K配ぜん人物評2 苦労人のチーフ、Aさん |  ZEPHYR

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 作家として
 占星術研究家として
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 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

私の太陽のサビアン・シンボルは「美しい流れにかけられた古い橋」だ。
サビアン・シンボルは12星座(各星座30度)の360度の1度ずつに、象徴的な意味を探り出そうとする占星術手法だ。
先日のミャンマーのサイクロン被害時、火星のサビアン・シンボルが「暴風」であったように、時にこのサビアン・シンボルはえぐいほどの現実を照らすことがある。
私の誕生時、太陽はその「古い橋」のサビアン・シンボルの度数にあった。
このシンボルの解釈は、多少難解なところもあるが、一番重要なのは「古い橋」である。
橋は人が生活の中で使用するもので、しかも分けられた土地をつなぐものだ。しかも「古い」という表現が成されている。
「美しい流れ」は山間の急流ではなく、どちらかというと市街やそれに近い場所を想起させる。
太陽はすべての惑星の集合体であり、人生の究極的目的となるべきものだから、この場合、私という人間の全人生を象徴するものが、手がかりとなるものが、このサビアン・シンボルということになる。

実際、この暗喩は非常に良くできている。
作家としての私のことを言えば、良くも悪くも前衛的ではない。むしろ古典的な手法を重視しており、特に本格ミステリーはこの伝統を重んじたいと考えている。
つまり「古い橋」というのは、これまで人類が積み上げてきた伝統であり、認識なのだ。
このサビアン・シンボルの意味するところは、たとえば自らの表現しようとするものを人に伝えようとする場合、独りよがりではあってはならず、うまく人に伝えるためには、人が普通に共感できるオーソドックスな感性を重視し、それによってうまく事が運ぶというものだ。
これは私が大学の講義などでも、時折語っていることだ。
プロとアマの差も、ここにあるといって良い。
プロは、もちろん自分の表現しようとするところのものを書くわけだが、執筆中でも複眼的に、これを読む人がどのように感じ、何を考えるかということを洞察しながら書いている。これができないと、独りよがりな文章、自分では良いと思っているが他人に理解されない物語というものを創り出してしまう。
多くのアマチュアは、ここで躓いている。
「なぜ自分の良さが分からないのか」というような、自分本位な考えの中で、悶々とすることになる。
この古い橋を置き去りにして、ジェット機やヘリコプターで川を渡ってしまう。
そうすると、誰も気づかない。認識されない、評価もされないということになってしまう。

クリエーターはみな、この古い橋について、一度は思いめぐらせてみるのが良いかもしれない。

また占星術師としての私は、まさにその手法として古い、伝統的な占星術を使用している。これはこれまでの人類の体験的叡智の集大成でもある(今なお構築し続けられている)。
また橋は当然、川にかけられるものだが、川の意味を考えてみたら、さらに意義深いことが分かる。
よく臨死体験者の証言の中で、死にかけたときに見る風景の中に、川が出てくる。
三途の川というものが、日本人の普遍的な認識の中にあるが、それは生と死、あの世とこの世を分けるものなのだ。
川の彼岸にあるものは、人間の魂の世界であり、精神世界である。そしてこちら側にあるのは肉体の世界、現実世界である。
占星術師としての私はこの二つの領域に橋をかけ、そこを行き来しなければならない。また、人々をその二つの領域両方での深い認識に導かなければならない。橋を渡ってもらわなければならない。
とすれば、「古い橋」は私自身でもあるということになる。

この「古い橋」の暗喩が、自分にとって実に有意義な内容を秘めていることは間違いないし、それは理解してもらえると思う。

私のこの「古い橋」と同じサビアン・シンボルを、MCで持つ女性がいる。
私の所属するK配ぜんのチーフ、Aさん(女性)である。
MCとはMedium Coeliの略で、天頂、南中点という意味だ。
占星術の世界では、このMCは環境と意識の接点、つまり社会生活の中での自己表現のポイントを意味し、自分の努力で到達できる頂点の暗示でもある。
もっともわかりやすい表現をすれば、社会的な外面がMCなのだ。
MCやASC(アセンダント=東の地平線)は1日で360度の天宮を一周する。1日は1440分だ。計算上は約4分で、1度動くことになる。ということは、MCがあるサビアン・シンボルで留まっていることは、1日の中でたった4分しかないことになる。
2月1日に生まれた人にも、5月5日に生まれた人にも、等しく必ず一度はMCが「古い橋」になるチャンスはある。ただその割り当て時間は、その24時間の中でたったの4分間しかないのである。

この一点に絞っても、私とAさんがかなり強力に共通する立脚点を持つことがわかる。
私が去年、一度はサービス業を離れ、その後、復帰しようとしたときにAさんに相談を持ちかけたのも、筋が通る話なのだ。

MCは社会的活動のポイントでもある。
外側からその人を見て、「ああ、あの人は○○をしている人ね」という評価を下されるのもMCである。
つまりAさんは、社会運において「古い橋」を持つことになる。

私のケースと引き比べてもらったらわかりやすいと思うが、私は自分自身(=太陽)が「古い橋」なのであって、Aさんは社会的な活動の中で自分が到達すべきポイント(=MC)が「古い橋」ということになる。
つまり私は素のままで「古い橋」として生きられ、機能できるが、Aさんが「古い橋」となるには努力が必要ということになってくる。
これは優劣の問題ではない。私には私のMC、到達すべき別な課題があるのだから、人それぞれに与えられている課題が異なるだけ。

K配ぜんという、ホテルなどの各事業所に配ぜん登録されている人材を送り込む仕事を切り盛りするAさんは、K配ぜんの創始者、Nさんの下で仕事を学んできた。
Nさんについては、また稿を改めたいと思うが、強力な指導力を持つ人物だ。
そして今、Aさんはその業績を受けて、K配ぜんを実質的にコントロールしていかなければならない立場にある。

この場合の、「古い橋」はK配ぜんだということが分かるだろう。
橋は人を往来させるためのもので、送り込む機能を持っているのだから、まさにK配ぜんそのものなのだ。
「古い」のは、すでに過去の時点でNさんが創始したものだからだ。
その伝統を受け継ぎ、その枠内で社会的な活動を発展させていかねばならない。

またK配ぜんという枠を取り払って、もう少し広い視野でものを考えたら、Aさんにとっての「古い橋」は、サービス業やホテル業などの大きな業界全体を指すと思われる。
彼女は何よりも重んじなければならないのは、この業界の伝統である。
改変も必要かも知れないが、根っこにそれを持っていなければ、より人が往来してくれる役立つ橋と彼女がなることは難しいかも知れない。

もっともMCだから、そのためには彼女はかなりしんどい思いをしなければならない。
無努力のMCはないからだ。
太陽で発現される場合、私がそうであるようにたとえ努力をしていても、それを苦労とも感じないでいることにもなるのだが、MCはそうはいかない。

そして多くの人は、そのMCである彼女を、彼女として見ることになるだろう。
そこには誤解も曲解もあるだろう。
彼女の本質(=太陽)、彼女の気持ち(=月)などを深く知ることもなく、チーフとして皆に号令をかける彼女を。

しかし、それで良い。
ただ理解はすべきかも知れない。
彼女が今の彼女であるのは、ゆえなくしてそうなっているのではない。それは運命でもない。運命は裏付けでしかない。
その運命のシグナルを実現しようとする、その人の努力の果てにある結果なのだ。