因島/重岩石鎚大権現:広島県尾道市因島重井町
伯方島/宝股山遺跡:愛媛県今治市伯方町有津矢取畑
岩城島/妙見神社:愛媛県越智郡上島町岩城
佐島/横峰山・石鎚山:愛媛県越智郡上島町弓削佐島

芸予諸島とは旧国名である安芸国と伊予国の間、瀬戸内海にある数百の島々の総称で、有人島は50島余り、島々には約17万人の人々が住む。弥生時代から製塩が行われており、土器や鉄器、石鏃などが出土する遺跡も数多くあるが、その中には神社が登場する遥か前から存在したと思われる磐座祭祀の場がある。これまでも向島生名島の磐座を紹介してきたが、いずれも低山の山頂付近、眺望の開けた場所にあり、他にも同種の遺跡があるだろうと探してみるといくつも存在していた。

これらはいったい何なのか。先に答えておこう。弥生時代の高地性集落における祭祀遺跡である。高地性集落とは低地性集落との比較から1950年代に指摘された概念で、考古学、歴史学、地理学などさまざまなアプローチによって研究されている。確たる定義ではないが、一般には弥生時代に山や丘陵の上に築かれた集落で、主に瀬戸内海沿岸などに分布し、見張り、烽火、逃げ城など防御的性格、あるいは交易および海賊行為など経済的性格を有し、倭国大乱との関係も示唆されるという。

今回の行程 ①因島②伯方島③岩城島④佐島


尾道で旧知と酒を酌み交わした翌朝、しまなみ海道を経て因島へ向かう。重ね岩石鎚大権現は白滝山フラワーラインの途中にあった。白滝山は因島村上水軍が見張り台として山頂に観音堂を建てた山で五百羅漢などもある景勝地だが、元々は修験の山だったらしい。案内板の由来には江戸時代末期の石鎚講により観講された霊場だとある。石段を上ると眼下に絶景が広がる。典型的な磐座の構えであり、自然に拠るものではなく人の手が入っていることが明らかである。




巨石の一つには「石鎚大権現」と彫られており、上に石造のレリーフを据えてある。修験者の誰かが山中を巡っていてこの場所を聖地として感得したのだろう。宗教人類学者の植島啓司氏は「聖地における物語のモチーフにおいて重要なのは神と特定の場所の結びつきのほうであって、神そのものではない」(出典*1)とするが、ここで祀られている神も江戸時代に石鎚大権現に代わっているのである。白滝山の山頂も含めて、当地も高地性集落遺跡の一部であり、祭祀を執り行った場所と思うのだが、弥生時代にはいったいどんな神を祀っていたのだろうか。

 

次に向かうのは伯方島の宝股山(ほこさん)だ。伯方島インターチェンジを下り、宝股山トンネルを抜けてすぐに大きく左折して山に入っていく。中腹に広い駐車場がある。車を停め、登山口に向かう。標高304mなので100mほど登れば山頂だろうか。登山道は遊歩道として整備されていたがけっこうな急坂だ。少し登山の心得がある身としては、階段がついていると逆に登りにくい。絵が描かれた標識に「山頂まであと300段」などと記してある。11月中旬だというのに汗が噴き出す。山頂まで一気に上りきると道が左右二手に分かれていた。右に進むと巨石が現れはじめ、視界が開けると目指す磐座が見えた。ちょっとした砦のようで、神々の要塞といった感じだ。



 

 

これは素晴らしい。生名島の立石山遺跡の磐座も凄かったが、この磐座の造作はよく整えられており、まるでモダンアートのようだ。岩の組み方ひとつでこうも印象が変わるのか。造作する集団によって意匠が変わるものだとすると、この島の弥生人たちのセンスは光っている。裏に回ってもその造作は崩れることはない。なんだかイサムノグチの作品でも見ているかのようだ。巨石の合間に阿弥陀三尊の石彫のレリーフが立ててあるのはご愛嬌か。おおかた修験者が奉納したものだろうが、後世の信仰など寄せつけもしない揺るぎない姿には感銘すら覚える。曇っていてやや視界は悪いものの、眼下には有津港の湾岸がよく見えた。信仰の場であることは間違いないが、一方で海行く船を見張る場、海上からは山当てとなる場であることも実感させられる。こうしたことは現場に行ってみないとわからない。

来た道を戻り、下山せずにそのまま数10m進むともうひとつのピークがあり、そこに三角点があった。この周囲にも磐座と思しき巨石が散在していたが、二つのピークにある磐座の関係がどのようなものであったかはわからなかった。案内板によれば前記の磐座は女陰石というのだが、こちらには男根石と見られそうな巨石は見当たらない。また、この島には五月に高井神島より本島に大蛇が渡り来て、鉾山に入る伝承があるという。あらためて蛇(龍)と水と石の関係を思い起こさせるのだった。

