この先、土天の合が瓦解させるのは? |  ZEPHYR

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<艱難の時は終わりに近づいた!><土天君のネイタル解読>の続編です。

pyonchanzさんの「理性を超えた領域に属する真理は宗教なのでは」というご指摘は、非常に的を射ていると思います。
前回の記事を補填するためにも、今日はちょっと回り道をして、ここに触れておきたいと思います。

理性は人間の存在価値を高めるために、もっとも重要な役割を果たしているものです。
が、この理性は、頭で考える思考、思索という制約を多分に持っています。つまり答えの出ない問題に対しては、究極的には太刀打ちできないのが理性なのです。したがって、そのエリアを受け持つのが宗教というとらえ方もできます。

以前、ミステリー論考「デウス・エクス・マキーナ」を執筆する過程ではっきりと分かったのですが、神話的な世界観が構造的・法則的になったものが宗教なのです。
え? わかりにくい?
そうですよね。非常にわかりやすくいうと、たとえば太古の昔に戻って下さい。
狩猟などでその日の食い扶持をまかなっていた時代の人類に。
その頃のあなたは、部族の中で一定の役割を持っていた一員です。女性なら最大の役目は、子を産み育てることだったかも知れません。
現代とは価値観も生活環境も異なります。
医学はまだ薬草やまじないの域から出ておらず、死産も非常に多く、そのことが原因で母体が亡くなることも多かった時代です。
男なら、とにかく力仕事や狩猟が重要だったはずです。それゆえに女性よりも体力的に恵まれていたと考えるのが普通です。

そんな時代。
何事か、あなたやあなたの属する部族が「不幸」に遭ったとします。それは天変地異かも知れません。地震とか山林火災や、落雷、洪水……。自然を原因とするものでも多くのものがありますし、猛獣に襲われて亡くなる、あるいは病気で死亡するということも多くあったはず。
また出生率も非常に悪い時代ですから、何回も死産や流産が続くことも、現代では考えられないほど普通にあったはずです。場合によっては、それは部族の存続に関わってくる問題になります。
そんな不幸が発生したとき、人は考えたはずです。
「なぜ、こんなことになったのだろうか」
「愛する家族が亡くなってしまった。どうして?」
「なぜ無事に生まれてこなかったのか」
「どうしてこんな災厄が起こったのか」
どうして?どうして?どうして?

人生の中に、不幸が訪れたとき、はじめて人は考えます。
ただ乳を与えられ、無邪気に笑っていられるのは赤ん坊の時だけです。そのとき世界は一つでした。
しかし、ある程度大きくなると、自分以外の存在がこの世にいると知らされます。その中には利害が反する存在があることも。
兄弟がいます。すると、その兄弟のものと自分のものが区別されていることを知ります。
男女の区別があることを知ります。すると、どうしてもできないことがあることがあると知らされます。たとえば男は子供を産めないとか、基本的に女性の方が力が弱いとか、立ちションができるとかできないとか……(おーい、脱線しそうだぞぉあせる)。
そのときの世の中の美醜の感覚の中で、「美人」だとか「ブス」だとか烙印を押されてしまうとか、男だったら「雄として優れているとか」「劣っているとか」(いろんないろんな意味で)。
こんな些細なこと(あえて些細と表現します。生き死にに比べたら些細ですから)さえも、「どうして?」という問いかけになります。

なぜ自分にはないものが他人に備わっているのか。
どうして自分が劣っているのか。

じつは占星術師に深刻な問いかけをしようとする人の多くが、この生き死にに関わる重大な問題から、些細な問題に至るまでの「答え」を知りたがっています。なんらかの根拠を提示してもらいたがっています。
「あなたにはこんな星があります。だからこのことが起きたんですよ」
たとえその裏付けが取れなくても、そのような言葉が示されることで、人は何らかの安心を得ます。
「そうだったのか。自分にとって火星が原因だったんだ」
そう知ったからといっても、過去が取り戻せるわけでもなく、たった今の現実を変えられるわけでもありません。しかし、もしかすると未来は変えられるかも知れません。
今の現実を知らされることで、自分を知り、そしてこの先どうしたらよいのか知る。

これはじつは、宗教への問いかけとまったく本質は変わらないのです。
「神はなぜこの現実を私にもたらしたのでしょう?」
その宗教の指導者が、その答えを正確に提示できるかどうかは、あまり問題ではありません。
しかし、人は問わずにおれません。本当に悲しむべき出来事に遭遇したとき、心が折れそうな現実に出会ったとき。
誰かに答えを出してほしいのです。

