ヤオヨロズ 11  第3章の1と2 |  ZEPHYR

 ZEPHYR

ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

ヤオヨロズま~め知識
ヤオヨロズあらすじ&登場人物
をご参照ください。
今回も二話分のUPです。お楽しみください。


◇◆◇第3章 黄泉の扉◇◆◇




「オシヲ、クシナーダ様を知らない?」
 ミツハに声をかけられ、オシヲはドキッとしながら足を止めた。
「あ、ああ。そういえば、さっきスクナと一緒に北田のほうへ行ったようだけど」
「呼んできてくれる? アシナヅチ様のところにご来客なの。スサノヲ様も北田にいらっしゃるはずだから、ご一緒にお呼びして」
「わかった」オシヲはミツハの頼みに応えられる喜びを胸に走り出した。とてもささやかなことだが、彼には重要なことだった。
 ミツハは十四、オシヲは十三である。幼いころから姉弟同然に育ってきたが、ある時期からミツハは巫女としての素養を見込まれ、他の子供たちとは違った育てられ方をするようになった。それ以来、若干の距離ができてしまったが、オシヲはずっと、少しだけお姉さんのミツハのことを、同じ里の中でも常に目で追いかけていた。
 おっとりとしているが、いつもにこにことして、優しい笑顔が絶えないミツハ。
 ミツハに認められる男になりたい。そんなことも、いつの間にか思うようになっていた。
 だから、イタケルにもこっそり教えてもらい、剣を使う練習もしていた。里には今、以前カナンによって殺されたオロチの兵が持っていた剣が十本ほどあった。それを使って、日々、鍛錬していた。
 ミツハや里は俺が守るんだ。そんな想いが、日々、きな臭い雰囲気が里の周辺に蔓延するにつれ、強くなっていた。
 本当はスサノヲに剣を教えてもらいたかった。しかし、カナンの兵士たちがやってきたときに見せたスサノヲの身のこなしを見たら、あまりにもすごすぎて、とてもおいそれとは頼めなかった。比較的寡黙なスサノヲには、少し近寄りがたいところもあった。
 スサノヲはすげえ、と素直にオシヲは思っている。そして、最近のスサノヲとクシナーダの様子を見ていたら、二人がとてもいい感じなのも、好ましく思っていた。
 二人はお互いを意識し合っていた。それは、はたで見ていたらわかる。どこにいても、かならずお互いの姿を眼で探している。そう、それはオシヲがミツハに対してそうだから、すぐにわかる。そして、たいていその姿を発見すると、クシナーダのほうがさりげなく近寄っていく。
 二人が寄り添って立っているのを見ていると、ふとこのままスサノヲがこの里に留まってくれて、クシナーダと結婚して、共に里を守ってくれたらいいのに、という思が強く湧いてくる。クシナーダは里の男たち全員の憧れのようなものだったが、一方でスサノヲがクシナーダにふさわしいということも、誰もが感じていた。
 北田へ行くと、とうに収穫を終えている稲田の畔に、やはりクシナーダとスサノヲの二人の姿があった。イタケルとスクナと一緒に話し込んでいる。スサノヲとイタケルは、新しく土地を開墾しているところで、腰を下ろして休憩中といった様子だ。汗が光っている。クシナーダとスクナは、彼らに水と焼き栗を届けに来たようだ。
「たしかに今年はカメムシがひどかった。まるで俺たちが虫を養ってやってるようなもんだ」と、イタケルが焼き栗を噛みながら説明している。「――お、どした、オシヲ」
 息を切らしながら、オシヲは要件を告げた。
「少しだけ待ってくださいね」と、クシナーダ。「スサノヲも今、ちょうど休憩されたところですから」
「そのカメムシというのは?」と、スサノヲ。
「稲を食う虫だ。くっせえ臭いをひり出しやがる。臭いがついたらとれねえ」
「稲作が広がるにつれて、カメムシも繁殖するのは当たり前だよ」と、スクナが言った。
「なんかいい手はないか、スクナ」
 イタケルはずっと年下のスクナにも意見を求めている。スクナは少女でも、今や大人たちも一目を置く存在だ。薬草のことだけではなく、大陸で様々な知識を習得してきていたからだ。
 とはいえ、スクナも「うーん」と悩んでいる。
「臭い……虫」クシナーダは稲作を行う土地を見ながら、ふっとどこか遠くを見る眼差しになった。「……いいアイディアがあります」
「あ、あいであ?」と、スクナ。
「ああ、ええと、いい考えです」クシナーダは言いなおした。「畔にハッカを植えてみてください」
「ハッカ? ハッカって、なんだ」
「スクナはよく知っています。清々しい香りのする野草です」
「それを植えたらどうなるの?」と、スクナ。
「カメムシが嫌がるのではないかと」
「ほんとか、それ」
「やってみてください。スクナ、ハッカのたくさんあるところ、知っているでしょう?」
「うん、知ってる」
「イタケル、スクナや他の里の人と一緒にハッカを集めて、畔に植えるようにしてください。来年の田植えに間に合うように」
「お、おお。わかった」
 クシナーダはスサノヲを振り返った。彼女の意を察して、スサノヲは立ち上がった。二人はオシヲを促して歩き出す。
「スサノヲ、大丈夫ですか。お疲れでは」
「大丈夫だ」
 クシナーダは、今日は緋色の衣をつけていた。スサノヲは藍色の衣を。どちらもクシナーダが野草や樹木の幹や葉から取った染料で染めたものだ。
「もしかして、また未来を見たのか」並んで歩きながら、スサノヲが訊く。
「あ、ばれちゃいました?」優しく笑うクシナーダの口の中に舌が見える。「ふっと幻視がやってくるのです。未来の稲田でこんなことをしている、こんなふうになっているというのが。ええと、なんというのか、こういうのを、かんにんぐ、というらしいです」
「かんにんぐ?」
「ずるをするというようなことらしいです」
「なるほど。いつも、ずるができれば便利だな」
「必要なければ見えませんよ」
「意外に、そうやって歴史というのは作られているのかもしれぬな」
 そんな会話をしながら歩く二人は、本当の夫婦のようだった。
 歩きながらクシナーダが歌い始める。

