COSMOS(秋桜)の日 |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

先日、私の周囲で、ある人間を中心にものすんごいシンクロニシティ(意味のある偶然の一致)が起こり、その人は運命的なものに導かれ、ある結論に辿り着こうとしている。

それはありふれた形でいうならば「結婚」なのだが、その一つの言葉で表現される出来事にも、人それぞれに異なった事情や思い入れ、考え方が存在している。

私はその人が自らの意志と決断でそれを実現させようとし始めたことを疑わないが、人との出会い、導きには神秘的ななにかがあるとしか思えない。

まさにそういうシンクロニシティだった。


もっと大きな視野で見るならば、地球という惑星に今、65億のもの人類が生息していて、この日本列島においては「結婚」という形式を持って、個体と個体の結びつきが生じる。社会的な制度においてだ。それに縛られない形も存在するし、一夫多妻が制度的に認められる国、地域もまた存在する。

日本においては皆さんご存じの常識的な制度として、子孫を残すための生殖活動や生計を立てるための経済活動も含め、男女が一つの暮らしを共有していく形を結婚とするわけだ。


正直なところ、副業である占い師としての観点から言うと、「結婚」=「幸福」とはとうてい言えない。私の元にはたくさんの不倫相談や、今にも別れてしまいそうな夫婦の占いなどが持ち込まれてくる。

完全に冷めてしまった夫婦関係、夫の放蕩、登校拒否の子供、妻の浮気などの相談も異常に多い。

「結婚」は幸福の象徴のように思われがちだが、じつはそうではないことの方が多い。


だが、なぜなのだろう。

やはり身の回りで、そういう人間が出てくると、素直に祝福したい気持ちが湧いてくる。

私は結婚に幻想など抱いていない。

永遠の愛情、永遠絶対の関係など、人間には求めても不可能だ。そのような約束事自体、無理がある。なぜなら人間だけでなく、世界のすべては常に「変わりゆくもの」であり、すべてはプロセスだからだ。

私は別に虚無主義でも、人間に絶望しているわけでもない。無常観にとりつかれているわけでもない。

ただそれが真実なのだ。

本当の意味で存在するのは、ただ永遠に続く「今」だけだ。

そして「今」、自分が誰を愛し、誰との間になにを築こうとしているかということだけしかないのだ。


「今」、昨日と同じ選択を(たとえば昨日と同じ人を愛すること)し続ければ、その関係は「今」もなお永遠であり続ける。


私はそうでありたいと、個人的には思っている(人のことは知らない)。


話を戻そう。

なぜそんな私が、やはり素直に祝福の気持ちを持ってしまうのか。

当たり前の人間感情だからといえばそれまでだろう。


でも、本当はこうなのではないか。


人間もまた命だから。生命だから。

命はただそれだけ、一つの個体だけでは成り立たない。自己増殖できる単細胞生物でさえ、どこかで他に依存している。

ましてや我々は自己増殖なんてできない。

生殖のためだけではない。

生命とはエナジーそのものだ。

そのエナジーは精神面でも感情面でも、常に自と他の間で交流し、影響し合い、より豊かなものへ導かれていく。

もちろん破壊的な方向へ働く交流もある(犯罪のように)。

しかし、誰も「結婚」において破壊的な方向を最初から志す人間などいまい。


より豊かなものを指向して、二人は結びつく。

我々は生命である。

個体ではなんの変化もない。

変化こそが生命の証だ。

寒流と暖流がぶつかり合って、プランクトンを大量に発生させる豊かな海を作るように、太陽の傾きと季節風が渡り鳥と四季を運んでくるように、磁極のプラスとマイナスが惹かれ合うように、太陽と月のシーソーの間で、地球が干満と光と影を繰り返すように。


エナジーは結びつく。そして変化する。そこに豊かな平原を作り出す。山を。谷を。川を。海を。

エナジーは結びつく。

それが自然だ。

エナジーは生命だ。

そして我々は生命だ。


ゆえに「結婚」ではなく、おそらく人と人が愛し合い、結びつくことが喜ばしいのだろう。

二人に祝福を。

二人の永遠の「今」に。


(なに? 理屈っぽいって? 素直に、おめでとうって言え?)

(そうですね……)


おめでとう。