
やはりまだこの波は終息していなかったか。
ごめんなさい

でも、分散されて出た模様で、かえって良かったのかも知れません。
車の運転と同じで、地震予測も「大丈夫だろう」みたいに安直に考えてはいけないのかも。
さて、昨日の続きです。
ゆるむこと。
全身の筋肉や関節が、ゆるゆるになったとき、人の身体は最高の動きをする。
高岡英夫先生の理論は、これでした。
じつはこれ、占星術や他の人間の活動のさまざまなものに当てはめることができるようなのです。
ホロスコープ・チャートにはさまざまなことが表示されます。
その人の性格、才能、金運、仕事運、家庭運、恋愛運、結婚運……。
チャートを眺めていると、その人の中で何に重きが置かれ、何がそうでないのか、分かることがあります。
たとえば私の妻の3ハウスには、数多くの星が入っています。チャートでは通常、太陽や月を含む10個の惑星を扱っていますが、その内の5個までが3ハウスにあります。
しかも、その中には土星や月の合もあり、3ハウスが非常に大きな意味を持つようになります。
3ハウスの意味は、教育、コミュニケーション、旅行(近距離の)、兄弟姉妹といった主だったものがありますが、そこに星が集中していると、そこに大きなこだわりが生じてきます。
土星が入っているだけでも、そのハウスは障害、克服すべき課題として立ちはだかってくるのですが、さらに多くの星が入っていますので、妻は人間関係で言えば、兄弟や近隣の人々との間に生じる問題で悩んだり苦しんだりするかも知れませんし、他人とのコミュニケーションに不都合を感じるかも知れません。
土星のような凶星でなく、太陽、月、金星、木星といった比較的良い星ばかりでも、多く集中すれば全人生の中での比重が増えるわけで、そこに(心が)関わるようになります。
つまり、多くの星が集中したり土星が入っていたりするハウスや星座は、「こだわり」が強くなるポイントだと考えられます。
たとえば星座やハウスはそれぞれ12個あり、星は10個です。
つまり空っぽの星座やハウスも当然出てきます。星がチャート上に偏って存在していれば、空き家もそれだけ増えることになります。
よく占いをして説明しているときに、「7ハウスが結婚を見る重要なポイントなんですが……」と説明していると、「えー、あたしの7ハウス、なにもないじゃないですか」と言われることが多いのですが、何もなくてもまったく問題ないのです。
それはそれで解読するやり方があります。
空き家になっているところは、その人の人生が空虚になるところでも、力の弱いところでもありません。
むしろ、こだわりがない分、普通に機能すると考えた方がいいのです(チャートの状況で、もちろん個体差があります)。
むしろ、多くの星や重い星(土星のような)が存在する部屋のほうが、機能障害を起こしやすいのです。
なぜか?
それだけのこだわりがあるからです。
たとえば、私は今は乗っていませんが、バイクが好きです。
バイクが好きであるがゆえに、たとえばそれを実際に購入して乗ろうとすると、事前にバイクの雑誌を何冊も買ってきて検討し、形がどうだ、性能がこうだ、いやでも、実際の用途から考えると……いやいや、でも燃費とか経済性も考えなくちゃ……いや、待て待て。まず自分の体格に合ったものを考えないと、足がつかないとかっこ悪い……とか、果てしなく堂々巡りしてしまいます。
こうして考え抜いた挙げ句の選択が、かならずしも良いものとは限りません。
走らせてみると、自分が思ったイメージと違っていたり、思いの外取り回しがきつかったり、と、好きであるがゆえにさまざまな問題点が目につくようになります。
(人はモノではありませんが、この話は配偶者の選択にも通じるものがあります)
これが「こだわり」なのです。
そしてそれは多くの場合、「期待」を背景としています。
社会的な成功、ステイタスの獲得といったことに執念を燃やす人の場合、10ハウスにこうしたこだわりが生じていることが多いのです。
自分が得られる名声、富といったものへの期待から、彼は非常な努力を行います。
実際にそうして登り詰めていく人もいます。
しかし、イカロスのように天空から突き落とされてしまうケースもありますし、また登り詰めようとする野心が強すぎて、人に敬遠されたり、選ぶ手段を間違って失敗したりする、ということも起きやすくなってきます。
結婚の7ハウスに星が集中する、土星が強く存在するといったケースでは、そこにこだわりを持ちますから、先のバイク選びのようなことが、結婚相手の選択の際に起きてくる可能性があります。
悩み抜き、考え抜いた挙げ句に結婚し、してみると、相手が「自分が思い描いていたのとは違う」といった理由で、夫婦関係に問題が生じるかも知れません。
期待が強かったわけです。
なにせ、こだわりが強いわけですから。
星の集中、土星の強い関与はこうした不都合を招く傾向があります。
ところが。
先のバイクの話に戻りますが。
バイクに乗ったことのある人、そして「人車一体」の感覚を経験したことのある人なら分かると思うのですが、どういうときに理想の走りが実現できるのでしょうか?
自分には気に入らない部分があるバイクを、力尽くでどうこうしてやろうとしたならば、これは絶対にうまく走れません。
カーブの続く峠道。
そこを自由自在に、思うままにバイクをコントロールして、走り抜けていくとき。
ライダーとバイクの関係はどうなっているのか?
じつは、そのときライダーはよけいな力を抜いているのです。
バイクというのはバンクさせていくと(カーブで傾けていくと)、ごく自然に前輪が内側へ適度に切れ、これもまた自然に舵角がついていきます。
ハンドルをこじるようなことをすれば(よけいな力を加えれば)、この自然な動きが阻害され、ふらつきや旋回力の不足を生み、結果的に「思い通りのラインが取れない」「怖くてアクセルが開けられない」などの悪循環が生じ、フラストレーションのたまる走りを延々と繰り返さなければならなくなっていきます。
しかし、リラックスしたアプローチができているときは、初期の倒し込みの段階で、スパッとバイクが寝て、方向が変わっていますから、次にはアクセルを開けて、出口に向けて加速体勢に入っていけば良いという、リズミカルな操作を繰り返すことが可能になり、そうやって連続して次々にコーナーを駆け抜けていく、なんとも喜びに満ちた快感な走りを体感できるのです。
このときライダーは、自分が走らせているバイクというものをある意味信頼し、すべて受け入れています。そこがどうの、ここがどうのと、不平に思ってなどいません。
ちょっと乱暴な表現になりますが、こういうことです。
コントロールしようと思うと、うまく走れなくなり、コントロールを(ある意味)放棄すると、実際にはうまくコントロールされて自由自在に走ることができるようになるのです。
ところが、この快感な走りを一度体験した後、「あー、もう一回あれをやってみたい」と思ったとき、ドツボにはまってしまうことがあるのです。
自分でコントロールして、もう一度あの走りを再現しよう、と思ってしまうからです。
そうすると、「あれ、なんだかヘンだ」「こんな感じじゃなかったのに」ということになってきます。
あの「理想の走り」への「期待」から、おかしくなって、リズムが狂ってしまうわけです。
勘の良い読者の皆様。
もう分かってきたことかと存じますが、またまた続きます。
ゴメンナサイ。

mococo3033さん。すみません。もう少しお付き合い下さい。
次は終わる予定(?)です。