゚・*:.。..。.:*・゚星を渡る船
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ
゚・*:.。..。.:*・゚あなたの訪れ
゚・*:.。..。.:*・゚待っていた

゚・*:.。..。.:*・゚星を渡る船
゚・*:.。..。.:*・゚長い年月
゚・*:.。..。.:*・゚ただ、あなただけ
゚・*:.。..。.:*・゚待っていた

 星の物語の歌の一部だ。オシヲの胸の中にも、すっとヒビキが入ってきて、聞いているだけで癒される。クシナーダはこの歌が大好きで、幼いころからいつも歌っていた。
 クシナーダは恋をしている。オシヲは確信していた。彼女からは今、匂い立つような花の良い香りがするように思われた。全身で愛を表現している。
 その対象は、むろん、スサノヲだ。
 しかし、クシナーダのそれに比べ、スサノヲはあまりにも無愛想で、何も感じないかのように、平然とした顔をしていた。いや、そのふりをしているように思われた。
 オシヲはそんなスサノヲを見ると、後ろから蹴ってやりたくなるのだった。


 アシナヅチの居宅に近づくと、笑い声が響くのが耳に入った。中では年老いた巫女ともう一人の男が、アシナヅチと談笑していた。そのそばでミツハが柿の葉のお茶を入れている。
「あら、ナオヒ様。お早いお着きですね」クシナーダは入るなり言った。
「なんだ、クシナーダ、ナオヒが来るのを知っておったのか」と、アシナヅチが意外そうに言った。
「はい。わかっておりました」クシナーダはミツハのそばにやって来て、一緒にお茶の用意を手伝いながら続けた。「ああ、ナオヒ様のヒビキが近づいて来るな~と」
「言ってくれればよいものを」
「アシナヅチ様も気づいておられると思っておりました」
「クシナーダ、こやつもだんだん耄碌してきておるのじゃ」ナオヒは笑いながら指差した。「最近はこっちから〝語り〟かけても、ぜんぜん応えてくれん。ぼけじじいじゃな」
「なにを言う。あんたのほうこそ、わしよりも三つも年上のばばあじゃないか」
「女のほうが長生きで丈夫なんじゃよ」
 年寄り同士のなにやら異次元の会話がなされているのを聞きながら、スサノヲは老いた巫女の反対側に腰を下ろした。巫女の隣にいる男と目が合い、互いに目礼をする。三十代の壮健な男だった。
「オシヲ、お茶の葉とお湯飲みが足りないの」ミツハが戸口のところに立っているオシヲに声をかけた。「わたしの家にあるから、取りに行ってくれる?」
「ああ、いいよ」と、オシヲがよく響く声で答え、走って行った。
「ところで、ナオヒ様。アソの大巫女様がはるばるいったい何の御用で?」クシナーダはお茶を出しながら言った。
「感じるところがあってな」ナオヒはお茶の器を手に取り、目を細めてそれを飲んだ。が、飲みながらその眼はスサノヲを見つめていた。「――さぞかし猛々しいやつかと思いきや、意外にも静かなヒビキじゃな」
 自分のことを言われているのだと知り、スサノヲはただ黙って見つめ返した。
「じゃが、その静けさの中に火の山のような〝力〟がある。まるでアソのお山じゃ」
「アソ?」
「ツクシにあるものすごく大きな火の山です」と、クシナーダが説明する。
「わしはこちらへ来る間、ずっと感じておった。恐ろしく猛々しい、憎しみに満ちた〝力〟が荒れ狂っておるのを。てっきり、そなたがそれかと思うておったが、はて……?」
「フツノミタマのことでしょうか」
「クシナーダも感じておるのじゃな」
「はい。その言葉が繰り返し、繰り返し降りてくるのです。それはたぶん、今はキビのほうにあると思いますが……」クシナーダは遠慮がちにスサノヲを見た。「なにかこう、スサノヲが二人いるように思えるのです」
「俺が? 二人?」スサノヲは戸惑った。「その、フツノミタマとは?」
「わからん」と、アシナヅチが言った。「たぶん何かの憑代(よりしろ)のようなものじゃろう。わしにはそれが剣のように見える」
 ふん、とナオヒは鼻で笑った。「おや、じじいも気づいておったのか」
「当り前じゃ」
