保久良神社:兵庫県神戸市東灘区北畑680


阪急神戸線の岡本駅の北側、保久良山(金鳥山)に向かって登っていく。前稿の越木岩神社周辺同様、関西では芦屋に並ぶ高級住宅地で、谷崎潤一郎はこの辺りに住んでいたことで知られる。僕はここから南西に2km下った所にある小学校に通っていて、保久良山へは小遠足か社会見学の名目で登った覚えがある。保久良神社に到着する直前、突如目の前を大きな猪が横切り、ほどなく銃声が谺するのが聞こえた。そして、しばらくすると猟友会の面々が丸太にぶら下げた猪を担いでやってきた。鮮烈な印象で、僕はこの時生と死の端境を少し意識したのだった。六甲山系の山は猪が多く、あちこちに注意を促す立札がある。

参道入り口に石標が立つ。舗装はされているがかなりの急坂だ。息が切れる。長梅雨が明けたばかりの土曜日の朝、地元の方々だろうか結構な人数の人たちとすれ違い、挨拶する。大半はお年寄。たまにトレイルランニングの若者。何も考えず、汗を拭いながらただただ登っていく。


保久良神社の鳥居前に着いたのは、コインパーキングを出て三十分後。標高は180m、距離にして1.3kmほどしかないが、眼下を見下ろすとかなり登った感がある。鳥居の前に「灘の一つ火」と呼ばれる石灯籠がある。古から神火として崇められ、麓の天王講の人々が絶やさず火を灯し、航海の目印となってきた。日本武尊が熊襲征討の帰路、この灯火を山当てに無事難波に辿り着いたとの伝承もある。

正面の社殿に参拝。磐座好きには夙に有名なところで、瑞牆で囲まれた内側には立岩と名付けられた巨石が座り、周囲に小ぶりのが岩が配されている。普段ならこれを観察して満足するところだが、当社の磐座は多様で境内地のあちらこちらにあると聞く。瑞牆の外側にも磐座群がある筈だ。東側の森に出てみる。植林された杉林とは異なり、常緑照葉樹の森が心地よい。幹や枝が程良い具合にくねっている。梅林で有名な場所だが、ヤマモモが多いようだ。その間に磐座が点在する。





今度は瑞牆の西側に出てみる。ハイカーの休憩場所になっているところから、梅林に続く方へ出てみると、崩落したと思われる少々荒れ模様の磐座群がところどころに見つかる。本殿の後ろ側に目を遣ると、金網のフェンスに阻まれて中には入れないが、社務所に接して苔生した巨石が目に入る。東側の岩と異なり、側面が平たくなっている石や、一部が剥落している石がある。六甲山系の山一般に花崗岩帯とされるが、保久良神社境内の岩石は水成岩(堆積岩)を主とするらしい。海岸部から運んできて加工を施したのだろうか。岩肌にも引っ掻いたような痕がある。





保久良神社境内は、昭和十六年に調査が行われ、銅戈、石斧、石鏃、勾玉、須恵器などが出土し、弥生時代から中世にかけての祭祀遺跡とされた。背後の金鳥山遺跡にも竪穴式住居跡が数基発見されており、一帯は高地性の集落であったことが確認されている。さまざまな形の巨石はただ転がり、折り重なっているように見えるが、調査を行った考古学者、樋口清之氏によれば、磐座は一定の規則性で本殿を二重三重に囲んでいるようだ。貝塚や環状列石もそうだが、どうも人間は中心に何かを定め、それを囲むように何かを配する習性があるのだ。
当社の祭神は、須佐之男命、大歳御祖命、大国主命、椎根津彦命の四神とされる。須佐之男命は元禄期に祇園信仰の影響で勧請されたと云う。大歳御祖命、大国主命も出雲系の神なのでこれに連なるだろう。先に「灘の一つ火」は天王講の人々が守ってきたと紹介したが「天王」とは「牛頭天王」のことで、須佐之男命の本地(注1)である。本来の祭神は椎根津彦命とするのが妥当だろう。椎根津彦は神武東征において、速水門(注2)からの海路を先導をしたとされ、大和侵攻での軍功から倭宿禰の称号を賜り、倭国造に任ぜられた。速水門の所在は豊予海峡ともいわれ、大分の佐賀関の椎根津彦神社や宇佐神宮末社の椎宮の存在を考えると、椎根津彦はもともと九州北東部の海洋部族の長であり、神武出発の当初から水先案内人を買って出たのではないだろうか。

さて、僕が気になるのは篝火だ。航海の山当てとしたと考えることは容易い。だが、それ以外の目的があったのではないか。古代、さらに遡って弥生時代あたりから篝火が焚かれていたなら、それはどんな意味を持っていたのだろうか。海に近い標高の低い山、磐座、そして焚かれる火といえば、熊野新宮、神倉神社の御燈祭を思い浮かべる。高倉下命が松明を持って神武天皇を迎えたという伝承があり、新年を迎えるにあたって火の更新を行うというのがこの祭の趣旨だ。牽強付会に過ぎるかもしれないが、保久良神社においても、山腹と麓で松明の火が行き来していたとしたら、或いは椎根津彦が松明を持って神武天皇を迎えていたとしたら・・・。為政者は高いところから下界を望見することが概して好きなのだ。速水門(明石海峡)で航路を見失った神武一行を、魚崎から青木あたりにいた椎根津彦が松明をかざして「おいでおいで」をする。神武一行は渚に船を寄せ、招きに応じて椎根津彦の燈火についていく。そして到着した場所が保久良神社だ。そこは椎根津彦たちの聖域で、神坐す磐座があり、広く下界を見渡せたという物語はいかがだろうか。

保久良神社の「ホクラ」には、いくつかの解釈がある。神功皇后が三韓征討の帰途、収奪した武器を蔵した「矛倉」が転じたという説。今もある石燈籠「火倉」から来た説。そして祭祀遺物が出土したことから「秀庫」とされた説。秀でた磐座があることから「秀座」という説。どれも根拠はないが、僕が採用するなら、二つ目の「火倉」だろう。いずれにしても当社の「クラ」は、やはり「庫」や「倉」ではなく「座」だと思うのだ。


五十年近く前になるが、摂津本山駅の南口に「ほくら亭」なるうどんすきの店があり、家族でよく訪れた。薄味のだし汁のうどんすきは何とも美味かった。南口がまだ閑散としていた時代の話だ。小学生の僕は、当時も「この“ほくら”とは何だろう」といつも不思議に思っていたのだった。


(2019年7月27日)


注1:本地垂迹(ほんじすいじゃく)説

神は仏が日本の衆生を救済するために仮に姿をかえて現れたものとする説。神は仏の垂迹(衆生を救済するためこの世に現れること)、仏は神の本地(本来のあり方、本体)であり、両者は究極的には同体ふかぶんの関係として捉えられた。(出典:神道事典 佐藤直記著) 牛頭天王の場合、垂迹身が須佐之男命となる。

注2:速吸門(はやすいのと)

日本書紀では豊予海峡、古事記では吉備国児島湾口および明石海峡とされる。


参考

「日本の神々-神社と聖地-第3巻 摂津・河内・和泉・淡路」谷川健一編 白水社 2000年