御客神社:島根県隠岐郡隠岐の島町原田
壇鏡神社:島根県隠岐郡隠岐の島町那久1617
岩倉神社:島根県隠岐郡隠岐の島町布施
大山神社:島根県隠岐郡隠岐の島町布施127
白島神社:島根県隠岐郡隠岐の島町西村小魚留2133

アニミズム:自然界のそれぞれのものに固有の霊が宿るという信仰。▷ animism ラテン anima (=霊・命)から。宗教の原始的な考え方の一つ。出典:Oxford Languages

この概念を提示したのは、イギリスの人類学者、エドワード・バーネット・タイラーだ。
"the belief in the animation of all nature, rising at its highest pitch to personification."
(すべての自然が生命を吹き込まれているという信念、それは最高潮に達すると人格化へと高まる)"To the lower tribes of man, sun and stars, trees and rivers, winds and clouds, become personal animate creatures, leading lives conformed to human or animal analogies..."(人類のより未開の部族にとって、太陽や星、木や河川、風や雲は、人間または動物の類推に従った生活を送る、人格的な生命を持った存在となる...)
著者: Edward Burnett Tylor (エドワード・バーネット・タイラー)
著書: Primitive Culture (未開文化) (邦題:原始文化)
発表年: 1871年
該当箇所: Volume II (第2巻), Chapter XI (第11章) - "Animism" (アニミズム)
(上記の引用は、第2巻第11章の記述をまとめたものです。) 出典:Google Gemini

葬儀と法事を除いて宗教とは無縁だった僕がそのことを考えるようになったのは、十五年前に大病を患ってからだ。生死どちらの方に転がるかは半々の確率で、ひと月近い入院の間、そのことばかり考えていた。正に祈るような心持ちだった。祈りとはなにか、ひとはなにを祈ってきたのか、なんに対して祈りを捧げるのか、云々。幸いにしてこの病の結末は生の方に転がり、数年後から国内各地の社寺を中心に聖地を巡るようになった。爾来十年余りかけて辿り着いたのは、我々が自然と称している空間に神々は住まうということだった。その多くはいまジオパークと呼ばれている場の中にある。地質は聖地を生み出す母胎なのだ。熊野、阿蘇、伊豆、室戸、山陰海岸、三陸…日本には48のジオパークがあり、隠岐はユネスコ指定のジオパークである。隠岐のアニミズムの聖地を探ってみよう。

 

御客神社

 

御客(おんぎゃく)神社は、町の中心部から車で4kmほど行った県道沿いにあった。道路に面した森にあり、鳥居はあるもののうっかりすると通り過ぎてしまう。門前に車を停めて鳥居をくぐると杉の大樹の切り株の上に若い杉が植えられていた。貫の代わりに二本の竹を渡して杉を挟み、注連縄を蛇のように回してこれを結えている。御神体は背後に見える注連縄が掛かった岩塊だ。左手に祠があるがこれが当社の祭神を祀ったものかどうかはわからない。そもそも当社は祭神も由緒も不明だ。縄文時代から祀られていたとする御仁もいるが、根拠はない。ただ、古層の神々であろうことは間違いない。



 

 

熊野の古座川に神戸神社という社殿のない神社があるが、そのありようは当社に非常によく似ていた。神戸神社は森を祀るとされるのだが、当社も往時は森を祀っていたのではないかと思える。僕はこの岩石そのものにさほど聖性を感じず、むしろこの空間になにか特別なものが宿っているように感じた。これは体感である。アニミズムとはそういうものだと思う。それは今の日本でいうところの”霊感”とは異なり、場の持つ聖性を知覚することだ。修験者はそうした感覚、つまり五感を統合して自然=神々の声を聞くことを修行を通して身につけているのだろう。聖地に足を運んでなにも感じられないとすれば、それはエミール・ルソーのいう”自然人”のありよう、動物としての絶対的な感覚の有無を疑ってみた方がよい。いつしか比較や競争といった”社会人”のありように呑まれてしまい、精神の自由を失っている可能性がある。あるいはその聖地が偽物か。どちらかではないだろうか。

御客神社 御神体


御客神社を離れた後、島後北西端、久見にある伊勢命神社に向かった。ここはアニミズムの聖地ではないが、島後在住の人々からもっともご利益のある神社とされているらしい。伊勢命とあるのは伊勢神宮とつながりのある磯部氏が当地を治めていたからだ。磯部氏は後の度会氏、代々外宮の神官を務める一族で祖先は海民とされる。隠岐国の名神大社四社の一社でもあり、これも伊勢につながる証左の一つだ。本殿は隠岐造だが天保九年(1838)の大火で焼失し、三年後に再建されたものだという。

 

伊勢命神社 拝殿

 

