作家の考える神様とは |  ZEPHYR

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― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

ちょっと前の記事で、聖書の創世記の一節を引用しました。
あのくだりは有名なソドムとゴモラの逸話で、アブラハムが主である神にこの二つの町を救ってくれる条件を提案しているシーンです。
最初、50人の正しき者が町にいたら、悪い者と一緒くたにせずに町全体を救ってくれるかというアブラハムの問いに、主は「救おう」と答える。
しかし、ソドムとゴモラの退廃ぶりはひどいものだったので、アブラハムはたぶん不安になったのでしょう。
「50人に5人足りなくても滅ぼさないでいてくれるか?」
「滅ぼすまい、45人の正しき者をそこに見つけたら」
それでもなおアブラハムは不安になり、どんどん人間の数を減らして、とうとう10人にまで値切ることに成功する。
なんだか電気製品を値切っているみたいですが。
アブラハムは10人くらいの善人はいるだろうと思っていたら、とんでもなかった。ソドムとゴモラには10人の善人もおらず、町は滅ぼされてしまったという物語。

ちゃんとオチはついているものです。

しかし、私は実は聖書の中で語られる主=神のありようには、大いに疑問を感じます。
聖書の神は、一部の人間を救い、意の沿わぬ者はすべて滅ぼすということを行います。
こういう教えだと、まるでこっちは脅迫されているような気分になります。
「信じなければ救われず、滅ぼされるのだ。死後、地獄に落とされるのだ」
なんだか、そこらへんのカルト宗教と変わりません。神は愛だと言いますが、神の愛とはそんなにちっぽけで、条件制限されたものなのでしょうか?

人間の親でさえ、わが子が悪いことをしたら、そりゃ叱りますが、しかし、徹底的に滅ぼすようなことはしない。
それどころか、どんなに悪い子でもわが子はわが子、とことん慈愛の心を持つ親だっています。
神の愛は、そんな寛容な親の愛にも劣るものなのでしょうか?

じつに単純な問いかけですが、こういうことが宗教上、真面目に論議されて、
「そろそろ古い神様観を持つのはやめにして、より寛大でより素晴らしい神様観を持つようにしよう」
なんて話にならないのがおかしい。真面目な宗教者であれば。

私が個人的に理解するところの神様というのは、もしそれが創造主というものであれば、それは作家に近いだろうと考えています。
「はあ?」と思われるかも知れません。
しかし、作家は自分の作品世界では創造主です。
作品世界を自分のイマジネーションから生み出します(天地創造)。
登場人物も設定を決めます(アダムとイブの創造)。
ですが、時に登場人物たちは、作家の思惑を越えた動きをし始めることがあります。
人物に自意識が与えられたのです(知恵の木の実を食べる)。

そうやって勝手に動き始めた登場人物たちが、仮にどんなひどい悪行をはたらいても、作家にとっては彼らはすべて自らが生み出したかわいい奴らです。
彼らが破滅するとしても(ソドムとゴモラのように)、それは彼らの責任です。
そのような世界を自分たちで作ったのです。
作家はそんな彼らに共感したり、哀れを感じたりするかも知れませんが、すべては自らのインナー・スペースで起こっています。
そして彼らもまた愛し子に違いありません。
なぜなら、善人ばかりで物語を作っても面白くも何ともないから。

彼らが作品世界で存在をやめた(つまり死)からといって、彼らに用意されているのは地獄なんかではありません。
彼らは作家の中に戻る。
そして次なる物語の芽となって、時を過ごすのです。
やがて時が満ちれば、作家は新しい物語を作りますが、そのときに過去に使ったキャラクターを少し変えたり、またあのとき死ななかったらどうなっていたかとか、様々なバリエーションを与えて使うこともある(輪廻転生)。
あるいは、今回は使わずに保留しておくこともある。

もし神様がいらっしゃるなら、そんな作家のようなお方だというのが、私の理解です。