「どうして、わたしの愛するあの人は死んでしまったの?」
そんな出来事が起きたとき、人はその愛する人が死んだ理由を探します。といって、医学的な裏付けなど欲していません。
医者から「死の原因は肺ガンです」とか「転移して、手の施しようがなかった」「日頃の不摂生や喫煙の習慣が原因」などと説明されても、なんの慰めにもなりません。
問いかけている人が欲しているのは、「この地球に生きている人々の中で、なぜ他ならぬ自分とその愛する人の身にこんなことが起きたのか」という、根源的な答えなのです。
自分と世界との関わりの中での、究極的な答えを欲しているのです。

古代から、こうした問いかけは行われ続けてきました。
「不幸」が生じるたび。
そして多くは、自然というものに人格を与えた神々の仕業に根拠を求めてきました。それ以外、答えはなかった。
「この洪水は、あの水の神の機嫌が悪くて起こったもの」
「この落雷は、インドラが悪神と戦った結果だ」
「この旱(ひでり)は、太陽の神の暴走だ(パエトーンのように)」
「この子が死んだのは、黄泉の国の女王が欲したからだ(イザナギ・イザナミの神話)」
こうして神話が紡がれ、その先に待っていたのが、それらを母体として誕生した「宗教」なのです。

一神教の神は、その他大勢の神々を排することで、非常に大きな力を得ました。
ユダヤ民族のように厳しい迫害の歴史を辿れば、唯一絶対神を設定し、外界と戦い、自他をはっきりとわけ隔てていくほか、民族として生き残っていく道はなかったのかも知れません。唯一神の登場は、歴史的には必然だったのでしょう(本当に神が存在するか否かという問題は、ここでは棚上げしておきます)。
そして「神の教え」がこの世に登場します。
その「教え」は多くの矛盾をはらんではいますが、それは人々が求めた結果です。

「なぜ、こんなことが?」
「それは神の思し召しです」
たとえこんな答えだとしても、人はそれが神の意志だとすれば、あきらめるしかないし、理解できなくても、少なくともその責の一部を(あるいはすべてを)他に転嫁できます。
つまり、一神教の教義の中では、人間は真の意味での主体性を失い、出来事の意味や責任を他者(神である主)に預けてしまえるのです。これは求めても得られない答えがあるとき、たしかに人の救いになるかも知れません。
神に丸投げしてしまえばいいのですから。
それゆえ、ヤハウェにせよ、エホバにせよ、アラーにせよ、それらの教義の中では、人は「神に委ねる」ことが重要なありようとされるのです。
(注・ひょっとしてかなり危険なことを書いている? ヤバイ? それぞれの信者の皆さん、ごめんなさいm(_ _ )m 特定宗教への批判の意図はございません。文化人類学的な考察に過ぎない……いや、迷える仔羊の世迷い言とご寛大に看過下さい)

哲学は世の中に起きる出来事、体験について、宗教的な背景をできるだけ排除して、理性によってこれを解決しよう、答えを見出そうとするものです。
これはおそらく「神はなんの答えも出してくれない」と知った人々が、いい加減うんざりして始めた精神活動なのではないかと、私は考えています(厳密には神の代弁者である教会の権威者が、答えを出せないだけで、「神」はもしかするといろんな手段で答えを提示してくれているのかも知れません)。
しかし、哲学の本質は、「答えを提示すること」ではなく、「そのようなことを考察しようとする姿勢そのものにあり、答えを出すよりも問題を提起することにある」と聞いたことがあります。

なるほど、これも分かる話です。
なぜなら、愛する人を失ってしまった意味を、本当の意味で客観的に立証することはできないからです。それは人の思考の中にしかない答えです。犯罪捜査のように物証を挙げて根拠を提示し、犯行を立証するような形で証明することはできない性質のものだから。
つまりこれが理性の限界ですね。

射手座の精神活動が、宗教や哲学に深く関わるのは、前記事の通りなのですが、なぜ、宗教と哲学というものが射手座の中で共存しているか、ここまで説明すると理解しやすくなると思います。
それは「答えを見出そうとする精神活動」なのです(その方法が時に宗教であったり、哲学であったりするわけです)。
それも、この世に生きてある自分と世界との関わりの中での答えです。
なぜ、自分は存在するのか。
どうして、これが起きたのか。