「しかし、問題はフツノミタマではなく、その〝力〟を悪しき思いで使う者がおるということじゃ。が、とりあえず、スサノヲ、そなたの姿を見て安堵したわ」
 ――剣? スサノヲの心にざわつくものがあった。
「すると、おぬしはわざわざツクシから、スサノヲの顔を見に参ったのか」
「ああ、うるさいじじいじゃ。そればかりではないわい」
 二人はあきらかに互いにじゃれ合うように揶揄し合っていた。それが二人なりの楽しいやり取りなのだ。
 そこへオシヲがお茶の葉と器を持って戻ってきた。クシナーダがミツハとお茶を用意しようとすると、その背にナオヒが言った。
「クシナーダ、聞いておくれ」
「はい」手を止めて、振り返る。
 オシヲが代わって、ミツハの手伝いをする。
「ツクシの争いは、それはひどいものじゃ。毎日毎日、各地で土地の奪い合いをしておる。ナの国も、イト国も、この争いを抑えることができぬ。ことに昔からツクシに住むクナ国との争いは、まこと惨いものじゃ」
「痛ましいことです」クシナーダの声も沈んだ。
「わしらは今日、ツクシを代表してここへ参った。この者は、イト国の皇子(みこ)、ニギヒじゃ」
 ミツハやオシヲが驚きに手を止めた。ニギヒはあらためてクシナーダに会釈をし、クシナーダは深く頭を下げた。
「この百年じゃ。大陸から雪崩を打つように、多くの民やモノが流れ込んできた。あまりにも急な変化はさまざまな軋轢を引き起こす。変化を受け入れ、あわよくば利益を得ようとする者。あるいは変化を拒み、それまでの暮らしにしがみつく者。どちらにせよ、対立と分裂が生まれてしまう。このままではワの国は、二つに引き裂かれるじゃろう。東西、あるいは南北に。もともとワの民として、共に生きてきたわれらが、争い合い、憎み合い、それをずっと繰り返すようになるやもしれん」
「まことに憂慮すべき事態です」と、ニギヒが後を続けた。「このままで良いとはだれも思うておりませぬ。が、止める手だてがございませぬ」
「そこでイト国王は、このニギヒをわしのところへ遣わした。ツクシの中で、イト国がいわば渡来した者たちの代表、わしはもともとワの国に住まう者の代表というわけじゃ」
「では、大巫女様とイト国との間で良いお話ができたのでは?」
「なかなか簡単ではない。ことはツクシだけでは収まらぬ。もうそういう時代ではないのじゃ、クシナーダ」
「と申されますと?」
「ツクシではもう殺し合いが過ぎておる。家族や愛する者を殺されたから相手を殺す。そうしたら、また相手から殺し返される。そのような憎しみの連鎖が続きすぎておる」
「それでも、ナオヒ様が大巫女として剣を収めるように命じられたら……」
「わしとて、過去に幾度もそうして骨を折ってきたのじゃ。戦をやめるための協定は幾度も結ばれたが、その都度、破られてきた。土地が生む利益を求める欲が取り決めを破らせ、あるいは過去の怨讐がアソの噴火のように起きてな。今さらイトがわしを立てたところで、周囲は決して納得はせぬ。多くの者は、わしがいいように利用されたと思うじゃろう。この通りの年寄りじゃしな」
「かといって、われら渡来系の国々がこのまま力で覇権を広げることも愚策です」と、ニギヒ。
「そこでじゃ、クシナーダ、そなたに頼みがあるのじゃ」
「いやです」
 は? というような空気が室内に広がった。ミツハやオシヲはお茶を全ての人間に出し終えるところだったが、そのまま固まってしまう。
「まだ何も言うておらぬじゃろう……」
「いやです」クシナーダは堅い表情のまま、きっぱりと言い切った。
「まいったわ、こりゃ……」
 ナオヒは苦笑して、珍しく救いを求めるようにアシナヅチを見た。が、当のアシナヅチは眼をあらぬ方に向け、素知らぬ顔をした。
「クシナーダ様」めげない意志を見せたのか、あるいは鈍感なのか、ニギヒが言った。「どうか、ワの国全体の女王になっていただけないでしょうか」
 この申し出に度肝を抜かれたのは、ミツハやオシヲだった。スサノヲもさすがに想定外のことだった。しかし、クシナーダは頑なな姿勢を崩さなかった。
「ですから、お断り申し上げております」
