世界と個人(未来を変えるために私たちは何ができるか) |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

<沈みゆく船には……?>
<今、この瞬間に地球が破滅したら、そこには……?>
<あなたと世界の未来が変わるとき>

これらの記事の続編として、この記事は書きます。すでに一応の結論は導き出していますが、まだ言葉が足りない部分があるなというのは感じていて、だからこそ続編があることは明記していました。
「未来を変えるために私たちに何ができるか」
すでに告知していたとおり、このテーマについて、よりいっそうわかりやすく、より深く考えていきたいと思います。
連続記事となるはずなので、「未来を変えるために」というテーマをブログに新設しておきます。この項目で検索頂いたら、記事を連続して読めるようになります。
毎回、このテーマに沿った記事を書いていきますが、内容は個人的なことから世界の命運に関することまでカヴァーするものになるでしょう。

「まだまだ今年産まれた息子と一緒に過ごしていきたい」
「自分自身も何か気持ちが落ち着くかわかりませんが どのようにしたらよいですか?」

一人の女性が下さったそんなメールが、この記事を書く原点です。
ただ同じ問いかけは、私自身の中にも、そして皆さんの中にもあるだろうと思います。

地球環境は今、かつてない危機に瀕しています。先日も北極圏の氷床が崩壊し、流出しているとのニュースがありました。
温暖化温暖化ということは叫ばれて久しく、それに対して有効な協調手段も打てない国際社会。
温暖化の原因は人類が排出した二酸化炭素以外の原因があり、そちらの方が(宇宙的な問題で、太陽の活動に真の原因があるとする立場の人もいる)重要だという意見もあります。
しかし、もし私たちにできることがあるのなら、やらないよりやった方がいいに決まっているし、二酸化炭素だって減らす努力をした方がいい(資源の有効利用の問題もある)。
とはいえ、どちらが原因でも、私たち一人一人はとてつもなく無力です。そのように感じます。

世界では戦争がやみません。テロが毎日のように起きます。そして人が死にます。
ここへ来て、封印が解かれたように災害が頻発し続けています。

まるで世界は黙示録の世界に入ったようです(『ヨハネの黙示録』=聖書の巻末にある、世界の滅亡と神の降臨を描いたハルマゲドンの様相を描いた預言書)。
もっともそんな終末思想に狂った人達が、地下鉄サリン事件も引き起こしたのですから、私たちはもう決してそのような非理性的な盲信の世界にも入ってはいけません。
それらは旧時代のものとすべきです。

911テロを引き起こしたイスラム教徒が、あのような方法での死が、「神の望みであり、聖戦であり、それによって自分が神に召される」と信じていたことは、疑う余地もないでしょう。そうやって、今でも同種の自爆テロが起き、人命を奪っています。
イラク戦争を引き起こしたアメリカ主導の欧米諸国は、キリスト教の旗の下、集った十字軍気取りでした(実際、十字軍という言葉は何度も耳にしましたし、神とか神の意志という言葉が米大統領の口から何度も飛び出しました)。
彼らが信奉する「神」は、キリスト教、イスラム教、どちらの宗教でも、世界を創造した唯一絶対の神ということになっています。そして、どちらの宗教に属する人々も、「自分たちこそ神の意に沿ったグループだ」と信じています。
もしこの両宗教の神が本当の唯一の神なら、この争いには根本的な矛盾があります。唯一の神VS唯一の神なのですから。
どちらかの神、あるいは両方の神が、「唯一絶対神」を騙った偽の神ということになるはずです。

しかし、そうなのでしょうか?
私たちは私たちが信奉する神が唯一絶対のもので、他は偽者だと信じる前に、「神」を口にする99.9%の人がその神を見たこともなければ感じたこともないということを知るべきです。
それは宗教という組織が、「そうだ」と信じさせているに過ぎないという事実を。
神は他ならぬ人間が、観念の中で作り上げているということを。

