クチコミネタ:秋の夜長にオススメな本・DVD
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秋の夜長に。
このところ、「ガンダムSEED」→「ガンダムSEED・DESTINY」を見続けています。
「ガンダムSEED」は(以下、GSと表記)、制作スタッフが「21世紀のファースト・ガンダムを」という意気込みで作っただけあって、初代のガンダムの設定や匂いを踏襲しながら、映像、ストーリー、演出、あらゆる部分でより高度に完成されていました。
「これでも、ファースト・ガンダムの方が良いって言うの?」
アニメ・オタクの高3の娘が両手を腰に当て、私に質問(いや、詰問であったろうか)しました。
「すみません m(_ _)m たしかにすごいです」
本音です。私は中学校から高校にかけて、初期のガンダム・ウェイブを体験しました。けっこう、はまりました。
しかし、初期の「仮面ライダー」がそうであるように、今見るとノスタルジックな感動はあっても、まっさらな感動はないものです。
「GS」はそうした枠を超えた、まっさらな新作でありながら、旧ファンも納得させる作品でありました。
戦争と世界、そして個人へのメッセージ性も高く、
「殺されたから殺して、殺したから殺されて、それで本当に最後は平和になるのかよ!」
といった心よりの叫び。
「GS」は全世界に吹き替えをし、発信すべき物語です! とくに中東とアメリカ(もう当然、アメリカには渡っているとは思いますが)。
「敵」を根絶やしにするしか、戦争・テロの終結はあり得ないのでしょうか。
ならば、地球には最後には単一の種族、単一の思想しか生き残れないことになります。
それが複数の人種、言語、宗教の息づいている地球の存在意義なのでしょうか。
違う。
断じて違う。
我々にはもっとましな選択、ましな在り方があるはず。
今、私は「ガンダムSEED・DESTINY」(以下、GSDと表記)の後半をDVDで見ています。しかし、ラストは以前、娘が友達に録画ビデオを借りてきて見せてもらったので、知っています。
「GSD」は「GS」とは違い、名目上、シン・アスカという主人公が設定されています。しかし、真のストーリーの牽引者は、前作の「GS」の主人公、キラ・ヤマトと親友のアスラン・ザラの二人です。
シンは悲劇の主人公で、戦火の中で両親と妹を亡くし、家族を守ってくれなかった故国に憎しみを抱き、自ら戦争で戦うことを選択しています。そしてその憎しみゆえに、かつて自分が受けた悲しみと同じ思いを抱く者を、自分自身の手で作り出していること(自分が多くの人を殺していること)には気づかない。いや、目を背けている。
「GS」でそうした憎悪の連鎖に気づいた良き先輩であるアスランの言葉も、シンには届かない。
「GS」で一度、懊悩(戦うことの矛盾、迷い、悩み)を乗り越えたキラもまた、「本当に正しいことは何か」ということを、さらに悩みながら戦火は拡大していく。
人の生き死にということになると、戦争というものは切り離せない話題かと思うのですが、じつは私たちの日常にも関係しているのではないかと思います。
自分の体験、そして自分の狭い了見で、ものがちゃんと見えなくなっているシン・アスカ。
このような人間は、私たちの隣にも存在します。
そして、自分自身の中にも。
「GSD」は「GS」に比べると、劣るような評価もあるのですが、実際には、個人的な多くのメッセージを含んでいます。
シンの叫びは内面描写するとこうです。
「おれの苦しみが誰にわかるんだ」
「おれは両親と妹を殺されたんだ」
「愛情を感じ、守ると約束した女性も、殺されたんだ」
「誰もおれの気持ちなんかわからない」
「だから、世の中はこうであらねばならない!」
「だから、おれはこうするんだ!」
そうでしょうか?
シンと同じ苦しみを味わっている人間は、「GS」「GSD」の世界の中では、実際、何万人、何十万人もいるでしょう(いや、それ以上か)。
彼は憎しみにゆえに心を閉ざし、心ある助言も聞き入れません。自分こそが正しいと信じ。
そして、他に不幸をまき散らすことも可とします。
これで世界は、そしてシンは救われるのでしょうか?
シンは「GSD」のラストまで、大きな視野を手に入れることなく迷走し、最後には馬鹿にしていたアスラン(心の底では好きだったかも)に倒されます(死にませんが)。
「GSD」のラスト・シーンでは、敗北したシンは恋人の胸で号泣し続けます。
彼には救いのきっかけが提示されたようには思えますが、誰に対しても結局心を開くことのなかった彼の本当の戦いは、物語の終焉の先にあるように思えます。
彼は、自分自身を救済せねばなりませんが、それが本当に彼に出来たのかどうかは未知数です。
さて、自分自身が、そして隣人がシンのようになっている人。
実は多いのではないでしょうか。
逆境や不幸の最中にあるとき、人はシンと同じような叫びを発しがちです。
「おれの気持ちを誰がわかるんだ!」
「おれの立場だったら、お前だって同じようになるんだ!」
「あんただって、今のようなことはいってられないし、そんな涼しい顔はしてられないんだ!」
実はそれは違います。
少なくともこの日本で、今、戦争は起きていません。
しかし、個人的な不幸なら多くの人が無数に体験しています。
昨年、私自身、真の意味で「絶望」を体験しました(詳細は自主規制。とても言えません)。
私の体験に比べたら、たいしたことのない体験で叫んでいる人もいます。
逆に私の絶望なんか、ちゃんちゃらおかしいという体験をされた方もいるでしょう。上には上がいます。
私がもし誇れるものがあるとすれば、そのような「絶望」の中でも、人を恨んだり、やみくもに文句を言うことだけは絶対にしなかったことです。
おかれた境遇を誰かのせいにしたり、気持ちわかってくれないと叫んでも、本当は自分自身、救われません。なんの解決にもなっていないからです。
占星術では、また量子物理学の世界では、人は見たいものを見ます。そして望むところの人生を創造します。どんなに不幸なものであっても。自分が頭で、体験したくないと思っていることでも。
自分自身のネガティヴなものがそれを引き寄せることもあるでしょう。
また大きな学びの機会として、それを設定していることもあるでしょう。
しかし、どちらにせよ、その機会を生かすか殺すか、また自分自身をより輝かせるか、殺すか、やはり自分自身なのです。
救済は自分しかできません。
自分で自分を救う。自力救済。
それこそが真の魔術です。口先や思い込みではない。
いずれにせよ、「ガンダムSEED&SEED・DESTINY」。
秋の夜長にこそ、頑張って見る価値があるDVDです(なにせ、長いから)。