斜里朱円周堤墓群:北海道斜里郡斜里町朱円西区東1線


前稿ではモヨロ貝塚に見るオホーツク文化の葬制やイオマンテの起源について触れたが、もう少し道東の遺跡のことを書いておきたい。旅から帰ってきてこのかた、ずっとあのあたりの遺跡や文化のことが頭を離れないのである。琉球の沼に嵌った時と同じで、どうやら僕はヤマト、和人中心の世界観の外(それはしばしば「辺境」という言葉で語られるが)に関心が向くらしい。蝦夷とか熊襲とか、要するに”まつろわぬ民”が好きなのである。権威とか権力とか、あるいは皆が賞賛する物事には懐疑的で、それらに与することをよしとしない性癖が災いしてか、僕は”うだつ”というものには今まで一切縁がない。

斜里町に周堤墓があることは、昨年千歳のキウス周堤墓群を訪れた時にガイドの方から聞いていた。周堤墓は北海道固有のものらしい。以下に概要を記しておく。

縄文時代後期後半の北海道にみられる特殊な集団墓地。環状土籬(かんじょうどり)ともいう。直径数十m、高さ数mの円形の竪穴を掘り、掘り起こした土で周囲に土手を築き、窪地に複数の墓を設ける。墓の多くは土に穴を掘っただけの土坑墓であり、中には土器、石器などの副葬品が入れられた。北海道では縄文時代後期前半には本州の東部と同様の環状列石(ストーンサークル)がつくられたが、それらが特殊な展開をしたものと考えられる。被葬者との関係をめぐり、数々の分析がなされている。恵庭市の柏木B遺跡、千歳市のママチ遺跡、キウス周堤墓群などが代表的。(出典*1)

遺跡は知床半島の西側の付け根、オホーツク海まで2kmほどの場所に位置していた。現在の共同墓地が隣接しているのは何か意味があるのだろうか。キウス周堤墓群は世界文化遺産に指定されたこともあって、入口周辺には幟がはためき、駐車場や案内所もあってガイドが常駐するなど観光向けによく整備されていたが、こちらは訪れる人はほぼ皆無と言ってよい。だが規模は小さいものの、鄙にある遺跡だからこそ味わい深いものがある。1、2台しか停められない駐車スペースに頭から車を突っ込む。案内板に記された解説を写しておこう。

周堤墓は周囲に土塁をめぐらせた古代人の墳墓です。ヨーロッパやシベリア大陸に分布する大きな立石をめぐらした環状石籬(ストーンサークル)によく似ており、全国でも類例が少なく学術的価値が非常に高い遺跡です。斜里朱円周堤墓群は今から三千年ほど前の人々によって築かれた縄文文化後期の遺跡です。直径(外径)約三十一メートルのものと同じく三十八メートルの円形のものが隣り合わせて存在し、その周堤の中にいくつかの積石墳墓があります。積石墳墓は昭和二十三、四年に河野広道らによって調査が行われ、ベニガラを敷きつめた墓抗底から土器、土版、土製耳飾、石棒、石斧、ヒスイなどの玉類、漆櫛残片、炭化した織物などの貴重な遺物が人骨とともに発見されました。平成二十三年に行われた調査では二基の周堤墓に構築法の違いがあることが判明したほか、人骨や歯の分析より壮年前半と熟年前半の女性と十歳前後に子供が埋葬されていたことが判明しました。土器は鉢形、徳利形、盃形など、変化に富んだものが多く、栗沢式土器と命名されています。これらは東北地方のストーンサークルから出土する土器と非常によく似ており、遠い東北地方の文化の流れをくむものであることがわかります。指定 昭和三十二年一月二十九日 管理者 斜里町

 

斜里朱円周堤墓A号土籬

 

 

さっそく森の中に進む。手前がA号土籬、奥がB号土籬だ。発掘後に埋め戻されているが、積石の場所は復元してある。A号には(おそらく)12ヶ所、B号は1ヶ所だが人骨は5体出土したらしい。B号第1号墳の土坑の深さは2m、結構深く掘ってある。構築法に違いがあるというが、築造された年代は時間的に離れているのだろうか。墓所そのものは動いていないので、この地が彼ら縄文人にとって聖性を帯びた場所だったのだろう。縄文遺跡の祭祀場は二至二分に呼応していることが多い。なんとなく秋田の大湯環状列石との類似を思ってしまう。列石と土籬であり、またその大きさも意味合いも異なることは承知しているが、どちらも環状であり、祭祀場もしくは墓域が二つ並んでいるのだ。大湯環状列石は約四千年前、斜里朱円周堤墓は約三千年前の遺跡だが、どこかでなにかが繋がっているような気がする。先に引用した案内板には土器の共通性から”遠い東北地方の文化の流れをくむ”とあったが、この周堤墓でも道東では自生していない漆を使った櫛や、糸魚川産のヒスイ玉が出土している。津軽海峡の西から東に向って対馬暖流が流れており、北東北の縄文人が釧路あたりまでやってきていたと考えることもできよう。どちらからアプローチしたかはさておき、縄文人が海を渡って交易していたことは確実視されており、青森や岩手に多いアイヌ語地名のように文化の相互影響もあったのだろう。