なぜ私が、前記事で「宗教だ」と思ったかというと、まず現実的に世の中に大きな影響を与え、政治や紛争に根深く関わっているのが宗教だという現実が、第一にあります。
これは皆さんも納得されるでしょう。
しかし、それ以外にも、哲学においては、人はあくまでも思考する自分自身に主体がありますが、宗教においては主体性を失う(とくに一神教では)傾向があるからです。なぜなら、神に委ねることが前提としてあるからです。
だからこそ、それらの宗教ではまず「信じなさい」であり、「信じる者が救われる」のです。
信じないことには始まらない。神の門戸は開けられることがない。
そして信じた人間の中には、まったく主体性をなくしてしまうケースもあり、だからこそ自爆テロ(敵を殺してアラーに祝福されて召される)なども可能になるのです。

これは非常に危険な側面を持っていることが、皆さんにもおわかり頂けるでしょう。
信じることで心の平安を得、愛を実践できる人になるのであれば、それは素晴らしいことだと思います。
しかし、カルト宗教のテロのように、主体性を失った人間は、神(の代弁者)の言葉を良くも悪くも実践してしまいます。

射手座の最終度数のサビアンシンボルは「法王」だといいましたが、これにはもう一つ別な表現があって「信徒を祝福する法王」というのがそれです。
ここにはあきらかに信徒と法王の関係があり、法王に文脈的に重きが置かれています。
ここに土天の合が生じた。
つまり逆算的に言うと、今「法王」的な立場にあるのは誰なのか。
そこにこそ44年のプロセスの中で、変化しなければならないものがある。
それは?
言うまでもないですよねー(危険危険あせる)。
法王的な立場にある宗教的指導者。
彼らこそが変わらなければならないし、土天の合のもっとも強い影響を受けるわけです。
では、なぜそうなってしまうのかということを土天のネイタルに示された未来から逆に考えていくと、彼らの信徒への対応や指示が間違っていて、そのために世界が大変なことになってしまう(前記事の火星の合、ノードとのスクエア)。
そういったプロセスが実際に起きるからこそ、「いや、これはダメだ。この法王たちの言うことを聞いていたら、俺たちの世界は壊れてしまう」と思うようになり、既存の権威宗教の瓦解が起きるのではないか、というのが私の解読です。

これはめちゃめちゃ怖い解読です叫び
前記事ではさらっと流しておこうなんて思ったのですが、ここまで来ちゃいましたよー。どうしましょ。
書いちゃいました。\(゜□゜)/

暗殺指令がどこかから出たりして(こんな小物に来ない来ない)。

えーと。
ところで。
射手座の最終度数は、知的精神活動の終着点ですが、精神活動ですべてが救われるのなら、なぜ射手座の先にある星座は山羊座なのか。
精神の次に待っているのは、現実重視、成果重視、権威型、成功志向型の山羊座です。
精神的に発展を遂げたら、もう世の栄華や成功、名声などはどうでもいいのではないか、というのが普通の考えです。
ところが、牡羊座から始まった魂の成長プロセスでは、精神の射手座の次に現実の山羊座が来る(12星座は牡羊座から魚座に至るプロセスが、一つの物語になっています)。

これは、「思うばかりでは何も解決しない」ということです。
射手座最終度数は、前記事に書いたとおり、山羊座という現実への橋渡しを行います。
ゆえに精神活動で高みに登った人間の、もっとも高位で権威的な姿(山羊座的)、法王なのだと考えられます。

ということは?
前記事の補足として言えるのは、哲学にせよ宗教にせよ、既存のものは根本から変わっていくのが、1988年よりの44年間なのだということですが、それは「より現実に反映し得る、新しい思想」として生まれ変わる必要があるということです。
だからこそ、現実(山羊座)へ橋渡しを行う最終度数なのです。

そしてそれが「法王」であるということは、すでに権威化した宗教がその対象となっているということです。
怖い~、かも。だから、最初に「スリリング」っていったでしょお。
あまり真面目に書いていると、怖いので、とりあえず茶化しておきます。


最後に。
「宗教」は魂の進化のプロセスの中では、終着点ではないのです。
とくに射手座(宗教)の支配星は木星ですが、これは組織や会社、社会といった個の集合体の暗示でもあります。
つまり宗教は、性質的に組織化する性質がある。
というのが占星術的に言えます。

しかし、魂のプロセスはさらにその先へ先へと向かいます。
紆余曲折を経ながら。

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ちなみに、「占星術」の担当星座は、射手座ではありません(無関係ではありませんが)。
それは山羊座の次に控えている、水瓶座や魚座のエリアです。
占星術の方が、宗教よりも後に控えているプロセスであるというのは、占星術師にとっては心強いというのか、興味深いというのか。
まあ、このへんにしときましょうか。

え? 本当の終着点はどこかって?
それは後に控えている記事<マザー・テレサ、その愛と運命の真実>に譲りたいと思います。
まだ記事が書ける段階ではござませんので、予告のみにして失礼。