キウス周堤墓群:北海道千歳市中央

アフンルパ:北海道登別市登別本町3丁目

 

僕が訪れてきた聖地は古社、古刹が多いのだが、北海道には残念ながらこれらがない。古くからの聖地といえばアイヌの信仰に連なるものだが、社殿やモニュメントに象徴されるものはなく、たとえば神居古潭や大雪山(カムイミンタラ=神々の遊ぶ庭)など自然そのものになる。それはそれで魅力があるのだが、人為が関わった何かもほしいところで、そうやって考えていたら縄文遺跡に行き当たった。縄文の遺跡や遺物には聖地を考える上でのヒントがたくさんあるのだ。北海道と東北の縄文遺跡17ヶ所(他関連資産2ヶ所)は、二年前にユネスコの世界文化遺産に登録された。北東北の11ヶ所はこれまでに訪れたことがあるが、一口に縄文文化といっても一様ではない。北東北と北海道でも少なからぬ差異があろう。ということで、一足早い夏休みは道南の縄文遺跡とアイヌコタンの旅に費やすことにした。

 

函館市の垣ノ島、大船、洞爺湖町の入江・高砂、伊達市の北小金遺跡を巡り、途中二風谷と白老に寄って、最後に向ったのが千歳市のキウス周堤墓群だ。新千歳空港からだと車で30分ほどの場所にある。このあたりは低湿地帯で、多くの縄文遺跡が点在する。キウスとはアイヌ語で「カヤの群生するところ」の意で、この遺跡は近くを流れるキウス川から名づけられた。

 

今回訪れた遺跡はどこも幟がはためき、地域の方々がガイドや駐車場整理を行っていた。世界遺産登録を機に整備され、立派な博物館を併設する遺跡もあったが、ここキウス周堤墓群は駐車場の入口に幟は立つものの、奥にプレハブ小屋が一棟建つのみである。折からの驟雨で傘を持って車の外に出ると、小屋の中からボランティアガイドの方が声を掛けてきた。案内するとのことだったが、雨の様子が気になるので先に見学を済ませてからそちらに寄ると伝え、周堤墓のある森の中に入っていく。

 

キウス周堤墓群(出典*1)

 

 

 

すばらしい原生林だ。少し行くと樹々の向こうに陥没した地形が伺える。キウス周堤墓の第2号墓だ。手元の資料によればその大きさは周堤の外形が74m、内径が35m、周堤の高さは5.4m、周堤の一番高いところの円周は150mあるという。巨大なドーナツ状の墓とでもいえばよいだろうか。円墳をひっくり返すとこんな感じかと思いながら、一つひとつ観察する。ここでは大小七基の周堤墓を見ることができる。

キウス周堤墓 2号墓


キウス周堤墓 1号墓

 

 

周堤墓の定義は以下の通りだ。

 

縄文時代後期後半の北海道にみられる特殊な集団墓地。環状土籬(かんじょうどり)ともいう。直径数十m、高さ数mの円形の竪穴を掘り、掘り起こした土で周囲に土手を築き、窪地に複数の墓を設ける。墓の多くは土に穴を掘っただけの土坑墓であり、中には土器、石器などの副葬品が入れられた。北海道では縄文時代後期前半には本州の東部と同様の環状列石(ストーンサークル)がつくられたが、それらが特殊な展開をしたものと考えられる。被葬者との関係をめぐり、数々の分析がなされている。恵庭市の柏木B遺跡、千歳市のママチ遺跡、キウス周堤墓群などが代表的。(出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 周堤墓

 

誰もいない。ここにいると奇妙な気持ちになる。小雨がぱらつく原生林の中の大きな墓域だからなのか。いや、そうではない。ここには畏怖の対象としての死、あるいは霊魂といったもののかけらも感じられない。時代や文化のまったく異なる人々が多大な労力を費やして造りあげた土の遺構があるばかりなのだ。僕はむしろそのことに安堵を覚える。土に、自然に還っていることが皮膚感覚としてわかるのだ。古墳とは異なり、そこに人間の存在の生臭さ、つまりこの世にしがみつく情念などは感じられないのである。誤解を恐れずに言えば、クマやシカ、サケなど他の生き物と同じありようですらあるのだ。墓の造作ひとつとってみても、死生観や他界観によってそのあり方は大きく変わる。その世界観はいったいどういうものだったのだろうか。そして、そもそも当時の人々にとって「墓」は「聖地」だったのだろうかという疑問すら浮かんでくる。

 

雨が繁くなってきた。足早に案内所の小屋に身を寄せると、待ってましたとばかりに年嵩のボランティアガイドの方が迎えてくれた。「案内しようと誘ったがかわされてしまったので、たぶん縄文遺跡についてよくご存じの方だろうと思い、あきらめた。少々悔しかった」とのこと。中にパネルが展示してあったので見て回る。なぜ遺跡の真ん中に道路を通したのかと質問してみると、ここには昔から道があったとの由。この道があったからこそ遺跡の所在に気づけたということだった。たぶん秋田の鹿角にある大湯環状列石と同じなのだろう。優に千年を超える遺跡は時代の変遷に埋もれてしまうのである。ほかにもこの周辺の地形や、湿地帯で数多くの池沼があったが干拓で現在はほぼないこと、この周堤墓は道内でもこの地域に集中していること、新千歳空港の滑走路の下にも周堤墓があることなど、いろいろと丁寧に教えてくださる。あくまで自説だと断って「縄文人は墓参りなどということはしなかったのではないか」とも。古くはアイヌの人々も同様だったとのことだ。(注*1)