「なぜですか。あなたは今のこのワの国の至宝です。ツクシだけでない、このナカの国やイヨ、あるいはヤマトの先にある東国でさえ、あなたが女王として立つのであれば納得するかもしれない。それで多くの者が救われるのですよ」
「ニギヒ様」
「は、はい」
「それでは逆にお尋ねいたしますが、ニギヒ様がこれから後の人生、皇子としての地位を捨てて、ただ一人のワの民として生きろと言われて、それはおできになりますか」
「それは……」
「そうすれば民が救われます」
「ならば……そのように致します」
「ご立派なお心がけです。しかし、生涯、たた一人で生きなければなりませぬ。それでも、おできになられますか。どのような伴侶も娶らず、生涯をただ一人で終えるのです」
「それは……しかし、それで民が救われるのなら」
「あなた様はとても高貴なお考えをお持ちの方でいらっしゃいます。素晴らしいお方です。しかし、ニギヒ様、それは言葉でいうほど簡単なことではございません。人は普通に誰かに出会い、そして誰かを愛するものだからです。わたくしには以前からわかっておりました。わたくしの未来には、大きく二つの選択肢があることを。その一つを、今日、お二人がお持ちになりました。その未来を選択した場合、わたくしがどのような命運を辿っていくか、おおよそのことはわかっています。幼いころからわたくしは、その日が来ないことをずっと祈っておりました」
 じっと見つめていたナオヒは、ちらっとクシナーダの隣のスサノヲを見、いきなり笑い出した。「そうか! そうであったか! はっはっはっは。このナオヒ、とんだ無粋者じゃ! なあ、アシナヅチ」
「まあ、そういうことじゃな」そう言いながら、アシナヅチの視線もクシナーダとスサノヲの間を行き来した。
「では、どうしてもお受けくださらないと……」ニギヒは落胆を隠せなかった。
「俺のような部外者が口を挟んでもよいか」
 スサノヲが珍しく口を開き、周囲を驚かせた。
「そなたらは人の命を盾に、クシナーダに要求を突き付けている。ワの国の戦争で死ぬ者がいる。それが救われる。だから、ワの女王になれと。それはこのトリカミの里や巫女の命を盾にとって支配を広げてきたカガチのやり口と、どう違うのだ」
 それはまったく意表を突く、重い衝撃を伴った指摘だった。ニギヒは言葉を失い、狼狽した。
「……いや、形はそうでも、カガチとはまったく考えは違う。われらには大きな理想がある。カガチは自分が支配したいだけだ」
「たしかに、そなたらはこの国を平和にしたいのであろう。しかし、クシナーダにこの戦乱の何の責があろう? そなたらの言い分は、クシナーダ個人の願いとか夢を犠牲にして成り立つものだ。まして、クシナーダが女王になったところで、本当に争いがなくなるのか? それははなはだ疑問に思える」
「スサノヲの言う通りじゃ」ナオヒは言った。「クナ国はおそらく誰が女王になろうと、簡単には和することはあるまい。東国もしかりじゃ」
「まして、カガチがクシナーダ女王を承認するはずがない」アシナヅチも口添えした。「それに、先来、渡来したカナンじゃ。唯一の神を信奉する彼らは、これには絶対に従うまい」
「カナン……。聞き及んでおります」と、ニギヒ。
「クシナーダを女王に担げば、むしろいっそうこのナカの国の争いに火をつけ、とてつもない混乱と人の死が生まれるのではないか。クシナーダはそういったこともわかっているのだろう」と、スサノヲは娘を見た。「彼女は心優しい娘(こ)だ。人の命がかかっていると言われているのに、そなたらの申し出を断るのも、本当はすごく傷ついているはず。よほど思うところがあるのだ。それをわかってやってはくれまいか」
「ニギヒ、この話はもうやめじゃ!」ナオヒが笑顔で言った。
「わかりました」と、ニギヒも折れた。
「しかし、スサノヲ」ナオヒはずいっと前に出た。「そなた、自分のことを部外者と言うな」
「……流れ着いた者ゆえに」
「気持ちを察さねばならぬのは、そなたのほうかもしれぬな」そう言って、ナオヒは豪快に笑った。「アシナヅチ、わしはしばらくここで厄介になるぞ。なにやら、これから面白くなりそうじゃからのぉ」





