熊山遺跡:岡山県赤磐市奥吉原1521


この戒壇のような積石の構造物をはじめて目にしたのは、仏教民俗学者として知られる五来重氏の著書「石の宗教」だった。文庫本に掲載された小さなモノクロームの写真なのだが、岡山の山中にこんな遺跡があることなど思いもよらなかった僕は少なからず衝撃を受けた。爾来五年経って、先週やっと実見が叶った。

山陽道を東に向かい、JR香登駅の北あたりに差し掛かると左手に「熊山遺跡」の標識が立っている。これを左折する。一本道なので迷うことはないが、山陽地方きっての古刹、大滝山福生寺の塔中のあたりを過ぎると、道は車一台がやっと通れるほど細くなり、やがてヘアピンカーブが続く山道をひたすら登坂することになる。30分近く登る上に行き交う車は皆無なので、道を間違えたのではないかと心細くなるがご安心を。山頂近くには思いのほか広い駐車場が待っている。

小雨の中、遺跡に向かって歩く。国指定の史跡ゆえか山頂付近の道は広く、よく整備されている。樹齢千年を超える杉の大樹や熊山神社を右手に見ながら遺構に急ぐ。動くものではないので急ぐ必要はまったくないのだが、聖地を目前にするとどうにも気が逸るのだ。

視界が開ける。その先の平地に浮かぶように見えてくる三段方形の積石壇が熊山遺跡だ。異国の地で山中を彷徨っている内にあらぬところに迷い込み、此岸にはないものに突然出くわした、そんな態である。平たい切石を積み重ねて造られたもので、とても精巧に出来ている。その形状だけみれば小さなピラミッドのようでもあり、クメール遺跡やマチュピチュにあるといっても違和感はないだろう。周囲をぐるぐる回ってみる。角度によって表情が変わる。正面からよりも斜めから見た方が造形として美しい。とは云え、本当はどこが正面なのかはわからないのだが。ふと曼荼羅を想う。正方形であることからして、どこか宇宙観を象徴しているような趣がある。以下に昭和48年の復旧修理の際の実測値を記しておこう。

単位: m

ところで、これはいったいなんなのだろうか。誰が、なんのために造ったのだろうか。宗教上のモニュメントなのか、墳墓なのか。規模は小さいが、形は奈良の頭塔や大阪の土塔に類似している。唐招提寺の戒壇もこれに近いもので、この三つはいずれも仏教史跡だ。

頭塔 奈良市高畑町

土塔 堺市中区土塔町

唐招提寺 戒壇


積石壇の二段目の中央には各面に龕(がん・仏像や経文を納める厨子)が設けられている。また、基壇の中央部には、方形の竪穴石室がある。中に陶製の筒型容器が納められ、さらにその容器の中に奈良三彩の小壷と皮革に文字が書かれた巻物が入っていたという。これらのことから仏教遺跡であることは間違いないのだが、熊山神社や中腹の福生寺との関係はどう考えたらよいのだろうか。

浅学の僕の手には余るので、五来重氏の考察を借りよう。

「このあたりの環境をいえば、この積石壇のある平地は山頂といっても、ほんとうの頂上はもう一段高いところにあり、そこに熊山神社と数個の自然石を積んだ磐境がある。ここの最初の信仰対象はこの磐境だったとおもわれるが、今は児島高徳旗揚げの遺蹟という立札が立っている。熊山神社はいうまでもなく熊山の山神をまつったもので、神仏習合時代は地蔵大権現とよばれていた。この地蔵大権現をまつり守護する僧侶(山伏)のいるところが、一段下の積石壇のある平地を占めた帝釈山霊山寺であり、その本坊が戒光院とよばれた。もちろん霊山寺は江戸時代には衰えて、明治維新で廃滅した。しかしこの山の中腹には大滝山福生寺があり、本堂(天和二年<1682>建立)と文化財の三重塔(嘉吉元年<1441>建立)と仁王門(応永年間<1394?1428>建立)、元和元年<1615>大修理」のほか、経蔵もそろっていて、塔中の実相院、福寿院、西法院が顕在である。もと三十三坊あり、江戸時代の十三坊が現在三ヵ院になったのである。また山麓の香登には香登寺があったが、今は廃寺で址をとどめるばかりである。熊山のような山岳信仰の山は、たいてい上宮上院と中宮中院、下宮下院の三宮三院から成るが、熊山では熊山神社(地蔵大権現)が上宮、帝釈山霊山寺が上院、大滝山の大滝明神が中宮、福生寺が中院、そして香登寺は下院で、下宮とともに廃滅したらしい。このような環境の上院にあたる帝釈山霊山寺境内に、問題の三段の積石壇があるが、これは何の目的で積まれたのであろうか」

四面の龕と出土物から、現在この遺構は仏塔(ストゥーパ)とされている。この遺構は奈良時代から平安時代初期に造られたものらしいが、ではそれ以前のこの場はどんな様子であったのか。当地に仏教が定着する前にも、ここでなんらかの祭祀が営まれていた可能性はないのだろうか。さらにこの場がなぜ聖地とされたのかについても、たとえば夏至や冬至、即ち太陽との関係を検証してみるとなにかがわかるかもしれないなどと想像してみるのだ。


五来氏の考察に戻ろう。

「私はこの積石塔が大きな露出岩盤の上に築かれていることに注意したい。というのは、熊山を信仰の山とするとき、このような岩盤は「磐座」として崇拝される。磐座というのは、その上に山神が影向するので影向石と呼ばれ、護法善神とする場合は、護法石と呼ばれる。一種の自然崇拝であるが、そこに神霊が実在すると見る自然崇拝である。(中略)熊山山上の積石壇がこの磐座の上に築かれたのは、二つの意味があるとおもう。一つは、舎利を蔵する塔をもっとも神聖なる石の上に建てるということであり、もう一つは、この塔を回るためである。(中略)私は、この積石壇型舎利塔が「戒壇」といわれたのは、磐座や塔の周りを行道する「回壇」がおこなわれなくなった段階で言い出されたことであろうとおもう。すなわち、奈良時代以前の自然宗教としての山岳宗教の時代には、磐座の周りを行道旋回していたのを、舎利塔を積石で築くことによって、その周りを回る舎利信仰に代えたのである。そこには仏教の舎利信仰とともに、積石を神聖なものとする原始信仰も加わっていたであろう」とし、この推論の根拠を信州善光寺の「戒壇回り」に求めたと結んでいる。

熊山神社

熊山神社の磐座


宗教人類学者の植島啓司氏は、聖地の条件のひとつに、祈りの対象や宗教は変われど、聖地の場所そのものは動かないということを挙げていた。熊山遺跡を聖地たらしめているものはなんだろう。そしていにしえの人々はここで何を祈っていたのだろうか。


(2019年2月3日)


参考・出典

「石の宗教」五来重 著 講談社学術文庫 2007年(同 角川選書 1988年)

赤磐市郷土資料館ホームページ

http://bunkazai.akaiwa-rekishi.jp/35.html

奈良県公式ホームページ

http://www.pref.nara.jp/6709.htm

堺市ホームページ

http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/shokai/bunya/shiseki/doto.html

唐招提寺ホームページ

http://www.toshodaiji.jp/about_kaidan.html