プロとアマの境界線3 |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

作家のプロとは何か。

ベースとして必要なのは知識、そして使いこなす技術、そして読者に最高のものを提供しようとする意識。

この三つだというお話をした。


具体的にいうと、知識とは基本的に読書そのものである。推理作家でいえば、これまでのミステリーの良書をいかに読んでいるか、そしてそれらから必要とされるエッセンスや情報を吸い上げているかということ。

これまでのトリックやアイディアについての知識量もある程度は必要である(すべてというのはほとんど無理。ミステリーは日本においては多すぎる)。

せっかく自分が考えたトリックが、すでに別人が発表していたなんてこともあるし、また他人のトリックから独自のアレンジ、意匠を付け加えることで、かなり趣が異なった新トリックを生み出すなんていうのも、結局はそういうミステリー界の現状を知ることで初めて可能になる作業だからだ。


技術。これはいうまでもない。

文章表現力、そして思いついたトリック、作り出した謎をいかに物語の中に盛り込んでいくか、飾り付けていくか。そして何よりもミステリーで重要なのは、「伏線」だ。

謎を解く鍵をいかに巧妙に配置し、目立たぬよう伏線を張っていくか。

この技術は非常に高度なものだ。


「最高のものを提供しようとする」意識については、これは技術や知識とは関係がない。どんなに未熟で駆け出しの人間にも持てる気持ちだ。そして原点だ。

つまり初心忘るべからざるの部分である。

たとえば寿司職人を目指す人が、最初に抱いた感激。

「おれもこんな寿司を握りてえ! こんなの作って人に食べさせてえ!」


同じである。


これがすべての原動力で、これがない人間がどんなに技術や知識を習得しても、その作品には魂がないだろう。真のプロにはもちろんなれない。



これら三つは絶対要素と言っていい。


自分の書いたものが評価されない、何度やっても落選する、思いついたアイディアが他人に理解されない。

もしこのような人がいたら、その人はこれら三つのうちのどれかが自分に欠けているかもしれないと、もう一度謙虚になって考えてみるべきだと思う。


またこれら以外の要因も考えられなくはない。

三つの要素をどれもある程度は身につけているのに、他人からの評価を得にくい人は、一般的な常識が欠如していたり、バランス感覚が弱かったりすることがある。

自分の世界では「これでどうだ! すごいだろう!」なのだが、それを世間に持っていくと、世間は「ちっとも面白くない」という感想しか抱いてくれないことがある。

なにが原因でこのようなことが起こるかというと、自分の感覚と一般的な人にズレがあるためで、またそのズレを認識できないがために、自分が悪いとはとても思えず、自分を評価しない他人の方が悪く思えてしまう。

これは不幸なことだ。

一般的な人の感覚というのは、凡人という意味ではない。いまこの現代に生きているおおよそ、総体としての人の意識のことだ。


このような袋小路に陥ってしまうと、人は容易にそこから抜け出せない。何しろ彼にとっては、自分には落ち度がないのだから。


どうしてこのようなことが起きるか?


現実の人との関わりが薄いと、このような感覚のズレは生じやすい。

人間関係の中からちゃんと学ぶべきことを学んでいない、また悲しいことだが、たとえば親などから与えられるべき愛情を与えられなかった場合など、このような歪み、ズレが起きやすいようだ。


プロとアマチュアの境界線を分ける四番目の要素。

つまりこれは「感性」なのだ。

これは区分けとしては「知識」に近い場所にある。

しかし、この場合は読書などから得られる情報ではなく、生の人間としての、全人格的なものだ。


これを埋めるには、人としての常識的感性を養うために、生の人間の中へ、それも特殊な業界、自分の居心地の良い知人たちの中だけでなく、ごく一般的な当たり前の人々の中に飛び込んでいくしかない。

そして時間をかけて、自分と世間のギャップを埋めていくしかないだろう。

それは一朝一夕には埋まらない。