若い男性(といっても30くらいだと思いますが)が中心というのか、話を主導しているような印象でしたが、その会話の中でたびたび「高岡先生」「ゆるむ」「関節」「骨」などという単語が頻出していました。
(ああ、これはあの人にかんするお話だな)と、分かってきました。
会話に割り込めるような雰囲気ではなかったので、ただ黙って聞いていましたが、その中の女性が帰宅するというので、他の男性の方が送っていくために一度バーを離れ、そのリーダー的な人物だけが残された時間がありました。
そのときに、ちょっと私との間に会話が生じたので、こちらから話を向けてみました。
「先ほど、お話の中に出ていた高岡先生というのは、高岡英夫先生のことでしょうか」
「ええ、そうです。知ってるんですか」
「はい。御本を拝読しました」
「そうですかあ」
その方の顔が輝きました。そして、嬉しそうに高岡先生とご自分のエピソードについて語って下さいました。
『高岡英夫は語る すべてはゆるむこと』松井浩・著 総合法令出版
この本を私は、何年か前、もしかすると十年くらい前でしょうか、読んでいました。
高岡英夫さんは武道家であり運動科学者です。
この本の中に書かれていることが真実であるならば、身体能力の秘密の、その能力を最大限に発揮することにかけて、おそらくこの方の右に出る人はいないのではないか、と思えるほどの方だろうなと感じていました。
その高岡さんを現実に知る人にお目にかかったのです。仮にAさんとしておきましょう。
Aさんは若い時代、ずっと空手をなさっていたそうです。中国地区の大会でも非常に優秀な成績を収めるほどの実力者で、とくに「突き」のスピードには自信を持たれていたそうです。
Aさんはあるとき高岡さんに相対することがあり、そのときに高岡さんから、
「あなたの一番早い突きで打ってきなさい」というようなことを言われたそうです。
高岡さんはだらーんと両手を垂れ提げ、まるで隙だらけに見えたそうです。
Aさんは自分が本気で打ったら、怪我をさせる可能性もと考えたそうですが、相手のあまりに余裕に満ちた姿に、本気で突きを放ったそうです。
いや、放とうとした、といった方が正しいでしょう。
打とうと前に出ようとした瞬間、Aさんの身体は後方へ吹っ飛ばされていたのです。
「もう、わけがわからなかった」とAさんは、今でも興奮が蘇るのか、熱く語って下さいました。
高岡さんのだらーんとした身体が、目にもとまらぬスピードで動き、大会実力者の若者の身体を吹っ飛ばしてしまったのです。
なにをされたのか、何が起こったのかも分からなかった。それほどのスピードだった。
Aさんはそう語りました。
「この人だ。この人をおいて師事する人はいない」
Aさんはそう確信し、その後、高岡さんの門下生(?)になって修練を積んでいったそうです。
「身体をゆるませる修練を」
このエピソードは『すべてはゆるむこと』の中に収録されているストーリーなのですが、私はバーの仕事を通じてその登場人物、ご本人にお目にかかることができたわけです。
本を読んだときには、「ああ、こういうこともあるかもしれないなあ」くらいに浅はかにも考えていたのですが、ご本人のお話を聞いて、この逸話が伝説化されて誇大化したものではなく、まんま真実であることが伝わってきました。
その後、Aさんは高岡さんの下で、身体の全関節、全筋肉をゆるませる修練を行い、より高岡さんのすごさを実感していったそうです。
すべてがゆるんだとき、肉体は最高の動きを行える。
手足の関節はもちろん、背骨や首の骨、普通はあまり動かないように思える肋骨とか、そういった隅々までゆるみ、自在に動けるようになったときに、最高のスピード、最高の動きが実現する。
高岡さんの理論はそこにあり、そしてご自身の肉体で、その一種超絶的に思える領域を、すでに実現されていらっしゃるようなのです。
このバーの出逢いは、私に忘れかけていた「ゆるむこと」についての知恵を、あらたに教えてくれたように思いました。
「おい、これがあるだろ」
みたいな形で。
続きます。じつはこれが占星術にも、小説にもつながっていくのです。

う……アフリカ大陸南の沖合で、M6の地震(日本時間5日2時25分)。まだ収まりきってなかったか。