祇園天王磐座(日向石神社跡):岡山県瀬戸内市長船町磯上1444−1
ストーンサークル:岡山県瀬戸内市長船町磯上1444
(前稿より続く)
二つの磐座は湯次神社から山麓をまわり込んで2km、車で5分とかからない場所にあった。地名は湯次神社に同じく長船町磯上(おさふね町いそかみ)である。長船は刀剣の銘として夙に知られ、この磐座のすぐ近くに長船弘次を名乗る刀匠が鍛刀場を構えている。備前では古墳時代から製鉄が盛んに行われ、平安時代中頃には刀工集団の古備前派が登場した。この伝統を継ぐ刀の鍛法を備前伝と称するが、鎌倉時代から室町時代にかけて隆盛したのが長船派である。一方、礒上という地名は瀬戸内海が近いことから素直に考えれば「磯の上」だが、「石の上」あるいは「石の神」と考えることもできる。中世から近世には奈良の石上神宮のあたりは「磯上」ともされていたという。ご存じのように石上神宮は刀剣をはじめとする武器庫であり、物部氏(転じて石上氏)が代々祭祀と神宝の管理を司ってきた。なんらかの繋がりがあったのかもしれない。
磐座は油杉川を越えて山裾から少し上った右側にあった。案内板には「日向石神社跡」とあり、「当社のご神体は、垂直に切り立った巨石(磐座)である。上部は3㍍の円形になっていて、天孫降臨をイメージ出来る。東側下部には石の割れ目があり、巨石と亀裂で雌雄として古代から信仰されていたかもしれない。この周辺の地名は天王と言われている。この巨石が磯上の地名の基になっているかもしれない」と記されている。意味のとりづらい文章である。西大平山登山口の遺跡案内板には日向石神社跡ではなく「石上神社跡」とあり、地名も天王ではなく「磯上」なのである。
あたりにはこの磐座が放つただならない気配が漂っている。かなり大きな磐座だ。高さで5m以上はあるだろうか。ゲゲゲの鬼太郎に登場する「ぬりかべ」を思わせる魁偉な存在感である。下部に祀りの設えがあり、この巨岩自体が神体であったことを伺わせる。細い注連縄が回された巨岩の表面の仔細を観察すると、なにやら線刻のようなものが認められた。ヒエログリフのように人為を感じる線で、なんらかの意味を持っていそうだ。似たような線刻は神戸の保久良神社境内の磐座でも見たことがあるが、ここまではっきりしたものではなかった。好事家にはカタカムナとして知られているが、この種のことを詮索していくと偽書や”トンデモ”に入り込んでしまう。やめておこう。
この磐座は「祇園天王」を冠するが、かつての地名「天王」を由来とするようだ。祇園天王は牛頭天王のことで、仏教では祇園精舎の守護神である。日本では他に蘇民将来の説話に登場する武塔神、薬師如来、素戔嗚尊の顔を持つ。京都祇園の八坂神社の主祭神、素戔嗚尊として祀られており、神徳は疫病除け転じて厄除けである。この巨石が祇園天王(牛頭天王)になぞらえられたのはその大きさと形だろう。牛頭天王は生まれた時に既に七尺五寸もある巨軀であり、三尺の牛の頭と赤い角があったとされる。天王講で知られる愛知県の津島神社所蔵の木造牛頭天王倚像を見るとイメージが湧くかもしれない。但し、そう見立てられたのは牛頭天王信仰が盛んになった中世のことだ。当地にも天王講が興り、それがまだ続いているのかもしれない。平成五年に奉納された石碑があることは一つの証左かと思う。
木造牛頭天王倚像(出典*1)
この磐座に接して堅牢な石垣があり、その左に石段がある。上ってみると平地に日向石神社旧趾の石碑が立っていた。ここに社殿が立っていたのだろう。碑文に大正癸丑弐年とあるので、明治時代末に廃絶したと思われる。当社は湯次神社の境外末社だったとの由。ここでふと思い当たったのが前稿で参考にリンクを貼った池上曽根遺跡出土龍絵画三次元映像の龍の絵の横にあった線刻である。雷雨を表現しているとされ、この磐座の表面の線刻にどこか似ている。仮にそうだとしたらこの磐座も祈雨祭祀の対象と考えられないか。
