長い沈黙の後、叔父の正男は口を開いた。
「……わかった。三年だな」
孝司はためていた呼吸を、ようやくそっと再開できた。
叔父の家を訪ね、すべての経緯を説明した上で、須藤に言われたことを伝えたのだ。もちろん、もっとやんわりとした言い方ではあった。
今すぐの返済を求められても、それをやろうとすれば、個人再生を行って債務整理をするしかなくなる。返したい気持ちはあるので、今抱えている債務の返済が終わるまで待ってくれないか、と。
三年。
それが孝司たちに与えられた猶予だった。
「もちろんここで債務整理をしてしまうという手もあるだろう。その方が楽かも知れない」
と、須藤は言った。「しかしな、孝司。人の口には戸は立てられない。ましてこの関係者の中に、身内がいる。叔父さん相手に債務整理を行って、法的にはそれでOKだが、後々に遺恨を残すこともあるだろう。現段階では通常の手続きでの返済を行った方がいいんじゃないかな」
須藤はこれまでにもこういったケースに仕事上、遭遇したことがあり、親戚間でどろどろのいざこざが後々まで続き、今なお解消していないというものもあると告げた。
「おまえの性格や、今後の親御さんと親戚とのつきあいなんかも考えたら、ここは我慢して努力する方が、長い目で見たときいいかもしれない」
「たしかに、その危険は犯したくないな。ただ、親父の健康の問題もある。この先、どれくらい金がかかるかわからない。もしかしたら返済に失敗する可能性もある」
「そのときは、おれがかならず力になる。約束する」
今抱えている返済に三年、そしてそこから叔父への返済。
すべてが終わるのに何年かかるだろう。
考えると気が遠くなる。
しかし、やらねばならなかった。
いや、やれる気がした。
やれないはずがない。
なぜなら、孝司には妻と子供というかけがえのないものが帰ってきた。
時が与えられた。
孝司の時は終わるはずだった。
あのとき広子が戻ってくれなければ。
いや、あの銀行で鉢合わせしなければ。
すれ違っていれば、孝司は間違いなくどこかで首を吊っていた。
そして、その場に須藤が居合わせたことで、はっきりとした計画の中で、ようやく自分の未来を見据えることができた。
見据えた先に、光はまだ薄い。
でも、今はちゃんと見据える勇気がある。
目をそらして、逃げ出すのではなく。
だから、薄くても光が見える。
帰宅後、報告すると広子は心からほっとしたようだった。
史也がおもちゃを持って家の中を走り回っている。
父が椅子に座り、孫の姿を薄くなった目で追っているが、表情には笑みがあった。
母は話を聞き、すまないを繰り返し、泣きながら引っ込んでいった。
これは奇跡だ、と孝司は思った。
こんな現実が戻ってくるとは、1日前にはまったく思えなかった。
ほんのわずかな想いが、人の行動が。
こんなにも現実を変えることがある。
そんな奇跡が起きた自分が、この先、光を引き寄せられないはずがない。
もしダメなのなら、なんのためにこの奇跡が起きたのか理由が分からない。
だから、絶対、だいじょうぶ……。
「あなた……」
広子が近寄ってきて言った。
「ごめんなさい」
「いいんだ」
「車の荷台にあったロープ……用はないでしょ? ガレージに出しときました」
はっとなった。
「あたしにはあなたしかないの。だから、あなたもあたしを頼って……なんの力もないけど、力になるから」
くすっと、孝司は笑った。
「力ないけど力になる? それって、どういうの?」
「ダメ?」
「いいや、ダメじゃない」
孝司はそっと広子を抱き寄せた。「ダメじゃないし、十分に力になってくれてる」
それから数日後。
孝司は社長からの呼び出しを受けた。
社長室で溝田は、膝を突き合わせて言った。
「山之上君、N町にうちが新店舗を出すのは知ってるね」
「は、はい」
「うちも経営が厳しかったが、一昨年あたりからいろいろと経営の見直しを行ってきて、古い店舗を閉鎖したり、セルフ・スタンド化で人員削減も行って、経営の健全化を行ってきた。
が、逃げるばかりじゃ、企業としては衰退の一途だからね。
新しく開通したバイパスなどの立地から、N町に新しいスタンドをオープンさせる計画だったんだ」
「はい、それは聞いております」
「分析してみると、このN町あたりには、昔からのうちの客さんの住宅もけっこうある。それに近隣に自動車の整備工場やディーラーも意外と少ない。
そこでだ。
私としては整備士として確かな腕を持つ君に、この新しいN町の店舗を任せたいと思うんだが、どうだろうか?
