真楽寺:長野県北佐久郡御代田町塩野142


浅間山の山麓に真楽寺という古刹がある。用明天皇の御宇(585~587年)、噴火した浅間山を鎮めるために栄曇という僧を勅使として送り、浅間山の麓にある賽の河原の六地蔵付近に庵を設けて噴火を鎮める祈祷を行った。これが真楽寺の前身とされ、後に麓の現在地に遷されたという。用明天皇第二皇子の聖徳太子や源頼朝、松尾芭蕉も訪れたと伝えられる。頼朝、芭蕉はともかく、聖徳太子については甲斐の黒駒伝説から派生した後の付会であろう。



当寺の近くには諏訪明神、甲賀三郎が蛇体となって現れたという伝説の池があって、四年前に訪れた際にそのあまりの美しさに息を飲んだ覚えがある。中世の神仏説話を収めた「神道集」に「諏訪明神之事」としてこの伝説が所収されている。梗概を生成AI(Google Gemini使用)にて要約しておこう。念のために東洋文庫所収の「神道集」現代語訳(参考*1)にあたっておいたので異同はないものと思う。


-物語の始まり-

近江国甲賀郡に住む甲賀権守諏胤は、東国の33ヶ国を治める惣追捕使である。三人の息子をもうけ、病床に就いた際には三男の三郎諏方に東海道15ヶ国の惣追捕使の職を与える。


-三郎と春日姫-

三郎は三笠山明神に参詣した際、春日権守の孫娘・春日姫と出会い、結婚する。しかし、春日姫は天狗にさらわれ、三郎は兄たちと共に姫を探し求める。信濃国蓼科山の人穴で姫を見つけ出した三郎であったが、次郎の裏切りによって穴に取り残される。


-地底の国-

三郎は地底の72ヶ国を彷徨い、維縵国に辿り着く。そこで王の娘・維縵姫と結ばれ、鹿狩りをして過ごす。


-地上への帰還-

13年6ヶ月後、三郎は地上への帰還を決意する。維縵姫は忍び妻として彼と共に地上へ向かい、鹿の生肝で作った餅を千枚食べながら信濃国浅間山に帰る。


-蛇身と神通力-

甲賀に戻った三郎は、体が蛇になっていたことを知る。神々の助言によって人間の姿に戻り、春日姫と再会した三郎は、震旦国の天子から神道の法を授かって神通力を会得する。


-諏訪大明神の誕生-

三郎は諏訪大明神の上宮、春日姫は下宮として出現し、諏訪の地で祀られる。維縵姫も後に地上にやって来て浅間大明神となる。


-物語の結末-

甲賀三郎の兄たちは、それぞれ下野国宇都宮の示現大明神、若狭国の田中明神、父は赤山大明神、母は日光権現として神となる。


甲賀三郎伝説は元々は説教唱道、語り物であり「神道集」も安居院(あぐい)唱道教団によるものだ。民衆芸能の祖型ともいえ、甲賀三郎も江戸時代には浄瑠璃や歌舞伎「嫐(うわなり)」として演じられるようになった。甲賀三郎は長い歳月をかけて地底の国72ヶ国を巡り、信濃国浅間山に生還するが、この時蛇体に変じて出てきた場所が真楽寺にある大沼とされている。中世諏訪における龍蛇信仰を象徴するような物語なのだが、どのような経緯で成立したかについてはあらためて文末で触れることにして、まずは境内を歩いてみよう。




仁王門の先に樹々に囲まれた長い石段が続く。これを上りきると五色幕を巡らせた観音堂がある。本尊は聖観音との由。左手には源頼朝に因む逆さ梅や弁慶が腰掛けた松、その奥に本堂が控えている。右手奥には三重塔。うっすらと積もった雪の中に佇むようすはなかなかに美しい。江戸時代中期の大火で焼失し、その後再建されたものだという。




三重塔向かいの山肌には水分(みずわけ)神社が鎮座する。水分(みくまり)神は水源地や水路の分岐に祀られる神だが、これは明らかに大沼の池を祀ったものだろう。祭神は諏訪神社に同じく健御名方命、転じて地底からこの池に蛇体で生還した甲賀三郎その人である。


御由緒

宝永六年(1709)十二月創建。昔古は諏訪神社と称したが、中古より水分神社と改称する。当社の近くに「大沼の池」がある。塩野、馬瀬口、八満、平原、森山、乗瀬の六ヶ村に分水し、灌漑用水となし、人々の暮らしを支えている。




というわけで境内から大沼の池に下る。池畔に諏訪大明神を祀る石祠。伝説に因んだ青銅の龍が池の中から首を伸ばしている。初めてこの池を見た時の感動がよみがえった。森の中の池は静まり返っている。水面の小さなさざめきは浅間山の伏流水の湧出だろう。透明度が高いためか水草の緑が映え、エメラルドグリーンのベールを纏っているかのようだ。










