立石山遺跡:愛媛県越智郡上島町生名 生名島


生名島は対岸の因島土生港からフェリーで渡る。その距離300m。僅か五分で立石港に接岸する。あまりにも近い。乗ったと思ったらすぐに降りるので拍子抜けする。多島海の瀬戸内は僅かな距離でも渡船がなければ生活が成り立たない。ごく当たり前の日常風景なのである。




立石港から歩いて五分のところに三秀園という小さな庭園がある。そこにメンヒルがあるとかねてから聞いていたので訪れてみた。三秀園は立石山という山の麓にある庭園だった。真ん中に高さ5,6mほどのメンヒルがでんと鎮座している。昔から信仰の対象とされていたのか鳥居が設えてあり、メンヒルの上部には注連縄が廻らされている。脇に白龍弁財天を祀る社が建っていたが、メンヒルを祀るものではあるまい。背後の山が観音霊場とされているのに同じく、聖地はさまざまな信仰を呼び込むのである。メンヒルの周囲を廻ってみるとさまざまに表情を変える。見ようによっては陽石といえなくもない。弁財天は女性だから対を為したものなのかどうか。この巨石は島のものではなく、どこかから運ばれてきたものだという。




メンヒルは単体で直立する巨石のモニュメントのことで、ヨーロッパ各地に散在し、中でもフランスのブルターニュ地方のものが有名だ。旧石器から新石器時代に立てられたと見られており、古墳との関連も指摘されている。日本では岐阜県恵那市をはじめとして、似たような形状の単立巨石が各地にある。おそらくは信仰や宗教が芽生えた時期にはじまった文化で、地域問わず人類に共通するもののように思える。生名島のメンヒルも弥生時代の信仰の対象とされているが、じつはこの山の頂には同じく弥生時代のものとされる磐座がある。標高139m。道も整備されている様子だ。山頂までは30分もあれば着くだろう。次の船の出航までまだ時間もある。見ておかない理由はない。




三秀園に向って左側、テニスコートの脇から遊歩道が続いていた。観音堂を左に見ながら山道を登っていく。路傍には石仏の観音。しばらく行くと、中腹の五重塔のある場所に至った。塔の下に子安観音が祀ってあり、傍らに霊水を汲む場所が設けられている。立札には以下のことが書いてあった。


霊水由来

当園は麻生イト女が深く信仰した十一面観音のお告げを受け立石山の高き所から湧き出ずる水に霊力ありと感応され三秀園子安観音堂を創設されたのであります。安産無病安楽死を願う熱心な参拝者の中より希望を受けられた事例は数多く言い伝えられております。麻生氏没後四十周年に当りこれを記念し新たに霊水観音菩薩像を祭祀してこの水を飲用することにより観音功徳を授かるべく広く推奨するものであります。保存会





よくある天啓譚だが、問題はなぜこの場所に観音が祀られているかである。場の持つ聖性が信仰を呼び込むと書いたが、根拠とすべきはこの場所にある窟の存在だろう。石山寺、長谷寺、清水寺、東大寺二月堂はいずれも観音信仰で知られる著名な聖地だが、古来観音は湧水を伴う岩座に顕現し、そこに祀られてきた。仏よりもまず岩座が信仰の対象となり、そこに神仏を見出すということかと思うが、麻生イトなる御仁はそのことを知ってか知らずか、ここに十一面観音を感得した。だとすれば、おそるべき宗教的感性の持ち主である。麻生イトは三秀園を造った因島の女性実業家とのことだが、彼女については後述する。来た道を戻り、再び山頂を目指す。巨岩が姿を現しはじめる。もうじきだろうと最後の九十九折りを折り返すと勾配は緩やかになり、すぐに平坦な地に出た。山頂で僕を迎えたのは巨石の入口だった。




燦燦と陽光がさす山頂の磐座。おまけに海に浮かぶ瀬戸内の島々を360度見渡せる素晴らしい景観である。思わず唸ってしまう。20m四方ほどの平地には、所狭しとさまざまな形状の巨石が配されている。環状列石ではないが、いくつかの岩の群れがなにかの意味を象徴しているように見える。いったいここはなんなのだ。