伊勢命神社 本殿

 

さて、次は滝である。島の西側の道路を南に下りていく。途中で林道を左に入り、那久川沿いを上っていくと一の鳥居が立っている。これをくぐってさらに1.3km進むと二本の杉の巨木の先に二の鳥居が見える。手前に車を停める。ここから徒歩で300mほど歩くと三の鳥居があり、石段、随神門と続いていくのだが、落石の可能性が高いために進入は遠慮しろとの赤い札が下がっていた。構わず先を行く。ここまで来て滝を拝まないという話はない。

 

壇鏡神社 二の鳥居

 

随神門をくぐると右手に岩壁から落ちる滝が見えてきた。落差50mはあるだろうか。那智の滝や華厳の滝のような大瀑布に比べると迫力には欠けるものの、飛沫が落ちていくそのさまは繊細でたいへん美しい。突き当り右側に社殿があり、その右側を少し上ると滝を裏側から眺めることができる。脇にある岩壁の一部はくり抜かれ、石窟になっていた。錆びた鉄格子の中には光背のある銅製の仏像、脇には不動明王の石像が控えている。後世に掘削して造られたものと思うが、修験者が籠った場でもあるのだろう。もとよりここは行場だった地で、遣唐副使の任命を拒否し、隠岐に流された小野篁も関わっている。

神門をくぐると右上に雄滝が見えてくる。

 

 




雄滝の脇に設けられた石窟




都万村那久横尾山の下に松尾山光山寺(承和5年、もと遣唐副使で嵯峨上皇の忌諱に触れ、隠岐に流された小野篁の住みし所である。また、小野篁は、赦免となって帰京できるよう壇鏡の滝に打たれ、一心不乱祈願したと伝えられる。)という古い寺があるが、そこの二代目慶安という僧侶が夢の告げを受けて、険しい横尾山中をさまよっていると、目前に大きな滝が二つ現れたと伝えられる。これが壇鏡の滝である。この滝の上を少し登ると、もう一つの源来の滝があり、この滝の上に一個の神鏡を発見し、これを祀ったのが壇鏡神社である。(後略)都万村観光協会(二の鳥居前の案内板)

光山寺の創建は宝亀年間(770-780)とされ、小野篁の配流時の在所と伝えられる古刹だが、現在は再建された祠が建つのみだ。一の鳥居の800mほど手前にある。小野篁がこの寺にいたのは承和5年から7年(838−840)の二年間だが、その頃から修験道は隆盛を極めていく。同寺にも僧侶や優婆塞らがたむろし、盛んに山林抖擻を行っていたことは想像にかたくない。修験道は古神道、仏教、道教、陰陽道などが混淆した日本独自の宗教だが、その源にはアニミズムともいえる自然観が認められる。

 

 

社殿背後にある滝は雄滝とされるが、三の鳥居まで下りた右手の建物の裏手には雌滝が落ちていた。落差は40mとそこそこあるが、残念なことに川底がコンクリートで固められていてやや興醒めの感がある。訪れる人もいないのか案内標識すらなかった。滝を後にして二の鳥居まで戻る。鳥居の前に立つ二本の杉に面白いエピソードがあったので紹介しておこう。



 

昔、壇鏡神社に出雲大社の神殿修理に協力するように文章が送られてきて、境内の杉の木を要求されました。出雲大社の要望に村人は腹を立てたものの仕方なく、境内の杉を伐り出しましたが、その時神社の鳥居を本殿の方へ動かすものがいました。男は、「こうしておけば、鳥居の外の杉は檀鏡神社の所有でないことになる。」というので、一同は感心して手伝って鳥居を動かしました、それで今も、この神社の鳥居の外には二本の杉の大木が残っています。(出典:隠岐島後民話・伝説案内板 No.15 八百比丘尼 in 隠岐島2000 実行委員会)



さて、次は神樹を訪ねよう。まずは岩倉の乳房杉(ちちすぎ)だ。島後東岸の浄土ヶ浦からアプローチした方が道はよいのだが、ジオサイトのひとつ、隠岐片麻岩を見学してからその先の林道に入っていく。舗装はされているものの、落石でところどころ穴のあいた凸凹道が続き、距離の割にかなり時間がかかった。深い森の中を行くために出会った時の感動はいや増すので、僕はこちらをお勧めしておく。