やってくれるかね?」
え――?
孝司は唖然となった。
呼び出しを受けたときには、いよいよか、と覚悟していたのだ。
だが、真逆だった。
「いや、わたしも気を回しすぎていたんだ。君がもともとやりたかった整備士というのがあるのを知っていたからね。でも、去年、君の気持ちも聞いたしね」
「…………」
急転直下の変化に、孝司はとっさに返す言葉もなかった。
「君は君を信頼するお客さんも持っている。しかも、最近、店での君の働きぶりを聞いてみると、店長の浜田君だけじゃない、バイトの子たちにもまことに受けがいいというのか、したわれている。新しい店舗を任せるのに、何の問題もない。いや、是非、君にやってもらいたいんだ」
そうか……。
得心した。
溝田社長は自分に気を遣ってくれていたのだ。
それを自分が、へんなふうに受け取ってしまい……。
いや、もしかしたら溝田は、やはり狭量な孝司のことに不安を持っていたのかも知れない。
前回の人事で浜田を店長にしたのも、孝司が腕はいいが、そのために人を認めなかったから……。
しかし、このところ死を覚悟した孝司は、自分が生きている間にこの世に残せるもの、できるものという想いで、人に優しくしていた……。
それがここへ来て……。
――他人にやさしくしなさい。それがもっとも海王星をうまく使う手段です。
――海王星は無私の星です。何も考えず、ただ人に尽くすことです。自分のことは今は脇に置き、人のためにできることをすることです。自分から無になることです。
あの老人の言葉が、強い光となって蘇った。
死を覚悟したために、無意識に。
すでに自分は人にやさしくなっていた?
それが、こんな形で――
「どうかね?」
のぞき込む溝田。
涙があふれ、頭(こうべ)が自然に垂れた。
「……はいッ。ありがとうございます!」
涙どころか、鼻水まで社長室の床にこぼす勢いだった。
「しっかり努めさせていただきます!」
それから6年が経過した。
「行ってきます」
身長があと10センチほどで、孝司と並ぶかという史也が出かけていく。
「忘れ物はないのかい」
仏壇にお茶をあげていた奈津子が、和室から振り返って呼びかける。
「だいじょうぶだよ」と、史也。
来年度には小学校六年。
山之上家の日常は保たれていた。
だが、仏壇には位牌が一つ増えていた。
父、清司のものだ。
一昨年に他界した。
そして増えたものがあった。
赤ん坊の泣き声。
「あなた、愛歌を、ちょっと見て」
「はいはい」
あいか。
山之上家の二人目の子供だった。
それでも。
孝司の家はなんとかやって行けていた。
いや、それどころか、余裕すら生まれていた。
二人目の子供は、女の子だった。
まだおしめも取れない。
そう、新しい店舗の店長に抜擢され、孝司の暮らしは少しずつ変わってきた。
給与面でももちろん向上したし、新しい店舗の成績はここ数年、伸び続けていた。
お客様の立場になった心やさしいサービス。
孝司がそれをずっと徹底し続けているからだ。
「子供、二人目できてもいいよね」
そんなことを言っている内に、新しい命は広子の胎内に宿った。
そして、この世に生まれた。
愛らしい。
歌うような泣き声で。
だから愛歌と名付けた。
「ねえ、今日は行けるんでしょ?」
広子は孝司の分の朝食を用意しながら言った。
「ああ、大丈夫だ」
孝司は愛歌を抱いたまま、椅子に座った。
「もうすぐね」
「うん?」
孝司は問い返したが、すぐに「すぐ」の意味を悟った。
次の春には、叔父の分も含めた返済がすべて終わる。
それもこれも、今の店長を任され、しかも店の成績が良いおかげだった。