「スサノヲ様」
 呼び止められたのは、その日の夕刻だった。トリカミでは、食事は毎回、里人全員のものが共同で作られる。収穫が多いときも少ないときも、それを分け合って食べるのだ。その用意がなされていた。
 通りかかった彼を呼び止めたのは、ミツハだった。彼女は抱えていた山芋をその場に置くと、小走りに近づいてきた。
「どうした」
「あの」ミツハは眼を輝かせながら無邪気に言った。「ありがとうございます」
「なんのことだ」
「さきほど、クシナーダ様のことをかばっていただきました」
「ああ」なんのことかと思えば、という感じで、スサノヲはむしろ意外に感じながら応えた。「かばうというほどのこともない」
「いえ。クシナーダ様は本当に喜んでおられました。スサノヲ様にああ言っていただいたことが、とてもうれしかったのだと思います」
「そうか」
「わたしも、とてもうれしゅうございました。ありがとうございました」
「あ、ああ」
「クシナーダ様を呼んできてくださいますか。もうすぐ晩御飯ですから」
「わかった」
 ミツハはぺこりと頭を下げ、走って戻って行った。食事の用意をしている女たちの中へ入って行き、笑いながら山芋を洗いはじめる。
 無邪気な少女だ。素直な感情にあふれた表情がまぶしいほどだ。
「かわいい乙女じゃな」いつの間にかやってきたナオヒが言った。そしてすごくまじめな顔で続けた。「わしにもああいう時があった」
「…………」
「なんとか言え」
「いや……どう反応していいか、わからなかった」
「小憎たらしいやつじゃ」笑いながらナオヒは持っていた杖で、スサノヲの尻を軽く叩いた。「天界から降った身には、地上の民などはかなく脆い命に見えるのじゃろうな」
 その通りだった。
「その代償じゃろうな。そなたにはまだ大事なものがちゃんと備わっておらぬ」
「大事なもの?」
「感情じゃよ」
 思いがけぬ指摘を受け、スサノヲは言葉に詰まった。昼間の意趣返しをされたようなものだった。
「それゆえに、そなたはこの地上で生きる人としては、はなはだ不完全じゃ。自分が空っぽだと感じるのではないか。ああして笑い、そしてあのように泣き……」
 子供たちが喧嘩して、一人が泣いている。母親が駆け寄って行くのが見えた。
「そんな感情を人が持つのはなぜなのか。なぜ人はこの世に生まれるのか。よく考えてみることじゃな」
 ナオヒは謎かけをして、ひょこひょこ歩いて夕食の席に向かった。
 スサノヲはクシナーダの居宅へ向かった。ナオヒから受けた指摘は、痛いところを突くもので、彼の胸の中でじわっと根を張った。
 クシナーダは家の前にいた。大きな釜状の土器を火にかけ、その中で煮ているものを棒でかき回していた。もう夕刻は冷え込みが厳しいが、大きな焚火のそばで動いているので、彼女は額に汗を浮かべていた。
「あら、スサノヲ」彼女はすぐに気づいて、作業の手を止めた。手の甲で額の汗を拭う。
「精が出るな。また衣を染めているのか」
 大きな土鍋の中は、樹木の果実と麻の繊維でできた衣類だ。それを一緒に煮炊きして、色を付けているのだ。
「はい。今日はクチナシの実で、黄色のいい色合いに染まりそうです」
「好きだな、衣に色を付けるのが」
「だって、楽しいじゃありませんか。いろいろな色があったほうが」
「いろいろあったほうが……そういうものか。いつだったか、イタケルは自分がワの国を一色に染めるとか言っていたが」
「それはつまらなくないでしょうか」
「つまらない?」
「全部が同じ色になってはつまらないと思いませんか。赤や青や緑や黄、黒や白……いろいろあるから楽しいし、面白いものです」
「なるほど」スサノヲは納得した。たしかにその通りだ。
「スサノヲはどの色がお好きですか」
「ああ? いや、俺はべつになんでも……」
「わたくしは赤や緋色が好きです。スサノヲは緑や藍の色がよくお似合いですよ」
「そうか?」
「はい」
 いつも彼女は、「はい」という言葉をそっと差し出すように言う。そのヒビキが、どれほどスサノヲの胸の中で、おかしな反応を起こしているかも知らずに。
「そうだ。ミツハに言われてきたんだった。晩御飯だから呼んでくるように」
「はい。もういい頃ですから、衣を引き揚げます」
「ああ、それは俺がやろう」スサノヲは手を差し出した。
 彼女は「では、お願いいたします」と、手にしていた棒を渡した。
 沸き立っている土鍋の中から、熱された衣を棒でひっかけて引き揚げる。衣はものすごい湯気を立てながら、一度、近くの岩の上に置かれて熱を冷まされる。十枚ほどの衣を引き揚げ、クシナーダは杓で水をかけ、土鍋の下の火を消した。
 それから二人は並んで、夕食の席に向かった。