斜里朱円周堤墓B号土籬

 

 

 

副葬品で気になるのはやはり両頭石棒である。行程の関係上、実見は叶わなかったが現物は知床博物館に展示されている。画像で確認してもキウス周堤墓出土のものに匹敵する洗練されたつくりだということがわかる。石棒は男性器を象徴したものであり、呪具として機能していたと理解されるが、これが副葬品とされた意味はなんだったのだろうか。解釈はいくらでもあるが、端的に言えば「再生」だろう。画像の出土物は「土器」と「石棒」である。

斜里朱円周堤墓出土遺物(出典*2)

先史墓制論を専門とする山田康弘氏は、縄文時代に存在した死生観の一つは「再生・循環」だとする。「この死生観は、アイヌなどにみることのできる『もの送り』の思想ともリンクするものである。この世のものはすべて、あの世とこの世を循環すると考える『もの送り』の思想は、縄文時代における根本的な死生観であった。これは生命・霊が大きく円環状に回帰・循環するという意味から、『円環的死生観』と呼ぶこともできるだろう」。これを象徴的に表現するのが土器棺墓や土器埋設遺構であるとし、その証左として宗教学の泰斗、ミルチア・エリアーデを引き合いに「土器の中に子供を入れて埋葬する習俗は東アジアを中心として広く世界中に存在する。土器内に子供を埋葬する理由としては、土器を女性の身体(母胎)になぞらえるという点で一致しており、これは宗教学的研究成果によって母胎中に子供を戻して、もう一度生まれてくるように祈願する、『回帰・再生・循環』の思想に基づいていることが明らかにされている」という。(出典*3)土器は母胎、石棒は男根。つまり性の根本が遺骸とともに埋められているのだ。因みに「もの送り」はアイヌ語で「イ(もの)・オマンテ(送る)」である。アイヌ文化が縄文人の思想と行為を継承していることについて、あらためて感じ入った次第だ。

それではここが共同墓地だったとすれば、住居はいったいどこに構えていたのか。周堤墓群の脇を流れる奥蘂別川河口に沿って2km近く下った先の海辺に朱円竪穴住居群がある。知床博物館のホームページには「海岸砂丘上にあり、カシワやイタヤカエデ、トドマツなどからなる森の中におびただしい数の窪んだ住居跡が見られることにより『朱円千穴』と呼ばれ親しまれてきた。住居跡の形態から、この砂丘には数千年にわたる縄文文化中期から続縄文文化期、それに続く擦文・オホーツク文化期の様々な人々が住み続けたと考えられている。竪穴住居跡群は700基以上あるといわれているが、現在測量調査が終えているのは300基余りである」とある。これは行かないわけにはいかないと車で近くまで行ってみたが、川と手前の森に阻まれてなかなか辿りつけない。10分くらいうろうろして諦めた。もう一度ホームページを見るとアクセスについて「途中で川を横切りますが橋がなく、一般公開はしていません」との由。やれやれ。

 

 


朱円竪穴住居跡群(出典*4)
 

この周堤墓を訪れてきょうでちょうどひと月。あらためて「円環的死生観」とやらを考えてみる。すべてはどこかでつながっているのだ。すくなくとも縄文人は「死」を形而下では考えていなかった筈である。それは後の世の仏教者たちがいう「縁起」や「因果」といったことをも包摂する思想だったのではないだろうか。縄文の思考は野生の思考でもある。侮るなかれ。

(2024年6月23日)

出典
*1 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
*2 斜里町立知床博物館ホームページ
*3    山田康弘「つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る」新潮社 2016年
*4    文化遺産オンライン

参考
瀬川拓郎「縄文の思想」講談社 2017年
大島直之「縄文人の世界観」国書刊行会 2016年
御所野遺跡縄文博物館編「環状列石ってなんだ  御所野遺跡と北海道・北東北の縄文遺跡群」新泉社 2019年
拙稿「縄文の共同墓地とあの世への入口 」