「そうだな……」
「長かったわね」
「そうだな」
「でも、あっという間のような気もするし……」
「そうだな」
「やあねえ。『そうだな』ばっかり。今日は運命を知らせてくれた人のところへ行くんでしょ」
「そう……いや、まあ、そうだな」
6年前。
あの占い師を訪ねることがなかったら、今日という日はあり得なかった。
占いなどというものに、どちらかといえば否定的で、そのことを積極的には言い出せなかった孝司は、最近になってようやく過去のことを広子に打ち明けた。
「もう! そんなに当たる占い師なら、もっと早く紹介してよ!」
そんなやりとりがあったのが一昨日のこと。
孝司は次の日から連休だったのだが、昨日は仕事先でちょっとしたトラブルが発生し、休日だったが出て行った。
そのため遅れてしまったが、今日は愛歌を連れて出かける予定だった。
行きつけのラーメン屋で、変わらぬ店主の笑顔を見た後、孝司と広子は近くのユニットハウスの占い小屋に向かった。
あの老人の言葉は、今となってみると、すべて的中していた。
切られるどころか、ガソリン・スタンドの接点が強まること。
結婚や子供に関することまで。
友人の協力。
当時、逆境のさなかにあった孝司には、あり得ないと思われたことをも。
しかし、
「あれ?」
ユニットハウスの扉は閉ざされていた。
窓ガラスがあるが、中からブラインドが下ろされている。
「お休みなのかしら」と、乳母車を押す広子。
「いや、でもネットで検索したら、年中無休、不定休とあったから」
「たまたま、お休みなのかしら」
「なにかご用ですか?」
ふいに声がして、驚いて振り返った。
そこには髪をオールバックにした、若い男が立っていた。
いや、若いというのは、あの老人を基準にした考え方で、実際には三十代後半かそこらには見えた。
「父にご用ですか?」
「あ……」
かなり狼狽した。
あの柔和な白髪白髪の老人の顔と、この若い男性の顔がすぐには結びつかなかったからだ。
「占いをご希望の方ですか? 父なら、先月、他界致しました」
「亡くなった!?」
仰天した。
あの老人が亡くなるというのは、孝司の頭の中で、一種、あり得ない出来事だった。
「はい」
老人の息子を名乗る男は、孝司と妻、そして子供を見つめた。
その間、孝司はショックとと共に、あの老人の高齢なら、6年という歳月、それがあり得ない時間ではないということを、漠然と実感していた。
「海王星が太陽に重なるとき、自分はこの世を去るだろうと、父は生前から言っておりました。そのときが訪れ、父はこの世を去りました」
「まさか、そんな……」
「知恵と力を人のために使ってきました。それがまさに海王星であり、真の占星術師という仕事であり、宿命です。そして父の存在そのものでした」
「そんな……」
「しかし、ご安心下さい」
「え?」
「あなたがたは父に深刻なご相談があって来られたわけではない。そうですね?」
「は、はい」
男はうなずいた。
「むしろ、幸せのご報告に来られた。もしかすると、新しい娘さんの運勢でも見に来られたのかも知れない」
「そうです、まさに……」
「父はきっと喜んでいます。あなた方が訪れたことを知れば、父はきっと満足するでしょう」
孝司はあらためてユニットハウスを見た。
その向こうで、柔和な表情を浮かべていた老人が、そこに透けて見えた。
「ありがとうございます!」
叫び、涙した。
老人はにっこりと笑い、そして踵を返して去っていった。
海王星と共に。
<FIN>
この物語はフィクションです。