「あら……」その途中、クシナーダが空を仰いだ。上に向けた彼女の掌に、雪が舞い落ちてきていた。「寒い寒いと思ったら、雪ですわ」
「これが……雪というものか」
「初めてご覧になりますの?」
「ああ」と、スサノヲも手で受けるようにした。「遠くの山々にある雪は見たことがあるが、俺はずっと南のほうを通って来たので、こうして見るのは初めてだ」
「そうですか」
 掌に落ちては、すぐに水となって消える結晶。スサノヲはそれをしばらく見つめていた。「はかないものだな……」
「人の命のように?」
 ギクッとさせられる言葉だった。さきほどのナオヒの言葉といい、クシナーダもスサノヲの心を見通しているのかもしれなかった。
「もうすぐですね」ふっと、クシナーダの声音に翳りが生じた。
「?」
「スサノヲがヨミへ行く日です。あと、十日もしたら、一番日の短い季節の新月です」
 ああ、とスサノヲはうなずいた。
「どうしても行かれるのですか」
「気持ちは変わらない」
「かならず……戻ってきてくださいね」クシナーダは両手を胸の前で結びあわせていた。声音にも必死なものが滲んだ。「かならず、ですよ」
「わかった」
「約束してください」
「約束する」そう言いながら、スサノヲはちょっと歩みをゆるめた。「一つ、訊いても良いか」
「はい。なんでしょう」彼女も歩みを遅くした。
「昼間言っていたことだ。そなたには大きく分けて二つの未来があると。その一つはワの女王になることだった。もう一つの未来は、どのような未来なのだ」
「お昼間のお話を聞いてくださっていたのなら、おわかりくださるかと……」クシナーダの頬がみるみる紅潮した。「わたくしにも、未来のことが詳しく見えているわけではございません。こと、自分のことはよくわかりません。ただ、誰かのそばで生きるということはわかります」
「それが誰かということは?」
「わかりません。ただ……」クシナーダは歩みを止めた。
 見えない糸に引かれるようにスサノヲも立ち止まった。
「未来というものは、今すでに固まって存在しているものではございません。わたくしたちが見るのは、そのいくつかの可能性の断片に過ぎません。今が未来を創造するのです。それはスサノヲもよくご存じのこと」
「いかにも。未来はあいまいに漂っているものだ」
「ですから、後悔することのない選択を、わたくしは今この瞬間にしたいのです」
 伏し目がちだったクシナーダは、はっきりと眼差しを上げた。その瞳に満ち溢れるものに、スサノヲは胸の芯をぎゅっとつかまれた気がした。
「それが誰かということではなく、わたくしは決めてございます」
「決めて?」
「はい……。わたくしはもう自分のすべてを捧げる方を決めております」
 クシナーダはじっとスサノヲ見つめ続けていた。その眼差しの意味するところものは、いかに彼が鈍感だとしても伝わった。いや、とっくに伝わっていたものだった。
 二人の間に、雪はいっそう、白い妖精のように、無数に舞い落ちてくる。
「クシナーダ……」
「はい……」
「この里は、いいところだ」
 彼女にしてみれば一世一代の告白を行ったのと同じだった。その返答を身を縮めるようにして待っていたのに、スサノヲのその言葉は彼女を戸惑わせた。
「豊かで、実りも多く、そして何よりも皆、親切でいい人ばかりだ。心が安らぐ……」スサノヲは里の中心に集まっていく人たちを見ていた。「地に降りて以来、長く旅してきたが、そんなことを思ったのはここが初めてだ。ここを守りたい。俺は心からそう思っている」
 スサノヲが視線を戻すと、クシナーダは胸の前で両手を組み合わせたままで、息もしていないかのようだった。
「だが、俺が一番大事に思っているのは、そなただ」
 クシナーダの眼は大きく見開かれ、それからゆっくりと柔雪(やわゆき)が溶けるように、表情に鮮やかなものが広がって行った。
「俺はヨミからかならず戻ってくる。だから……」スサノヲは言葉を探した。「待っていてくれるか」
 大きくうなずいた瞬間、クシナーダの瞳から溢れたものが零れ落ちた。喜びの涙だった。
「はい……。信じてお待ちいたします」
 二人の距離は近くなった。眼と眼と合わせ、そして口づけを交わした。夕闇の中、小柄なクシナーダの身体が、背の高いスサノヲにぶら下がるように懸命に伸びあがる。
 そんな二人の姿を、少し離れた茂みの影から、イタケルとスクナが見ていた。
 スクナはイタケルを振り返り、にっこり笑った。「やったね」
 イタケルは仏頂面だった。
「なに? 妬いてるの?」
「違うわい。俺はクシナーダの姉ちゃんに頼まれてたんだ。妹が幸せになれるように、見守ってくれと」
「クシナーダの姉ちゃん?」
「アワジという、俺と同い年の娘だった。行くぜ」
 スクナは首根っこをつかまれ、引きずられていった。