磐座について

この頂上部全体が祭祀の場(磐座)であり、陽石(男性)、陰石(女性)があります。昭和50年秋の文部省による弥生系高地性集落総合研究では、太型蛤刃、石斧、石包丁、石鏃、磨石、ナイフ形石器などの石器類と、弥生式土器が多量に出土しました。弥生時代中期の「倭国大乱」と関連づけて考えられており、祭祀と軍事的防塞との複合遺跡として、極めて重要な文化財ですから、大切に保存しましょう。上島町教育委員会


この案内板の記述は確かなものだと思うが、ナイフ形石器については後期旧石器時代のものとされているらしい。後期旧石器時代は3万5千年前から新石器(縄文)時代がはじまる1万5千年前までの約2万年である。磐座があったのかどうかは措くとしても、ここには想像も及ばぬ昔から人々が暮らし、なんらかの祈りを捧げていたのだろう。その意味でここは悠久の聖地なのである。そしてこの聖地を現代につないだ人物こそが麻生イトである。



尾道出身の麻生イト(明治9年-昭和31年)は、因島で麻生組を興した女性の実業家である。船舶の解体や労働者の口入れ、旅館業などを営み、三千人にも及ぶ男たちを従えたという。男装の女傑、稀代の女親分として知られ、今東光の小説「悪名」には実名で登場する。勝新太郎主演の映画では浪速千栄子がイトを演じ、この映画の最大の見せ場になった。一方、信仰心の篤い人物でもあり、晩年には荒廃していた生名島の立石山を観音霊場として再生し、麓に三秀園を造って傍に隠居した。また、弱者への援助を惜しまず、子女の教育のため幼稚園や女学校を作ることにも尽力したという。詳細は文末の参考をご覧いただきたい。


幼い頃に養女に出され、各地を転々としたらしいが、その前半生は詳らかではない。だが想像をも許さないような苦労を重ねる中で信仰を育んだことは間違いないだろう。幕末から明治にかけて興った新宗教の女性教祖たちと通ずるものを感じる。彼女はこの地に浄土を見た筈だ。そして将来にわたり、ここを人々の安寧の場とするべく三秀園を造成したのではないか。


今回の旅の目的のひとつは、職場のかつての上司で酒友のMさんを尾道に訪ねることにあったのだが、帰京して因島出身のMさんにこのことを伝えると、こんな返信があった。


「地元の私でもそんな所があるとはまったく知りませんでした。因島の近くには生口、生名という島があり、いずれも奴婢の島と聞いたことがありますが、そんな遺跡があるとは。宮本常一も歴史学者の宮地直一も、そんな話は残していません。日本の国の成り立ちを知る、素晴らしい旅ですね。唯一の神を信じるキリスト、イスラムより日本の自然信仰のほうがはるかに地球と共生できると思います。麻生イトの名前が出てびっくり。私の母とイトの娘は共に土生幼稚園に勤めていました。孫娘とは高校の同級生でした。町ではイトの生誕何年とかで、観光のネタにしたいようです」。Mさんは昨年末に傘寿を迎えている。麻生イトはもう旧聞に属する郷土の偉人なのだった。


霊験を感得する人間がいて、はじめてそこは聖地となる。いや、始原においては霊験などではなく、自然への畏怖だったのだろう。こうしたことをなきものとして片付けてしまってよいわけがない。産業資本主義が地球温暖化をもたらし、行き着いたのが自然災害だとすれば、人間の奢りここに極まれりというほかはない。だが、一向にブレーキがかかる気配はなく、相も変わらず金儲けと戦争に明け暮れているのである。


生名島 立石山


(2023年10月22日)



参考

*1 尾道商業会議所記念館 第14回企画展「尾道企業家列伝Ⅱ~尾道ゆかりの先人企業家たち~」https://www.city.onomichi.hiroshima.jp/uploaded/attachment/2349.pdf

参考

*2  麻生イト生誕130周年記念誌「女傑一代・麻生イトの生涯」宣伝ビデオ せとうちタイムス2006年6月3日