到着した。鳥居が立ち、その10mほど先に奇怪な形をした杉が見える。鳥肌が立つ。横から上へと枝が伸び、気根が塊となって垂れ下がる様子は、神でなければ物の怪だろう。島後三大杉のひとつとされ、近隣の山を守る神木である。その姿は画像でご覧いただく通りだが、日本海側に分布するウラスギの一種とされ、霧と雪の多い環境に適するらしい。樹齢800年、樹高40m、幹周11mとされるが、この樹はその異形によって神となったのである。異形はしばしば神となる。人間も同様だ。中世の遊行僧や芸能民は姿形こそ襤褸を纏った汚い”なり”だったのだろうが、それゆえに聖視された。世界に類例を求めれば、日本に限らずあらゆるところに聖/賎を一体とする宗教民俗が現存する。ここで深入りはしないが、人間はこうした感性をなくした時に思想や行動が堕落するのだと思う。
 


乳房杉を後にする。浄土ヶ浦方面にそのまま道を下っていくと左手に大山神社の鳥居が立っている。社殿などの人為物はなにもなく、開けた地に杉の巨樹が聳えているだけの潔い聖地だ。樹高30m、幹周7.1m。樹木下方のまわりには”かずら”が幾重にも巻きつけられている。案内板によれば、これは隔年四月初めに行われる「布施の山祭り」によるものだ。祭の前日にかずらを伐り出す「帯裁ち」と、そのかずらをこの樹に巻きつけ、山仕事の安全を祈る「帯締め」から成る行事で、享保年間に杉の植林がはじまるにあたって山開きの行事として定着したという。この風景はどこか諏訪の御柱祭、あるいは蓋井島の山ノ神神事を思わせる。祭がはじまった時代も、その趣旨も、あり方もまったく異なるのだが、共通する心性を嗅ぎとることは可能だろう。それは原初から今日まで、広くアジア人に共通して備わる心性ではないかと思えた。

 






最後に島後最北端にある白島神社を紹介して本稿を締め括ろう。布施の集落から国道485号線を走り、漫画家水木しげるの故地といわれる武良の集落を越えてしばらく行くと、右手に白島崎に通ずる道が見えてくる。1km先に白島崎展望台の駐車場がある。ここから少し登ると左に灯台、右に展望台に続く道があるが、僕は海岸まで片道30分近くかかる山道で白島崎の突端を目指すことにした。
 

 

島というのか、岩礁というのか。ジオパークならではの景観だ。白島、小白島、そして松島の名がつく。白島の左奥に見えるのが沖ノ島だ。オオミズナギドリの繁殖地だという。灯台の傍に鳥居があるというが確認できない。灯台の裏にあるのか、はたまた台風で消失してしまったのか。島根県神社庁のホームページによれば、祭神は綿津海神、神徳は雨乞いとされている。ワタツミは海神であり、当地に祀られることに異存はない。ただ、僕は「白島」という地名が気になった。通説では海岸を構成する岩石が白いことから「白島」の名がついたとするが、これはジオパークゆえの理屈で少し無理があるように思う。前稿で述べた水若酢神社の成立に関する当方の愚説、新羅がシラ、白と転訛したということに従えば、渡来民が上陸した島という見方もできよう。水若酢神社の創建は伊後に揚がった白鷺に因むが、現在の伊後は白島崎の西半分を指す地名であり、もう半分は西村である。可能性のひとつでしかないが、古くからの地名にはかならずといってよいほど古事が纏わっている。歴史好きには渡来民の上陸地とした方がロマンを掻き立てるのではないだろうか。

沖ノ島。灯台の前に鳥居が立つというが…


白島崎の突端から戻り、あらためて駐車場左手を登ったところにある灯台に赴く。そこには遥拝のための鳥居があった。島々を眺めながら、そういえばジオパークには地磁気の異常を示す地が多いことに思い至った。聖地の感知と地磁気の間にはなんらかの関係があるかもしれない。磁気感覚は鳥類や魚類で知られるが、細菌から動物に至るまですべての生命が備えている極めて原始的な感覚である。白島神社のある沖ノ島がオオミズナギドリの繁殖地だというのも関係がありそうだ。

白島神社遥拝所


気象庁の地磁気観測所のホームページでは「もし地磁気がなくなったらどうなるか」という問いに対していくつかの研究事例を挙げた上で回答をこう結んでいる。「これらの事例からすると、もし地磁気がなくなったら、多くの人が身体の変調をきたすおそれがあるわけです。湿度、気圧、温度などの気象条件同様、地磁気も、病理学的に見て、人体に何らかの影響をおよぼしている可能性が高いと思われます。生物の進化の始めから地磁気は存在し続けてきました。生物はその進化の過程で、他の環境要素(大気、水圏、重力、太陽光など)同様地磁気にも適応してきたのであり、地磁気は生物にとって大切な地球環境の1つなのです」。(出典*1)

(2025年9月19日、22日)

出典
*1 地磁気観測所 地球電磁気のQ&A

参考
島根大学 島根まるごとミュージアム 光山寺跡
NHK BS 「フロンティア 地磁気と生命40億年の物語」(オンデマンドにて視聴可能)