた。あっさりとカガチはそれを弾き返した。イタケルはもう一度、それを繰り返したが、次には剣が折れた。彼の手元には短い刃と柄しか残らなかった。
 カガチの持つ、ゆるいそりを持つ剣は、怪しい光を放っていた。
「ちくしょう……」
 イタケルは素手で打ちかかって行こうとした。だが、オロチ兵たちが次々に攻撃を仕掛けてきて、逃げ回らなければならなかった。オシヲが以前のオロチの剣を持ち、加勢しようとするが、他の兵に「ガキがっ」と罵られながら、あっけなく剣を弾き飛ばされる。
「オシヲ!」
 それを見たミツハの身体が、兵とオシヲの隙間に入り込んだ。自ら盾となって、彼女は真っ白な衣装を縦に割かれた。血しぶきと共にミツハはその場に崩れた。
「おやめなさい!」
 渓谷に鋭い言霊(ことだま)が響き渡った。クシナーダがアシナヅチのそばで、その声の鞭をふるい、兵たちの動きを止めたのだった。さらにオシヲに斬りかかろうとしていた兵も硬直した。
「ミツハ! ミツハ――ッ!!」
 喉が張り裂けるほどの絶叫をオシヲは上げ、彼女に取りすがった。
「オシヲ……」彼女はその手でオシヲの顔に触れようとした。「大好き……オシ……」
 彼女のその手は、オシヲの顔に触れることなく地に落ちた。
「ミツハ……おお……ミツハ――!」
 アシナヅチも息をしているのが不思議なほどの深手だった。そのアシナヅチから離れるのはあまりにも心残りだったが、クシナーダは立ち上がって、カガチと対峙しなければならなかった。
「カガチ、わたくしたちの聖域を汚し、里の者を殺め……これ以上の何をしようというのですか」
 カガチの剣だ、とクシナーダは視た。フツノミタマの剣。
 あれはスサノヲの〝力〟だという、言われもない直観がひらめいた。そして今のカガチは……。
〝鬼神〟であった。
 黒頭巾の下に隠してはいるが、カガチの全身からは禍々しい怨霊の如き〝力〟が溢れ出していた。しかし、その〝力〟はクシナーダの前には寄りつくことはできず、押し返されていた。
 その見えない世界の力関係は、カガチも感じているようだった。
「トリカミの里には手を出す予定ではなかった」カガチは言った。「が、この冬も巫女を一人、貰い受けるつもりではあった。それもあって、この峠を越えてきたのだ」
「わたくしは今、ここを離れるわけには行きませぬ」
「ならば、この二人の男も殺す。あるいはトリカミの里へ行き、別な巫女をさらってきてもよい」
 今、自分がこの場を離れたら……クシナーダは冷水を浴びる心地で考えた。取り返しのつかないことが起きるかもしれなかった。
 しかし、拒否の選択はできなかった。
 それに……クシナーダは今のカガチの姿の中に、別なものを視ていた。それは彼を押し包む怨念的な〝力〟である黒い霧のようなものの中にあるものだった。それはきわめて透視しにくいものだったが、彼女には視えていた。その常闇(とこやみ)のような空間で、苦悶の表情を浮かべる男の……いや……
 ――子供?
 泣き叫ぶ子供の姿が。
「わかりました。一緒にまいりましょう。これ以上、トリカミの里には一指も触れてはなりませぬ」
「約束しよう」
「イタケル、オシヲ……アシナヅチ様のことをお願いします。決して短慮に走らず、スサノヲの帰りを待ってください。いいですね」
 そう言い残し、クシナーダはその場を離れた。そのときに、わずかにアシナヅチを振り返った。アシナヅチがうなずくのが見えた。
「さすがトリカミの……いや、ワの国至高の巫女じゃ。おい、そいつらの甲冑をはぎ取れ。使えるものは使え」
 カガチの命令で、死体からカナンの鎧が奪われた。見ればすでに、カナンの鎧を着けている者もいる。カナンは明らかに劣勢なのだ。
 その間、クシナーダはミツハの亡骸のそばに寄り添い、涙した。そして、イタケルにアシナヅチのことを託した。
 カガチと兵らは、クシナーダを連行し、石段を上がって行った。上のほうが騒々しかった。やや遅れて侵攻してきているオロチの部隊と合流したようだった。
「くそ……」イタケルはみずからのふがいなさを呪い、罵っていた。
 オシヲはずっとミツハの身体を抱きしめていた。そして、闇をずっと見つめ続けていた。
 許さない……俺は絶対に奴らを許さない……。
 まるで呪文のようにオシヲの心の中で、同じ言葉が繰り返されていた。
 う……という呻きが上がった。アシナヅチだった。
「アシナヅチ様……だ、大丈夫か」イタケルは駆け寄った。
「大丈夫な……わけなかろう」
「そ、そ、そりゃあ、そうだけど、だ、大丈夫だよ、俺が里まで運ぶから。すぐに良くなるさ。スクナがきっといい薬草、探してくれるからさ」
 まったく説得力のない言葉を埒もなくしゃべるしかなかった。彼は泣いていた。手は震え、やがて嗚咽が止まらなくなってきていた。
「よいか。クシナーダに言われた通りにせよ……。一時の感情に呑まれてはならぬ」
「あ、ああ、わかってるよ」
「わかってなどおらぬだろう……おまえはいつも、いつも、やんちゃばかりしおって……言うことを聞かぬ洟垂れガキじゃった」
「あ、ああ。そうだな」
「わしの最後の望みじゃ……約束を、守ってくれ……」
「わ、わかった。けどよ、アシナヅチ様がいてくれなきゃ、ダメだぜ。俺、叱ってくれる人、いなくなるじゃんか」
「……失われるものなど、いっさいない……わしは十分に生きた。そろそろ、楽にさせてくれ……」
 アシナヅチは目を閉じた。
「ア、アシナヅチ様……」
 滂沱と涙が溢れ出し、イタケルは、わあああ、と泣き喚いた。
 同時にオシヲもまた叫んだ。
 それは悲しみと呪詛の咆哮だった。

