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山口県光市の母子殺害事件で、元少年の被告に死刑判決が下された。
死刑制度は、推理作家としても人間としても常に頭の隅にある問題の一つだった。
その是非を問う前に、私個人の考えとしては、この元少年への死刑判決は妥当なものだと考える。ただし、現状の日本の法律に照らして、という意味でだ。
日本は法治国家である。
その法は完全ではないかも知れないが、一億数千万の人間がこの国家の中で社会生活を営む調整機能を、これまでかなり有効に果たしてきたと思う。
その法律が、元少年への死刑適用が可能なように作られている。
過去の判例はともかく、適用可能なのだ。
ならば今回の事件には適用されるべきだろうと考える。
なぜならば死刑とその下の無期懲役には、あまりにも大きな開きがある。無期懲役はいずれは釈放されることが前提の刑罰であり、このような凶悪犯罪への刑罰としては非常にゆるいと言わざるを得ない。
遺族が納得できるものではないだろう。
もし私が愛する妻や子を殺された遺族であったら、やはり犯人には現在の日本の刑罰の中で極刑である死刑を望むと思う。本音は我が手で相手をくびり殺したいという気持ちにもなるだろう。その悔しさを、法に託すしかないのが、現代社会と法治国家の中で生きている私たちだ。
殺されたから殺し、殺したから殺される――「ガンダム・シード」にそんな台詞があったが、その憎悪の連鎖がいかに空しく無惨な結果を生み出し続けるかも理解はする。
でも、人間には感情がある。
「目には目を、歯に歯を」
ハムラビ法典の昔から、人はそうして生きてきた。
しかし――。
それでいいのだろうか?
このままで良いのだろうか?
その問いは常にある。
死刑廃止論者の方々は、人間の生命を何よりも貴いものと考え、現状の法律の有り様を変えようとなさっている。
しかし、その努力はこれまで国民を巻き込んでの大きな議論にはいたらず、現状の法律は温存され続けてきた。
私たちは、この問題に正面から向き合うべき時が来たのではないだろうか。
実際問題として、非常にたちの悪い重犯罪者が、反省したふりをして、内心ではぺろりと舌を出し、無期懲役になり、社会復帰して償いの気持ちもないままのうのうと生きていく、あるいは再犯する――こういう現実がある。
「自分の命を持って償え」と宣告されたとき、はじめて自分のしでかしたことを悔やみ、罪の意識を持つというようなこともあるのではないだろうか。
遺族が本当に求めるのは、「犯人の死」だろうか?
怒りに目がくらんでいるときはともかく、本質的にはそうではないと信じたい。
本当の望みは、犯人が真の反省をし、本当の意味での償いの人生を生きることではないだろうか。
そうしてほしいのではないだろうか?
それを目の当たりにしたとき、遺族もようやく相手を許せる。
私にはそんな気がする。
そういう意味では、現状の「死刑」も相手に反省を促す大きな力を有しているように思う。
が、逆に言えばそれは、それだけの「改心」を促すだけの刑罰や更生させるための機能が、刑罰そのものや彼らを受け入れる施設(刑務所)にあればいいと言うこともできる。
日本の法治国家としての欠けた部分は、おそらくここであろうと思う。
刑罰にしても、懲役100年とか、無期懲役ではなく「無限懲役」とか、そんなものがあっても良いように思う(そうなったらなったで、収容のキャパの問題、彼らのために使う税金の問題など、様々な現実的な障害が出てくるとは思うが)。
私は個人的には、将来は「死刑」は撤廃すべきと考える。
殺されて良い命など、一つもないという考えにたっての結論だ。
しかし、それには上記のような、「死刑」に匹敵するほどの刑罰の整備(その目的はあくまでも犯罪者に反省を促すためのもの)が必要と考える。
それ抜きにして、死刑だけを撤廃してしまうと、現状の人類の意識レベルからすると、犯罪抑止効果が低下したり、前述の通り、真に反省する機会の一つが失われるということもあり得る……。
果たして?
いずれにせよ、難しい問題だ。
しかし、いつまでも「目には目を」でいいのかと言われれば、もうそろそろ進歩しても良い頃なのではないだろうか。