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なんのために生きているか。
自分は何者なのか?
なんのために生きるのか?
これらは人類に自意識が芽生えて以来の、永遠のテーマかも知れません。
私は大学でテキストとして使っているミステリー論考「デウス・エクス・マキーナ」を書いたとき、物語の発祥を人間が「苦しみ」や「悲しみ」を、それと認識し始めたときまで遡ることができる、と考えました。
たとえばまだ何も分からない小さな子供が、肉親の「死」を悲しい出来事として認識できないように、人類にも種としてものすごく未熟な時期があったはずです。その時期には情操も発達しておらず、不幸を不幸として悲しいと感じることもなかった。
逆に言えば、これは楽園状態です。なんの苦しみも悲しみもないのですから。
「エデンの園」の神話は、このような情操未発達時代の記憶の残滓かも知れません。しかし、アダムとイブは「知恵の実」を食べて知能的に発達してしまいます。そのとたん楽園を追われてしまうわけですが、これは神の怒りに触れたというよりも、知能が上がり、認識力が増し、情操が発達してくると、この世の様々な出来事の中に、「負」の部分があることを感じるようになったということかも知れません。
「負」とは、つまり苦・老・病・死などの出来事です。
アダムとイブは楽園を追われた後、食べるためには労働という「苦」を行わなければならなくなり、子供の出産にも産みの苦しみが伴うようになった、と伝えられていますが、これらはそういった出来事の中の「苦しみ」を認識するようになったということではないでしょうか。
愛する者との別れ、死別。
とくにこういった出来事は、人の意識の中にあるストーリーを紡がせるに十分な力となったでしょう。
いったい、なぜこのようなことが起きたのか?
何か自分は悪いことをしたのか?
この根源的な問いかけが、人に物語を作らせた、と私は考えています。
それはつまり、このような「負」を味わわされる自分と世界との関係を見定めようとする行為そのものだったでしょう。
なぜ自分はこの世に生まれて、生きているのか。
なんのために生きているのか。
このような問いかけも、楽園ではあり得ません。
しかし、楽園を追放され、知恵と認識が増した人類は、考えずにはおれなかったのです。
思うに、この答えを外側に求めた結果、宗教というものが生まれた、と考えられます。
宗教はかならずこれらの問いかけに答えてくれます。牧師が、神父が、ラビが、僧侶が。
その中には「神の御心のままに」というような、曖昧な答えも存在します。
答えなんか与えられなくても、神様に預けておけばそれでいいんだ、という解答もあります。
しかし、何らかの答え、救いを、自分以外の外側の誰かに求めるならば、それを教えてくれる偉い人、あるいは神様、仏様、そういった超越者からのメッセージを伝えてくれる誰かが必要になって来ます。そして宗教という形態も必要になってきます。
しかし、誰も、本当に心の底から完全納得できる答えは、提供してはくれません。
だって、だれも本当にその答えを知らないからです。
いや、ひょっとしたらイエスやブッダは知っていたのでしょうか?
そうかも知れません。あれほどの偉人ならば。
しかし、彼らは今ここにいて私たち1人1人にそれを教えてくれることはありません。
それに。
もしかすると、その答えは1人1人が違っているかも知れないのです。
イエスやブッダは、自分なりの答えを見つけていたかも知れませんが、それが他人にも適応できるものとは限らないのです。
「ねえ、人間はなんのために生きるの?」
「私はなんのために生きているの?」
もし子供にそのように問われたら、私の答えは一つしかありません。
「自分で決めなさい」
お前はどうなんだ? 答えを見つけているのか?
そう問われたら、私は「イエス」と答えます。
なんなんだ、それは?
「小説を書くこと、占星術を学び、行うこと、それを持って人と出会うこと、ホテルでの仕事、大学での生徒たちとの交流、そして愛すべき家族や友人たちとの交わり」
そのすべてが私の人生です。
私の行うことすべてが、私の生きる意味です。