3月3日の夜想の会で、礼子さんが発言されたときに、近頃の私のブログを見ると、私が占いの神に取られてしまうのではないかと不安を覚えるというようなことをいわれ、隣で薫葉君が「よくぞいってくれました」的な反応をしていた。
そのときに私は、「いや、むしろこれから私はもっともっと占いに力を入れていき、逆にそれで食べられるくらいになる」と宣言しました。そうすることによって、逆に小説創作にもプラスになると。欲得で小説を書く必要がなくなり、本当に実力を発揮できるようになると。
この考えは基本的に変わってはいないのですが、もしかするともう「転機」が訪れつつあるのかもしれないと、ふと胸に落ちてくるものがありました。
実を申せば、3月3日という日、これは去年の同日、喜多とともに「ホイール・オブ・フォーチュン」という占い研究会を立ち上げ、私たちが占いのプロ・デヴューを果たした日でもあるのです。
はたとそれを思い出しました。家内の誕生日だったし、私は3に縁がある男なので、それでその日を旗揚げの日としたのです。
しかし、一年後、私は夜想の会で「ZEPHYR」の発足の経緯を話し、我々の未来における成功を宣言してしまいました。
思えば、私は個人的には「不言実行」タイプの男こそ男らしいと思っているのですが、どうも自分は有言実行タイプらしく、昔から自分がやり遂げようとすることを時と場合によってははっきり宣言しているのです。
たとえば高校卒業時の文集には、十年後の自分について書く欄があったのですが、そこには「小説家になっている」とはっきり書いてあるし(実現)、その頃の友人たちには「なる」と宣言している。
また夜想においでいただいた方の中には、小説家デヴュー前夜の私を知っている方もいて、その方がいうには私が小説家として世に出ることを当然のように語っていたらしい(実現)。
3月3日、夜想で私が「ZEPHYR」の未来における成功を宣言したのには、なにやら意味がありそうな気が・・・。
もちろん、私はそれが実現すると思っているのですが(というのも、私たちの活動には失敗する理由がない→失敗するはずがない)。
すげー思い込みだと、あきれられてもかまいませんが。
それはそれとして、一年前と今年、同じ日に私は「占い」→「小説」という、一つの節目を迎えた気がしないでもないような・・・・おや?
こんなことを書くと、きっと礼子さんは喜んでくれるでしょう。薫葉も横で拍手をしてそう・・・。
実はその日(3月3日)、夜想に行く前に本屋に立ち寄り、私はふいに目に入った本を速攻、買っているのです。
本のタイトルは「人生の転機」。
笑えるでしょう?
これがシンクロニシティだったら、本当にこれから私の進路は本道である小説に戻るはず。
この本の著者、キャロル・アドリエンヌの前著「人生の意味」という本を私は読んでいて、続刊だったので
買った訳なのですが、去年の10月には第一刷が出ているのに、なぜか私の目に入ったのはその日だったのです。
転機というのは、実は最近強く感じていました。
その中にはショッキングなことも、自分のうかつさから失敗したことも含まれているのですが、それらがどうも指し示すのは、「占い」という行為への一種のブレーキ的な示唆のような気がしないでもない。
今すぐに判断するのは早計とは思うのですが、たぶん大筋で間違っていない。
占いを磨けば磨くほど評価は高まり、自分も満足感はあるのだけれど、やはり自分が本当にやりたいことは・・・・いうまでもない。
その制動がかかったのかもしれない。
それと占いをして、自分の小説家としての能力について、別な認識を得たことも大きい。
じつは占いに集中すると、「回路」が開かれる感じがする。これは前から感じていた。特に頭、側頭部のある部分に、特殊な感触が生まれるのだ。全開になった状態では、頭全部がそうなる。
なんのことかよくわからん? そうでしょうね。こっちもうまく説明できない。
側頭部の毛穴が開き、そこから「気」が送受信されるような、そんな感じがするのです。頭髪が立つような・・・そんな感じ。
実はこの感覚、小説で絶好調時に訪れる感覚に似ているというよりも、同じものらしいと気づきました。
前からそうだったのです。
自分というものが消滅し、作品世界だけが目の前に開けている、自由だ! 自在だ! そんな感覚の中で小説を書いているときの、あの喜びの時。
そういうとき、私は同じ場所に似た感じを持っていたのです。
これは何を意味するのだろうか?
実は小説を書く才能と占いをする才能は、非常に近いのではないか。
そして占いへ一度寄り道をした私は、その能力を意図的に使えるようになったのかもしれない。
前は、「訪れ」を待っていた。が、今はもう「待つ」必要はないのかもしれない。
なぜなら私は、それが集中によって簡単に起こることを知っているから。
占いへ寄り道をしたのは、もしかするとこれを知る必要があったから?
だとしたら、人生はすげえ。
よくできている。誰かが書いたシナリオみたいに。