 ――カヤがカガチによって奪還されて半月、戦局は膠着状態だった。
 しかし、それは意図的に演出されたものだった。カガチはほぼ完成を見たキビの山城に拠点を置き、その北にあるカヤに大軍を終結させた。一方、オロチ本国のタジマとも頻繁に情報のやり取りをし、周到な根回しを行っていた。
 それはイズモに拠点を置くカナンを完全に殲滅させるための準備だった。
「ヤマトのイスズ様がお見えになられました」
 知らせが届いたのは、その準備がほぼ整いつつある頃だった。カガチは配下のイオリとキビの巫女や首長たちを集め、酒宴を行っていた。隣にはヨサミをはべらせていた。
「イスズ様が?」
 驚いて腰を浮かせたのは、巫女のシキとイズミだった。
 現れたイスズはその二人と真っ先に目を合わせ、それから冷たい雰囲気の中で行われている酒宴の中へ入ってきた。カガチの前に進み出て座る。
「おまえは来ぬと思うておったが」盃を口に運びながら、黒頭巾のカガチは言った。「来なければ、お前やヤマトの命運もそれまでのことではあった。……だが、どういう風の吹き回しだ」
 イスズの切れ長の目の奥には、深い淵のような艶やかなものが光っていた。その光が、カガチの巨躯の奥にあるものを透視するようだった。
「わたくしが駆け付けたのは従妹たちの身が案じられただけのこと」
「そうか。そういえば、シキやイズミとはそういう関係だったな」
 キビの巫女たちの内、シキとイズミはもともとヤマトやカワチなどと密接な縁故があった。キビの勢力が強大になり、東への影響力を強めていったとき、ヤマトを中心とする勢力との間に、瀬戸内の支配権も含め、良好な関係を保つために婚姻関係が結ばれた。シキの母とイスズの母は姉妹であったし、イズミの父親もその弟にあたる。
 シキやイズミという名も、それぞれの親の縁ある土地から取ったものだ。
「手ぶらでは来ておりませぬ。首長のトミヒコは残らせましたが、国の兵(つわもの)を五十名、連れてまいりました」
「よかろう。もうじきカナンどもを皆殺しにする大戦(おおいくさ)を始める」
 カガチの空になった盃に、ヨサミが酒を注いだ。その仕草は、もはや巫女のものではなく、女のものだった。
「イスズ、おまえも戦に参加するのだ。なに、剣を取れとは言わぬ。国の主(あるじ)として兵士を鼓舞すれば良い」
「わたくしが?」
「皆、そうしてもらう。タジマのアカルも、おそらく明日には到着するだろう」
「アカル様も?」イスズの顔に疑念が広がった。「そのようにしてまで、わたくしたちを集めなければならぬ理由はなんなのです」
「戦いに勝利するためよ。言うまでもなかろう」
「わたくしには、あなたが大きな〝力〟を得ているように思います。その〝力〟をもってすれば、カナンを滅ぼすことなど造作もないのでは」
「そうかもしれぬな」ふんと、カガチが笑った。「だから、どうだというのだ」
「〝力〟を得た代償に、人心を失いましたか。そのためにさらなる人質が必要なのでしょう」
「人心など、もともと俺に執着はない。従わぬ者は殺す。ただそれだけのこと」
「何が本当の狙いなのです」
「おまえらは、俺の言うとおりにしておれば良い」
 イスズは音もなく腰を上げ、そして告げた。「これ以上、トリカミには触れてはなりませぬ。それをお約束ください。でなければ、わたくしは兵を引き上げさせます」
「やってみろ……」むしろカガチは静かな調子で、しかも陶然と何かに酔うような調子で言った。「好きなようにしろ。だが、言っておく。おまえらが俺に指図できることなど、何一つないのだ。おまえらが俺に背くなら、この冬もトリカミの巫女……一人、殺す」
 イスズの顔は、かすかに蒼ざめた。それはカガチの発する邪気が、あまりにも濃いものだったからだ。


