前々記事の補足として |  ZEPHYR

 ZEPHYR

ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

未承認ですが、あるコメントがありました。
もしかすると誤解を生む表現があったかと思いますので、承認は致しませんが、そのコメントの内容について触れておきたいと思います。
その方のコメントには「理性を超えたものが宗教ではない」「宗教は宗教」「理屈では言えないものが宗教だなんてそんなことありえない」といったお言葉がありました。
ごもっともです。
そのような書き方はしていないと思うのですが、「理性を超えた領域に属する真理は宗教」というところに引っかかられたのだと思います。

これは正確には、理性を超えた領域で何かの真理を提示しようとするのが宗教である、と表現すべきところです。ここに誤解の種があったと思われます。
また私は個人的には、それぞれの宗教には傾聴に値するものがあるし、本当になんらかの真理を備えている部分があると考えています。
ただ、人間の都合や組織の都合で歪んでいる部分もあると思います。

そういった意味で、理屈以外の部分がすべて宗教などとは思っておりません。
では、愛も宗教なのかというと、それ自体愚問ですよね。

ただ、愛を備えた宗教はあるだろうと思っています。

かつて申し上げたこともあるので、繰り返しになりますが、私には特定宗教に偏ったところはありません。そして、特定宗教を非難するつもりもまったくありません。
また何かの宗教を信じていらっしゃる方を非難するつもりもありません。そういった人達が依存心の強い、弱い人だと指摘しようとしているのでもありません。
それぞれに重要なプロセスなのだと考えます。

前々記事は単なるチャートの解読に過ぎません。

「宗教に入っていない人もみんないろんなものに依存してゆだねてます」「要するにみんなほんとの所、主体性なんてない」
というお言葉も、コメントの中にはありました。
これについては、何かにまったく依存しない人間は、たしかにいませんとお答えします。
主体性の有無については、個人によって、程度の差があると思います。
それは占星術のチャートにも顕れるものです。

私から申し上げることは以上です。

記事の不足部分をご指摘下さるコメント、ありがとうございました。
(前にも書きましたが、コメントの承認非承認は、私個人の判断と都合です。ここは私たちがやっているブログなので、それは自由だし権利だと考えております。ご容赦下さい)