東山魁夷が「緑響く 池」に描いた奥蓼科の御社鹿池をおもう方もいるかと思うが、あちらは農業用水のため池で昭和に入ってつくられたものだ。来歴は比べるべくもない。なによりも悠久の時を経た自然そのものであり、これほどに神々しいという言葉がしっくりする池はなかなかない。龍蛇に姿を変えた甲賀三郎が池の底から浮かび上がり、ざんぶりと水を跳ね上げて姿を現わす様子を想像してみる。きわめて演劇的な、いや神話的な情景である。おそらくは真楽寺開創の遥か以前からこの池は神聖視されていた筈だ。ここ御代田の地は縄文遺跡でも知られ、真楽寺の南東2kmのところには国重文の川原田遺跡がある。この池は彼ら縄文人にとっての水の聖地であった筈なのだ。このことと古諏訪の信仰が結びつくのは至極当然なことだろう。甲賀三郎の物語の端緒は既に縄文期に萌芽していたのかもしれない。


さて、この甲賀三郎伝説にはさまざまな派生、類型がある。大きくは甲賀三郎の出自によって、諏方(よりかた)系(藤原南家頼方の流れ。幼名は三郎。東日本中心に分布)と兼家系(藤原北家兼家の流れ。幼名は藤九郎。西日本中心に分布)の二系統に分かれているが、そもそもが口承を筆記したものであり、なおかつ写本も各地で行われているため、どの話が本筋にあたるのか皆目検討がつかないようだ。このあたりの異同は限られた史料ではあるが、柳田國男が「甲賀三郎の物語」(参考*2)という論考の中で詳細な比較検討を行っている。


問題はこの伝説が日本固有のものではなく、ヨーロッパやトルコ、中国などに例話が多く見られるということだ。中央アジアの口承文芸の研究者である坂井弘紀氏によれば、「アールネとトムソンのタイプ・インデックス」という民話の国際的・代表的な話系分類において、甲賀三郎譚はユーラシアのAT301(「奪われた三人の王女」「熊のジョン」)という話型に分類され、さらに頼方系はAT301A、兼家系はAT301Bに分かれるという。坂井氏はテュルクの九つの例話のモティーフの特徴を「兄/仲間」「地下世界」「復活と再生」に整理し、さらにシャマニズムの視点から考察を行っている。詳しくは論考に譲るが、「インド・ヨーロッパの『原神話』の基礎には、末弟の蛇・龍との一騎打ちがある」とし、テュルクの類話は中央ユーラシアの印欧系の人々の古い世界観の反映であり、諏訪の龍蛇信仰を想起させるとしている。中央アジアを経由して日本に伝わったとすると、国内における諏方(諏訪)系と兼家系(甲賀)の二つの系統の源流はいったいどこにあるのだろうか。坂井氏はこう記す。「叙事詩の語り手には、それぞれ流派があり、流派の特徴を保持しながら、師匠から連綿と語り伝えられたのだが、彼らの源泉はシャマンにたどることができるのである。この点は。『甲賀三郎』の語り手と著しく類似する。甲賀望月氏や信州滋野望月氏ら、望月流の人々は甲賀三郎の後裔を称し、甲賀三郎譚の『管理者』として長らく、この物語を伝えてきた。彼らは『陰陽師・修験山伏、つまり卜占祈祷に通じたヒジリともいうべき唱門師』であったと考えられる。そして、諏訪縁起の原拠は、巫覡集団の巫祝祭文であったと考えられるのである」。(出典*1)



柳田國男は諏方系語りの中心は甲賀の飯道寺、兼家系は同じく甲賀の大岡寺観音堂であろうと推定している。そういえば飯道寺(現飯道神社)を訪れたのはちょうど二年前の今頃だ。このブログに記事も書いているが(参考*3)、たしかに龍神信仰があり、境内の飯道山の頂上近くには大沼の池に匹敵する、とても神秘的な池があった。まさか諏訪信仰と繋がっているとは思いもよらなかったのである。


(2024年2月26日、2018年7月7日)


出典

*1 坂井弘紀「ユーラシアの『甲賀三郎』テュルクの英雄譚とシャマニズム」 所収 諏訪学」山本ひろ子編 国書刊行会 2018年


参考

*1 貴志正造訳「神道集」 東洋文庫94 平凡社 1994年

*2 柳田國男「甲賀三郎の物語」 所収 月刊文學「特輯 民間文藝の考察」岩波書店 昭和15年

*3 筆者ブログ「行場巡り」甲賀 飯道神社 https://ameblo.jp/zentayaima/entry-12742379625.html