「トリカミ、トリカミ。何かと言えば、おまえらはあの地のことを口にする」
 ヨサミはカガチの言葉を褥(しとね)の上で聞いていた。何か返そうとしても、まだ息が荒くて声も出せない。すっかり身体がなじんでしまった、とヨサミは感じていた。カガチの荒々しい愛撫や交合にである。
 もはや苦痛はなく、むしろ悦びさえ覚えている自分が恐ろしかった。それは以前にも増して、自分を責めさいなむ罪悪感を生み出していた。
「なにがあそこにあるのだ」隣で横たわるカガチが尋ねる。
「……知りませぬ」ようやく声を発することができた。
「そうかな? タジマのアカルは何かを知っていた。俺がイズモへ支配を広げようとしたとき、アカルはトリカミだけには触れるなと、あのイスズのように言っていた」
 岩を削ったようなカガチの手と指が視野を多い、ヨサミの顔をつかんだ。みしっと頭蓋骨がたわむほどの力だった。顔を向けさせられる。
「ワの民の間には、トリカミが失われたとき、恐ろしい〝力〟が解き放たれるという言い伝えがあるそうだな。それは真実(まこと)なのか」
「ただの言い伝え。わたしは知りませぬ」ヨサミは指の間から、カガチの顔を見て言った。「知っているのなら、もはやカガチ様には隠しませぬ」
 ふん、とカガチは笑い、手を外した。型と痛みが残った。
「おまえたちが守ろうとするトリカミだからこそ、俺はこれまで支配に利用してきた。だが、もはやそのような必要はない。俺には大きな〝力〟がある」
「……トリカミをどうなるのですか」ヨサミは甘えるよう仕草で、カガチの胸板に手と顔を寄せた。
「カナンを滅ぼすためには、あの地を素通りにはできぬ。予定通り、次の新月の日を持って、イズモのカナンどもに攻勢をかける。だが、もし……そのような恐ろしい〝力〟があの地にあるのなら、見てみたいものだな」
 カガチは牙をむき出し、笑った。その男の胸で、ヨサミは体が芯から凍えて行く心地を味わっていた。



ポチしてくださると、とても励みになります。ありがとうございます。

人気ブログランキングへ

このブログの執筆者であるzephyrが、占星術鑑定の窓口を設けているのはFC2ブログにある<占星術鑑定に関して>の記事のみです。