湯次神社:岡山県瀬戸内市長船町磯上3277
この神社の背後の山腹に「りゅうごん様」という龍穴があって、日本三大龍穴の一つとされている。あとの二つは奈良の室生にある吉祥龍穴、京都の貴船神社奥宮の本殿下である。かねてから関心を寄せていたのだが、昨年秋の旅でやっと訪れる機会を得た。当社の西南部には五世紀から六世紀に造られた比較的規模の大きな前方後円墳が数基あり、弥生時代後期から古墳時代に懸けて地方豪族が群雄割拠していたことがわかる。本稿の前編では龍穴と磐座のこと、後編では当初の目的にはなかった、素晴らしい二つの磐座のことについて記したい。
湯次神社の由緒と主祭神については案内板を引いておく。
由緒 当社は「備前国神名帳」に「従五位上湯次明神」とある古社で、もと家高山に鎮座していたが、嘉吉元年(1441年)に現在地へ遷座したと伝えられている。神仏習合時代には家高八幡宮と称していたが、明治三年(1870年)に旧号に復し、湯次神社と改めた。(中略) 百メートル登ったところ(家高山)に当社のご神体と推測出来る巨石(磐座)がある。
祭神 湯次神(ゆつぎのかみ)
秦氏がその祖先とする弓月君(ゆづきのきみ)を祖神として祀ったと推定されています。また磯上の油杉と深い関係があります。油杉は、弓月(ゆつき)→湯次(ゆすき)→油杉(ゆすぎ)と転訛したものと推測できます。ちなみに滋賀県長浜市浅井町にも湯次神社が祭られています。この地も秦氏の居住地として知られています。弓月君は、日本書紀に記述された、秦氏の先祖とされる渡来人です。『新撰姓氏録』では融通王ともいい、秦始皇帝の後裔として伝承されています。渡来後の弓月君の民は、養蚕や絹織に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多(秦)の姓を賜ることになったのだという命名説話が記されています。
実は当社を訪れる前に赤穂の大避神社に寄ってきたのだが、ここは秦氏の中興、能楽の祖とされる秦河勝を祀っている。聖徳太子の右腕とされ、丁未の乱で物部守屋を討ったとの伝説や京都太秦の広隆寺、大酒神社との関係など秦河勝のことはいずれ書くつもりだが、瀬戸内と秦氏の関係を掘り下げていけばまた新たな発見があるかもしれない。
境内で目につくのは備前焼の狛犬くらいしかないので、早速境内の左奥にある獣除けの扉を開けて裏山に登りはじめる。緩やかな傾斜で道もよく整備されており、散歩気分で登ることができる。すぐに「家高山(磐座)」の標識。ここは帰りに寄ることにして、りゅうごん様を目指してそのまま進む。途中岐路が二ヶ所あるが標識があって迷うことはない。とにかく右へ進めばよい。
出発して15分。右に20m下るとりゅうごん様に至る場所で、長方形の磐境のような石組みが現れた。案内板などなにもなく正体がわからないが、人為的に石を組んであることは明らかだ。短辺に当たるところに三角形の石を載せた小さな石門のようなものがある。反対側からこの石門の方角に磁石を合わせると真南、つまりりゅうごん様を向いている。なんらかの関係がある祭祀遺構なのかもしれない。
標識に従って少し下ると山から張り出した岩塊の上、テラスのようになったところに出る。見張り台のような場所で眺めがよい。奥にある石積みがりゅうごん様だ。よくある山中の磐座であり、僕はさほど感興を覚えなかった。肝心の龍穴はどこにあるのかと探してみたが、場所がわからない。この磐座の下か、それとも岩塊のまわりのどこかにあるのか。一段下にまわり込むと城壁のような野面の石積みがあったが、水の気配はまったく感じられない。
ここでは巨大な傘をさすという珍しい祈雨祭祀を行なっていたらしい。案内板を写しておこう。「りゅうごん様(竜王権現社のことで雨乞いの神)の上に和紙で出来た大きな傘(かさぼこ)をさすと、その傘を破るために雨を降らせると云う伝説あり。昭和二十年代まで日照りの時、千貫焚き、百升洗いとともに行われた。不思議と雨が降ったそうだ」。他の案内板には巨大な傘として昭和27年に撮影された和紙の傘の写真が載っている。初めて知ったのだが、龍神様は傘がお嫌いらしい。翻せば「雨が好き」ということなのだろう。
