sumireさん、コメントありがとうございます。
ご指摘の通り、アマチュアの語源には愛好するという意味が含まれており、現に今でも愛好家をアマチュアと呼ぶ向きもあります。意味合いとしては「素人」で使われる方が多いですけれど。
さて、小説家の場合、ではなにを持ってプロと呼べるのだろうか。
たった今、大学の講義から戻ってきたばかりのところで続きを書きます。
ただ結論にいたる前に、大学で採ったアンケートをいくつか紹介しておこう。
やはり根強いのは、「お金を稼げるかどうか」をその基準にすること。
しかし、これは「プロとアマの境界線1」で否定した。
たとえば、こんなことも考えられる。
一流の腕を持つ蕎麦屋の主人がいたとしよう。高齢になり、跡継ぎもいないので、ある日店をたたんでしまう。そして、たまに近所の人からリクエストがあったときだけ、かつての腕をふるった。
彼は店をたたんだ翌日からアマチュアになってしまったのか。
いや、そうではない。
たとえ店で蕎麦を打たなくなっても、彼の腕は一流だ。そうそう簡単には衰えないはず。
どうせお金にならないのだからといって、手抜きの仕事をすれば別。
そのときは彼はプロの腕前を持ちながら、アマチュアの仕事をしたことになる。
さあ、ここで出てくるのが、アンケートにも多かったもう一つの意見。
意識の問題。
本人が自分はプロだと認識しているかどうかという問題。
しかし、いくら「おれはプロだ!」と声高に叫んだところで、実力が伴わなければまったく説得力がない。
周囲がその仕事を評価して、アマチュアの域だと判定する程度のものなら、いくら自分にプロ意識があっても、それはたんなる「自惚れ」「自己満足」でしかなくなる。
そうすると、ここで一つ問題が出てくる。
では、プロかどうかという判定は、他人の意見や評価が大きくものをいうのか?
YES!
その通りなのだ、じつは。
ただその他人の意見というのは、一人や二人の好みで意見が分かれるようなものではなく、ある程度多数の人間の総体的なものである。
たとえばアインシュタインが理論物理学のプロであることは、異論がないと思う。
それが誰しもが認める彼の業績、能力だからだ。
彼が理論物理学のアマチュアだという人間は、いないと思うし、いた場合、その人間の方が感性や判断能力を疑われるだろう。
ただ、この他人の総体的評価というのはどこから来ているのか、ここを考えてほしい。
すべては本人から発しているのだ。
彼が蓄積してきた知識、駆使した技術、発想、インスピレーション。
一つの作品に綴じこめた彼の持つそれら。
読者はそれを感じる。それを読む。
そして思う。
「プロだ」と。
つまりこういうことだ。
作家におけるプロとは、現代においてプロの名に値するほどの知識、あるいは独特の感性など、人を魅了するだけの何らかのものを内的に持っていて、それを作品として結実させる技量を持っていることが、前提としてある。
スポーツ選手が身体を鍛えたり、技術を磨くのと同じことだ。
これなくしてプロもへったくれもない。
そして彼が結実させた作品。
それはまぎれもなくプロのものといえるだろうが、他人なくして「プロ」もないということなのだ。
なぜか?
小説家の場合、プロというのは自分の書いたものを他人に読ませることを前提としているからだ。
自己満足で書き、机の引き出しにしまっておくだけの作品しか作らなかったのであれば、それはプロではない。
人が、彼の作品を読み、「これはすごい」「感動した!」「プロの仕事だ!」などの評価を下すことが、非常に重要なのだ。
それはつまりひと皿の料理に似ている。
プロの料理人が知識と技、そして心を尽くして作った料理。
それは客の前に差し出されるものだ。
そして客が食べるものだ。
もちろん客個人の好みの問題はあるだろう。
和食が好き、洋食は嫌い。うどんよりラーメンが好き。中華よりイタリアンのほうが好き。等々。
しかし、本当にプロが作ったものなら、たとえ好みは違っても、人にある種の感銘は与える力を持っている。
ひと皿の料理。それを食べた客が「うまい!」「すごい!」「プロの仕事だ!」などの評価を下すかどうか。
小説も同じだ。
ハードボイルドが好き。本格推理しか読まない。いや歴史ものを愛好する。
そういう好みはあるだろう。似たような系統に属する作家でも、あの人のは好きだが、この人のはどうも文章が虫が好かない。そういうことが現にある。
しかし、それは個人の問題で、総体的、総合的にはその作品に対して、いいものかどうかという評価は世間が下してくれる。
いいものはいい。
単純な真実が、総体的にはこの世にはちゃんと現れるようになっている。
ただ世間の評価というのは、一種の「証明書」のようなものにすぎない。
本当はその作品が書かれた段階で、それがプロのものかどうかというのは、もう決まっている。
世間はそれを裏書きしてくれるだけだ。
だから主客を逆転させてはならない。
世間の評価が高いことが、かならずしもその作品の良さを保証しているわけではないからだ。
場合によっては出版社が、その作家を大々的に売りたいがために仕掛けている宣伝に踊らされているだけ、ということもあり得るからだ。
しかし、もっと単純な事実に立ち戻ってほしい。
なんだっていいのだ。
一杯のラーメンのすごさに唸らされるときがある。
一貫の握りに陶然となることがある。
そこに人はプロの技と心意気を感じ取る。
それがそこに、ちゃんとあるからだ。
ないものに、それは感じられない。
プロの仕事かどうか、作品が出来た段階で決まっている。
が、その作品も他人がいなければ、無意味である。
人があってこその「プロ」なのだ。
そこで私たち小説家のプロは、なにがアマチュアと違うのか。
いくつも要因はある。
知識、技術。
こんなものはあるレベルを越えているのが当然だ。
そこに達していない人間がプロを名乗るなどおこがましいし、すぐに化けの皮がはがされる。
だからこれは大前提で、条件①となる。
では条件②は?
知識と技術、そしてプロとしての意識を持ち、それを作品の中に結実できるかどうか。知識も技術も生かされなければ意味がない。持っているだけでは宝の持ち腐れだ。つまりそれが意識であり、意志だ。
条件③。
プロはじつは他人のことも視野に入っている。
これはこのブログにも何度か書いてきたことだ。
プロの作家はこの作品、この文章を読んだとき、読者がどう感じるか、そういうことまで考えられる人間でなければならない。
でないと、自己満足な作品しか作れないことになる。
そしてそれが結果的に彼をプロたらしめることになる。
なぜなら彼は読者をどう楽しませるか、どう悲しませるか、どう共感させるか、そしてそのことで作品の中のなにを伝えたいのかということまで、考え抜いているから。
それはつまり思いやりでもあり、同時にプロフェッショナルでなければできない次元の高い技だからだ。
ひと皿の料理。
旬の春野菜。
このうまみを食べた人に伝えたい。
ジューシーで柔らかい子羊の肉。
そのうまさを最大限に発揮するには?
一流の料理人はつねにそれを考えている。素材も大事、それを生かす技も大事、そのためには知識もなくてはならない。
そして何よりも、最高のものを作ってお客様に提供したいという心意気、意識。
これらを兼ね備えた人間。
それがプロである。
一つでも欠けたら、それはプロではない。
そして作家も同じである。