原稿がいっぱい |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

新生活も安定し、毎日のリズムが戻ってきました。
身体は先週の段階で、古巣の労働環境にすぐに馴染みました。もう以前と変わりなく動けますし、疲れ方も同じくらいになってきました。
同じ職場で働くのでも、自社バイトとして働くのと、人材紹介所に登録して働くのでは、意識の上でもずいぶんと違いがあるものだなあと感じています。

以前はひたすらに自分がやらなければと思い、いろんな作業を次々にこなしていったものですが、今は一定の時間内にこれだけの仕事を終わらせればいいという感覚で働けるので、すごく気が楽です。
一度、職場を離れている間に自分が抱え込んでいた仕事のいくつかが、否応なく他の人間の手に渡ったことも大きいですね。
実際、それらがかなりの負担だったということが(バイトにすぎない自分ではなく、そういうことは社員でやってくれよ~、というような仕事)、今になってわかりました。

そんな中で、手をつかねていた仕事(小説)に、ようやく踏み切ることができました。
やはりなにかのサインというのもあろうかと思います。
もう少し形になってきたら報告致します。


今年もその季節がやってきて、我が家には某文学賞の応募原稿の束が届きました。
ドサッって感じで。
オー、マイゴッド。
大変なんですよね、これを読むのがまた。

そういえば先日、ある人の生原稿を読む機会がありました(学生です)。
若書きの作品を評価するのは非常に難しい。
その人が走り出した段階では、盛んに声援を送って励ましてやらなければなりません。
しかし、ある程度、走り込んで、それでもなお記録が伸びないようだったら、走り方のアドバイスをしてやる時期が来る。
場合によっては、叱ることが必要な時期もある。

実際にはそんな単純なものではなく、最初から「こうした方が良い」というようなアドバイスはするのですが、しかし、大まかな流れでは上記のようなプロセスを辿らないと、伸びる才能も伸びなくしてしまう恐れもあります。
しかし、どんな作品でも、短いものであれ、書いて来るというのは、紛れもなく意欲のある行為です。
それは書きたいものがあるということを意味します。

この動機なくしてすべては始まらないのですから、それは大事にしてやらなければ。

というわけで、ぼちぼち原稿読みにかからないと……。