この場を「見張り台」と形容したが、眺望からすると古代の山城の一部のようにも思える。南側の山麓には油杉山古墳や油杉城跡など、また山頂には江戸時代の旗振台跡、南東の山頂には三沖の見張り台とされる場所もある。一帯は吉備海部直の根拠地の一部で、ヤマト王権や朝鮮半島との外交実務を担っていた。先述した弓月君は彼らに先んずるが、古代の備前・備中は養蚕や製鉄、鍛刀など渡来文化の影響が色濃い。磐座祭祀についても古代朝鮮、特に百済からもたらされた民俗信仰となんらかの繋がりがあったかもしれない。磐座の多い出雲もまた然りと思われるがそれはいずれまた別に考えてみたい。
下山して先ほどスキップした家高山の磐座へ向かう。登ってくる時にはよくわからなかったが、標識の後方にまわり込んでみると規模の大きな祭祀の場であったことがわかる。緩やかな傾斜があって、祭壇のような石積みが二段ある。脇の磐座はかなりの大きさで、神か妖怪を思わせる異形である。礎石は見当たらないが、かつてはこの石積みの上に社殿を設けていたのだろう。
案内板には湯次神は嘉永元年(1441年)までここで祀られており、江戸時代には家高八幡宮として称していたとある。沖縄の本部半島、今帰仁城の近くにあるクバの御嶽をどこか彷彿とさせる。現在では樹木は疎らだが、深い森の中と見立てるとこの祈りの場は御嶽そのものである。おそらく「りゅうごん様」を遥拝、或いは降ろす場として機能したのではないだろうか。
考えてみたいことは、龍穴ー水の信仰ー磐座の繋がりである。整理してみよう。
まず、龍穴と水の信仰の関係について。龍は弥生時代に鏡の紋様などを通じて、中国から伝わっており、その姿は土器に描かれている。大阪府和泉市の池上曽根遺跡から出土した壺がよく知られるが、龍の絵の横にある木の枝のような線刻が雷雨と推測されること、井戸から出土したことなどから、龍のイメージは水神としてもたらされたとされる。(参照:池上曽根遺跡出土龍絵画三次元映像 ) 時代が下ると古墳の壁画に四神の青龍が現れる。そして道教や仏教の影響に日本の蛇信仰が習合し、龍神として祈雨や止雨のシンボルとなっていく。典型は八大龍王だろう。さらに中世に至ると龍の住処として水源や洞窟が観想されるようになり、いたる所に龍穴が出現する。室生、貴船はもとより、長谷寺、石山寺、神泉苑など著名な聖地の多くは、実は龍穴を有している。そしてそれらの龍穴は地底で繋がり、壮大な地下ネットワークを形成する。まさしく甲賀三郎の物語なのである。
次に水の信仰と磐座について。岡山県真庭市の下市瀬遺跡では、弥生時代後期の集落の発掘において水の源流の井戸から小銅鐸が出土し、水の祭祀に使用されたと推定されている。「井戸の周囲や内部にある石は、単に足場や補強として使用されただけではなく、磐座祭祀を意識した『岩井』・『石神井』の見方も必要と考えている」。同じく弥生時代後期の事例は岡山市北区の平岡西遺跡でも確認されている。また奈良の纏向遺跡の辻土壙1では「長形50〜30cmの自然石が50個以上も北側の斜面に並べられ」ていたといい、「辻土壙1の祭祀は、弥生時代の地的宗儀による湧水の土壙(井戸)内に、大規模な人工の磐座を設け、聖水と地霊・穀霊の祭儀と、天的宗儀として天から降臨する神の目印に、柱上に何か標識を掲げていたと考えている」という。(以上「 」内、出典*1)
つまり、稲作や養蚕をはじめとした水への信仰が龍穴と磐座を仲立ちしているのだ。そう考えると湯次神社の元々の姿は水霊・龍神信仰にあり、ここに祖霊(弓月君)への信仰が習合したものと考えることができるだろう。りゅうごん様を祀る磐座の下には地下水脈があったのではないかと思うが、残念ながら確認する術はなかった。
さて、下山して岡山市内の宿に向おうとしたところ、登山口の脇に西太平山周辺遺跡ガイドなる案内板を見つけた。なんとなくルートマップを眺めていたら、石上神社跡【磐座】、環状列石【磐座】とプロットされているのが目についた。どうやらここからすぐの場所のようだ。まだ日没まで時間はある。せっかく遠路やってきたのだ。後悔したくない。僕はすぐに車に戻り、イグニッションボタンを押した。(後編に続く)
(2024年11月15日)
出典
*1
鈴木敏弘編「水の祭祀から磐座祭祀へ(1)」和考研究Ⅷ 和考研究会 1999年
参考
黒田日出男「龍の棲む日本」岩波新書 2003年
池上正治「龍の世界」講談社学術文庫 2023年