もうひとつのピークにある磐座


いったん因島まで戻り、土生港から車ごとフェリーに乗って生名島に渡る。ここから岩城島、佐島を経由して弓削島まではゆめしま海道でつながっている。先に岩城島の積善山に向かう。島の北側から上っていくと、山頂近くの右手に朱の鳥居が見えてくる。少し先に離合のための退避所があるので、往来の邪魔にならないよう車を停める。鳥居から尾根伝いに山を登っていく。傾斜は緩やかで気持ちのよい山道だ。山頂近くには長い時間をかけて植えられた3000本もの桜並木があるらしい。さぞかし美しい風景だろうなどと思いながら歩いていくと、ほどなく岩塊とプレハブの社殿らしきものが見えてくる。妙見神社だ。早速社殿の中に入ってみる。

 

 

 

ご覧いただいた通り、社殿は岩塊に接してというか、半ば埋め込まれるように建っていた。社殿の反対側に出口が開いていたので表に出てみる。ここで磐座の全容がわかった。この山は花崗岩と変成岩から成っており、コアストーンが出来やすい。山間には多くの奇岩が望めるが、この磐座は人為によるものではなく、地質に由来するものかもしれない。

 

 

ここが聖地とされた理由は地形ゆえと思われる。広くはないが平坦であり、人が住まうことも可能と思われるからだ。積善山遺跡も高地性集落であり、山頂部の北側斜面からは約ニ千年前の弥生時代中期後葉の凹線文土器が出土している。そしてこの場からも生口島、大三島、伯方島に囲まれた海域を遠望できるのだった。

さて、最後は佐島だ。ネット上でもあまり紹介されていないだけに期待が高かったのだが、今回の4ヶ所の中では最大の難所となった。もっともそれだけの収穫はあったのだが。まず駐車する場所に苦労する。帰りのフライトの時間制約があったので、山の中腹に近い場所に停めようと思ったが、どんどん道が細くなり軽自動車の車幅でも通行が覚束ない。少し先に行けばなんとかなると思うが海岸近くの平地に停めた方が無難だろう。この島には島四国と称する八十八ケ所霊場巡礼のミニコースがあり、それぞれに祠が立っている。因みに僕が車を停めたのは第六十二番宝寿寺の手前の海岸寄りだ。ここから横峰山道に入っていく。



グーグルマップを頼りに山の中を行くがどこからアプローチしてよいのか見当がつかない。なんとか道を探し出して入っていくと途中から藪漕ぎになり、這う這うの体でやっと稜線にたどり着く。すでに汗だくである。左右に道が分かれていたので樹木の枝をかき分けながら進むと、屹立した二つの石柱の間に巨石が挟まる磐座に出会った。周りにも石が配されているが中央にあるこれが神体ということなのだろうか。この造りには間違いなく意味を持たせているのだが、それがなにかはわからない。石柱にはなにやら文字が刻んである。これは修験者が真言でも刻んだものだろう。その反対側にはコンクリート造りの小屋があり、右横に第六十番横峰寺の寺号標が立つ。ここからは島の西側を望んでいたと思われる。


 

 


 

石鎚山はここからほど近い。来た道を戻るとすぐに次の磐座が見えてきた。こちらの規模は横峰山よりも大きい。裏側に回り込んでみると結構が明らかになる。これもまたたいへん趣きの深い石組である。祠が二つあり、素朴な木彫仏や石仏も祀られているのだが、ここでも石組そのものの存在感が際立つ。石神への素朴な信仰はすでに超越しており、弥生人たちの神々への畏怖や観念の形象化が見られる一級の石造構築物だ。それは宗教の萌芽といってもよいかもしれない。コンパスで位置を確認すると正確に真南を向いている。もちろん海上は一望の下にあった。


 

 


 

芸予諸島の高地性集落は弥生時代中期中葉に始まるとされているが、そこにある磐座祭祀の場は悠久の時を経てなおその場に残り、いまも眼前に厳然とその姿を見せている。いってみれば民族宗教の原点ともいえ、神道も仏教も遡ればここにたどり着く筈だ。だが、それすら通過点に過ぎないのかもしれない。信仰の本質は深いところでつながっているのだ。最澄の草木悉皆成仏や、空海の六道無碍、即身成仏も然り。さらに祈りの始原を求めていけば、縄文時代、旧石器時代へとつながっていく。それはとどのつまり、自然と融和しながら生き、そしていつか必ず死を迎える人間の知恵なのではないか。

(2024年11月17日)

出典
*1 植島啓司「聖地の想像力」集英社新書 2005年

参考
森岡秀人編「高地性集落論の新しい動き」季刊考古学157 雄山閣 2021年
愛媛県史 原始・古代Ⅰ 1982年 愛媛県生涯学習センター データベース『えひめの記憶』
 二 高地性集落の出現 
 1 高地性集落の発生と分布   2 高地性集落の形態と機能