私は個人的には、キリスト教徒でもないしイスラム教徒でもないし、宗教的には節操がないといわれる日本人の典型のような男です。家には仏壇があり、法事はお坊さんに来てもらい、子供たちには「メリー・クリスマス」と言ってプレゼントをあげ、お正月には神社に初詣する、普通の日本人です。
宗教的偏見は、ほとんどないと言っていいでしょう。
どのような宗教にも、その民族や国家に有効に浸透するだけの親和性や利便性のようなものがあると思います。
教義には深く、傾聴に値するものもあると思われます。そのすべてを否定するものでもないし、無神論者でもありません。
キリスト教、イスラム教の神が偽だと申し上げたいわけでもありません。

「偽」という漢字にご注目下さい。
この字は「人の為」と書きます。
つまり「偽の神」とは、「人の為の神」というふうに解読できます。一種、言葉遊びのようですが、考えれば世の中の現実に符合していることに気づきます。
我が身の都合、利益の為に作り出された神、それが偽の神です。
だから、人が自分の行動の理由付けの中で、神の名を持ちだしたとき、それはその瞬間に「偽の神」となっているのです。
「神の名のもとに行う」
「これこそが神のご意志だ」
「神の望み給う世界」
これらの言葉には、すでに「嘘」があります。
これを「御仏」と言い換えても、「ご先祖様」と言い換えても同じです。
人が自らの為に(あるいは自分たちの為に)、この世を超越した何かを持ち出すとき、それは即座に「偽」と化すのではないでしょうか。

今のこの世界がこのようになっている根底には、明らかに宗教観の問題があります。十字軍、宗教裁判、植民地支配、ユダヤ人虐殺、パレスチナ問題、911テロ、イラク戦争――歴史を振り返れば、それは歴然としています。
宗教者ばかりでなく、それらは人々の潜在的な意識の中に刷り込みされ、なんとなく世界を支配しています。
アメリカ大統領もイスラム教の指導者も例外ではありません(彼らが彼らの言う神を見たことも感じたこともなくても)。

しかし、いかに宗教観の問題が背景にあっても、私たちはもう知るべきです。
世界がこのようになってしまっているのは、神の意志でもないし、望みでもない。
それは人間がそうしたのだ、ということを。

神など関係ないのです。言えば、神の名はずるがしこい人間に利用されているに過ぎません。
人が世界をこうしたのです。
その責任は、だれにも転嫁できない。
毎日、アフリカで飢えた子供が死んでいるのも、疫病に苦しむ人々がいるのも、戦争で倒れる人がいるのも、地震や災害で人が亡くなるのも、すべては私たち自身に責任があります。

なぜなら占星術的には、世界は人の鏡だからです。
ユングの集合無意識論的な解釈をすれば、人の意識の総和が世界を作り出しているのです。
現代物理学は、観測者としての人間の意識とこの世に結晶化される現実の関係に気づき始めています。そこには相関関係があるのです。

私たち一人一人は、ほとんどの場合、善良です。少なくともこの日本で、私は真から邪悪な人間というものにはお目にかかったことはありません(そんなものは時代劇の中にしか存在しないように思います=虚構の存在)。その瞬間瞬間には、たしかに野蛮で獣のようになることはあるでしょう。同じ人間とは思えない行いをする人も存在します。
けれど、本当に根っから悪魔、阿修羅のような人間は、私は存在しないと思います。

イスラム教圏に住む人であれ、クリスチャンであれ、多くはその人個人は善良で、家族や隣人を愛し、世界は平和であるべきだと考えています。
しかし、人が集まる組織、たとえば会社というものができたら、その人個人の考えを無視して、会社それ自体の存続のため、利益を求めて暴走するようになるのと同じように、この世界を作り出す人類の集合意識も、どこかで歪みを作り出すようです。

個人と全体。
この間には、埋めがたいほどの大きなギャップがあります。
このギャップこそ、私たちが今この世界の中で生き、無力感を覚え、焦りを覚える部分なのです。

私がこれから論じようとしているのは、そんな問題です。
地球と私たち。
世界の命運と個人の命運。

私たちには何かできるのでしょうか?
以下、続きます。

追伸・前記事、わずかな誤記があったので、修正しました。ついでに意味を明瞭に伝えるために加筆を一カ所だけ行いました。
予告にある神社の写真は、この後、夜にうちにUP致します。