 悲しみと
 憎しみが
 満ちた。

 そして
 岩戸は破れた。

 彼らの背後の岩戸から、何かが溢れ出してきていた。カガチが身にまとう黒いオーラにも似た瘴気のようなものだった。アシナヅチとクシナーダが張った結界の外へ、まるで長いカマキリの腕のような四肢が、空間をこじ開けるように、にじり出てくる。引き裂いたその隙間から、底光りする巨大な双眸が覗いた。
 お喋りが始まった。それは人語をものすごく高速化したようににわかには聞き取れない、甲高く神経に触る声だった。
 女のお喋りが聞こえる、とイタケルは思った。涙に濡れた顔を上げ、彼は不思議な思いにとらわれた。同時にものすごく冷たい、背中や首筋の皮膚に突き刺さってくる不快なものを感じた。本能的な嫌悪感と共に、彼は振り返った。
 何かがそこにはいた。
 イタケルには霊視などできなかった。が、その彼でさえ、その場に佇む異様な亡霊の如きものの存在は感じることができた。
 もし霊覚のある人間がいたならば、恐怖で卒倒したかもしれない。
 異様に長い四肢を備え、闇の毒気を衣装として身にまとった、ガス生命体のような存在だった。毒々しい瘴気が渦巻いてその身を形成している。
 イタケルは見た。誰もいないはずの水場が、何者かの足によって波立ち、そしてその足が前へ前へと運ばれていくことで水が撥ねる様子を。
 その数は増えていた。一人二人三人……。
 うっとイタケルは口を抑えた。耐え難い嫌悪が、胃の中身を逆流させたのだ。
「オシヲ……」
 見るとオシヲは、両手で頭を抱えていた。割れるような痛みに耐えているのだ。

 ――ワレラニ触レルナ。
 ――触レレバ腐レル。
 ――ワレラハ死ノ使イ。
 ――触レレバ死ヌ。
 ――触レレバ滅ビル。
 ――触レタイカ?
 ――愚カナ人ヨ。
 ――地ノ底ノ、ワレラ、死ノチカラ。

 八つの禍津神(まがつかみ)がそこに佇んでいた。
 彼らは封印を解かれ、世に飛散して行った。


   ――第3章 了


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