大学での後期の講義がスタートした。
後期は「文学と歴史」である。
何ともご大層なテーマだ。
なにを喋れっつーのか(おいおい)。
私は一介の推理作家でしかなく、文学の歴史など、正直なところ本格的に学んだことなどない。語れるとすれば、ミステリー160年のざっとした歴史だろう。
ただ、探偵小説、推理小説の推移と変容、進化と特化についてはやはり時代ごとに興味深いものがあるのはたしかだ。
そんなことを毎回、象徴となるべき作品を紹介しつつ、講義できたらいいだろうかと思う。
後期の初回は、やはり私のことを知らない生徒さんもいくらかいらっしゃったので、みなさんの二十年ほど先輩であることを含めた自己紹介、そして後期の指針、試験によらない単位取得の方法などについて説明した上で、さわりの部分だけを講義した。
推理小説の歴史といっても、文学全体の土壌なくしてミステリーなど存在し得ない。
さらには「文学」は、より大きな土壌に根ざしている。
「物語」という巨大な土壌だ。
したがって、講義はその嚆矢から始めることにした。
これはミステリーに限定されないのだが、人が物語を作る原因、動機というのはなんにあるのだろうか。
物語のルーツは?
これがまずは第一回の講義内容である。
小説という形態を得る以前、世界中の村々に古老がいて、「物語部」=「ストーリー・テラー」として子供たちにやはり先達から語り継がれてきた物語を語り続けてきた。
それは神話であり、伝承であり、おとぎ話であった。
そうした原初の物語は、いったいどこから生まれたのであろうか。
どのような物事にも始まりがある。
ギルガメッシュ叙事詩、旧約聖書の物語、あるいはギリシア神話、北欧神話。
そうした神々や英雄の物語は、どこから生み出されたのであろうか。
その源泉は一つではない。
物語という大きな潮流は、どこかの高峰の谷間から湧き出る一筋の流れだけから発しているわけではない。ガンジスが、インダスが、たった一つの流れで作られるのではないように、いくつもの支流が交わることであの巨大な流れを作り出している。
その原初の支流のうちのいくつかは、容易に想像がつく。
その一つは紛れもなき、「体験」である。
誰かが、どこかの村まるごとが、あるいは民族が、体験した、何らかの衝撃的な出来事の記憶が、その源流の一つだ。
それは空から降ってくる隕石だったかもしれない。
大洪水だったかもしれない。
地震だったかもしれない。
疫病の流行だったかもしれない。
UFOの来訪だったかもしれない。
この地球に発生し、一つの集落なり、何らかの地域的な集まりを持つようになった人類の一部が持った原体験。
それが物語のルーツの一つだ。
多くは、それは災害的なものであったろう。幸福なことは、ただ幸福であり、それは平和を意味する。
その平和の記憶こそが「エデン」なのかもしれない。
子供の頃、(幼児期から虐待などされていなければ)人はみな幸せだった。親に抱かれ、愛情を注がれ、食べ物も与えられ、同じ子供たちと遊び、なんら辛いこと苦しいことはなかったはず。同様に人類にも、種としての記憶の中に、そういった楽園期があったと考えられる。
楽園では物語は生まれない。必要とされないからだ。ただ在るだけで満たされる世界は、そこからさらなる創造をする必要がないからだ。
が、それが破れたとき、おそらく物語は始まったのだ。つまり楽園期の終焉と共に、物語は始まったと考えられる。
なにゆえにこの出来事(多くは災い)は起きたのか?
そう思考する人間の精神活動が、イマジネーションが、物語の源泉だ。
あるとき人は、狩ってきた獣の呪いと考えたかもしれない。
あるいは神秘的な山のある領域に踏み入ったことが原因と考えたかもしれない。
あるいは村で起きた何らかの出来事が、その前兆と考えたかもしれない。
たとえば双子の誕生を不吉なものとする風習、考えが、比較的近代まで地域や民族によっては残されてきた。
古代においては死産も多数にのぼった。
そうした出来事が続けば、民族の存亡に関わる。健康な新生児の出産に恵まれない理由を、彼らは自らの行いや自然現象に求めたかもしれない。
自然は物語の源泉の一つ。
そしてもう一つは、人の行い、個人体験である。
この二つは関連し合っていて、場合によってどちらかが起きる出来事の前兆や原因と考えられただろう。
人がなにか悪いことをしたから、災いが起きた(こうして禁忌、タブーなるものが作られる)。
あるいは太陽がある峰の頂から登ってきたくるときには、日照時間が最も短く、寒さが極限に達し、穀物が収穫できない(こうして死と再生の神話、地母女神の物語が作られていく)。また赤い星が中天にあって、月と並んでいるとき、良くない災いが起きる(こうして占星術や星の神話が生み出されていく)。
古代人はよく空を観察した。オリオンの三つ星などは航海には欠かせなかった。
シリウスもピラミッドの建造されたエジプトでは重視されていたことが確認されている。
神話、とくにギリシア神話などには星との関連が色濃く見られる。またシュメールの神々はそのまま月や金星、火星、木星といった惑星の名でもあった。
現実の起きた人間ドラマと、星との関連、自然現象などが複雑に絡み合い、物語が紡がれていった。
天体も自然に含まれるが、こうした星々の状態も物語の源泉の一つだ。
したがって、私の個人的見解を述べるとすれば、物語の源泉は「天、地、人」の三つの要素から出発している。「天」は空、宇宙である(月の満ち欠け、太陽の運行、星座や恒星、惑星の配置など)。「地」は地球、地上における自然現象(長雨、干魃、洪水、地震、雷、自然発火による森林火災、津波)、「人」は言うまでなく人の行為(狩猟での乱獲、禁足地への侵入、死産、近親相姦、殺人、王や指導者の不徳など)である。
前述したように、これら三つの要素は時に原因と結果の立場を入れ替え、星の配置が戦乱や不作をもたらしたという解釈や、人がタブーを破ったことで災いが起きたとする解釈の両方があり得る。が、単純化すればそれは人と自然との関わり、因果を見定めようとする発想、イマジネーションそのものでもある。
そしてその「天地人」の三つの要素の背景にあるもの。共通する要素はなにか。
「不幸」である。
光が差せば影が生まれるように、人の暮らしの関わりの中で不幸や逆境が産み落とされたとき、それが同時に物語が産声をあげた瞬間でもあったのだ。