また、当社旧趾は南面しており、社名の「日向」は太陽神=天照大神を奉ずると思われるが、止雨祈願の霊験を含ませていたのではないか。因みに暦家や陰陽師は牛頭天王を天道神と同体としている。天道神は方角神であるとともに太陽神であり「日向」との関係を示唆するのだ。当地は「りゅうごん様」を背にし、これを拝する位置にあることから、山宮に対する里宮(あるいは田宮か)と考えてみたいのである。
時計を見ると16時15分だ。もう日が暮れる。次の磐座へと急ぐ。祇園天王磐座の西側に獣除けの扉があり、ここを開けて進む。ほどなく磐座に近づいた時の独特な空気が漂いはじめた。それは湿った森、または苔の匂いなのだが、なにかが待っているという感を強くする。磐座と思われる巨石群が現れた。一か所ではない。かなり奥まで続いているようだ。すこし行ったところには「ストーンサークル(環状列石)磐座」と記した案内板が立っていた。「磐座と推測される。自然が造った環状列石であるが、石群の周りには小石が敷かれている。古代、中央の岩で祭事が行われたかもしれない。北側には熊山やりゅうごん様が見える。」ここでいう熊山は赤磐市の熊山遺跡のことだ。熊山遺跡は当地から直線距離で10kmほど北にある熊山の中腹に設けられたピラミッド状の積石遺構である。ここもなかなかに凄いところなのでご関心の向きはリンクを参照いただきたい。
どうもこのあたりの案内板の説明にはもどかしさを感じる。「かもしれない」という言い回しに確たるものでないという申し訳が伺えるのだ。たぶん教育委員会のどなたかが書かれたものと思うが、ご専門はなんなのだろうか。これまでの僕の磐座の実見からも、いわゆるストーンサークルではないことははっきりしている。注連縄こそ回されていないが、たいへん規模の大きな磐座群なのだ。一部は自然が造ったにしても巨石の配置には一定の規則(環状ではない)のようなものがある。古墳時代は奈良の石舞台のように数トンもある巨石を動かす技術をすでに有しており、かなり人為が加わっている可能性はある筈だ。直径100m以上の広さにわたって巨石が居並ぶ場所は吉備中山の山中にもあって、ここも環状石籬とされていた。おそらく発掘されていないということなのだろう。須恵器でも出土すれば間違いなく磐座なのだが。
数百という磐座を見てきた僕も唸るもので、歩みを進める度に「ほほぅ」とか「うーむ」とか「いやぁ」とか感嘆詞が口をついて出る。備前、備中は出雲と並ぶ磐座の宝庫なのだが、ここに匹敵するものはなかなかない。それは信仰の深さや厚みが際立っているということでもあり、その源は当地が拝する西大平山のりゅうごん様に求められるように思う。
磐座を観察していて、先の祇園天王磐座と同類の線刻を見つける。これも雷雨の線刻に似ている。判定は考古学、図像学などの専門家に委ねるしかないが、そうであればこの磐座群は弥生時代後期から古墳時代にかけて造られた祭祀遺跡と考えられよう。この線刻が自然現象であれば戯言に過ぎないのだが、磐座は考古学、歴史学、宗教学、人類学、民俗学などの社会科学に加えて、自然科学の知見をもっと活かし、学際的に検討されるべきではないか。あらゆる前提はまず疑ってかかるべきという観点からそう思う。本来学問とはそういうものであり、そうでなければ意味がない。一般に古代史への関心は畿内、とりわけ奈良を起点とする。それらは天皇や大和王権など正史とされる事象の事実関係を問うものが多い。だが、同時代を地政学的に眺めれば、山陰や山陽、加えて近江、越前、若狭、さらに北九州から朝鮮半島を視野に入れた方が理解が進む。磐座についてもこうした文脈から新たな洞察や仮説が生まれることを期待したい。
周囲に他に磐座の形跡がないかと探してみる。斜面にはまだまだありそうだが、陽は沈みかけている。これ以上の探索は無用と諦めて山を下り、岡山市内の宿に向かう。今夜は三度目となる寿司屋に行ってみよう。カウンターのみ、僅かな席数の昭和感満載の店である。ばら寿司にするか、はたまた握りにするか、酒は何にしようか。この店に限らないが岡山はとにかく穴子が旨いのである。瀬戸内の聖地探訪は続く。
(2024年11月15日)
出典
*1 津島市の歴史・文化遺産ホームページ 木造牛頭天王倚像
参考
刀剣ワールドホームページ 備前伝
鈴木耕太郎「牛頭天王縁起」に関する基礎的研究