 

説明してくれた方に「なぜガイドに」と問うと、「ヒマだったから」と答えられたが、元々地元の遺跡に興味があり、そうした講演会に足を運んでいてある時ガイドをやってみないかと誘われたとの由。当日は夏休みの只中だったが、月曜日の夕方近くということもあり、たぶん訪れる人も少なかったのだろう。話したくて堪らないといった様子はまるで子どものようで、たいへん微笑ましかった。齢を重ねてもいつまでも斯くありたいものである。

 

出土した遺物で目を引くのは4号墓の外縁から出土した磨製の両頭石棒だ。案内所の中にもレプリカが展示されていたが、実に精巧にできており、両頭には文様まで施されている。よく見る男根を模した石棒とはまるで様相が違い、その形は呪具そのものである。密教や修験の法具といっても通用するのではないか。加えて近くの畑からは172cmもの長さがある石柱が出土している。一見して墓標であり、オベリスク、部族の長の墓の所在を表したものと考えられなくもない。近くにある千歳市埋蔵文化財センターで見ることができるが、これら出土品から考えると始終墓参りをしていたわけではないものの、埋葬の際には壮大な祭儀が行われていたように思われる。

 

磨製石棒(複製)

現物(千歳市埋蔵文化財センター)


石柱(千歳市埋蔵文化財センター)


さて、話は前日訪れたアフンルパ(アイヌのあの世への入り口)に移る。登別周辺にはアフンルパは二か所あり、一つは登別漁港近くにある海辺の洞窟、もう一つは蘭法華(ランポッケ)と呼ばれる丘の上にある窪地である。本稿では後者を取り上げる。カーナビでは無理なのでグーグルマップに頼るが、プロットされた場所のすぐ近くまで来てもなかなか所在がわからない。知里幸恵の墓所がある富浦墓地の東側に車を停め、周辺の探索を試みるが、あらぬ方向へ入っていってしまったりと難儀する。戻ってきて途方に暮れていると、丘の上から少し下った道沿いに小さな看板を発見。ここが入口だ。足元の雑草をかき分けながら小雨の中を200mほど進むと、崖状になった丘を回り込んだところに最近立てられた案内板があった。

 





アフンルパル ーあの世の入口ー

アフンルパは、アイヌ語で「入る・道・口」の意味で、あの世の入口を指しています。一般的には登別漁港にあるような横穴ですが、ここは珍しい竪穴です。登別出身のアイヌ語学者 知里真志保、友人のアイヌ語地名研究者の山田秀三らが、昭和30年に真志保の父 高吉の案内で調査しました。穴は楕円形で、大きさは約30m×22m、深さは約4mもあります。道路工事で一部破壊されてはいますが、現在でもその大きさを体感できます。登別出身のイメカヌ(金城マツ)が、アフンルパのウエベケ(昔話)を伝承しています。主人公の少年が悪い叔父にだまされ、あの世へ行きますが、死んだ家族に言われ、代わりに叔父をあの世へ送り出し、美しい女と結婚し、村とともに栄えていったというものです。ここは、アイヌ民族の世界観を反映した地名と物語が残る、不思議な場所です。

令和2年6月 登別市教育委員会

 

 

どこか周堤墓めいていないだろうか。以下、知里真志保の記録を引用する。

 

雑草を全部取片付けて見ると楕円形の摺鉢形の凹地であることが判明した。東西に長く、南北は短い。東端――詳しい測量の結果では東より南に約31度ふれている――は少しすぼんでいて、見方によれば卵形にも見られる。(中略) 周囲の斜面には、奇異な階段がぐるぐると廻っている。ところどころ崩れていて、或は2段が1段に化した処もあるようであるが、大体のところは段から段への高さは50乃至70糎位で、処により7段、処により6段で、崩れたらしい処では2段が1段になっている。底部の東端からその段に自然に上って行けるような形で伝わって行くと段々上へ上って行くことになるらしい。(ただし途中ところどころ崩れているので正確には分らない。)底部は大体平らであるが、東西の長い方向で見ると、その中央の辺がほぼ円形に低くなっていて、その中に直径1乃至0.7米の孔が半円形に並んでいる。孔は円い形でほぼ円筒形の浅いものであるが、周壁は案外崩れていない。もう一つか二つかあるとこれも大体円形になる処だが、それらしいものは見当らなかった。何か柱孔らしくも見える。(中略) この形の遺跡が従来他にあることを見聞していないので、すこぶる奇異な感に打たれた。他でいわゆる地獄穴とされているものは、すでに見た通り、ほとんど全部が海岸或は河岸の崖にある自然の洞窟で、ほとんどが横穴であるのに対して、これは明らかに人工と見られる竪穴である。また、その螺旋形らしい階段の意味についても、今後の研究にまつほかない。ただし、附近に散在している遺跡や、その名称や、それに附随して語り伝えられている伝説や信仰などを考えあわせると、或はこれは俗人の近づくのを許さなかった祭祀関係の遺跡だったのではなかろうかとも考えられる。(出典*2)

 

5kmほど東に行った海岸近くには、続縄文期のアヨロ遺跡があり、付近にはアイヌ民族の伝承や地名も多く残されている。続縄文期は北海道固有の歴史文化区分で、本州では弥生時代にあたるが、ここでは擦文文化、そしてアイヌ文化と続いていく。一方、キウス周堤墓群は縄文晩期に成立しており、続縄文期に接続する時代である。また、引用文中にある「直径1乃至0.7米の孔が半円形に並んでいる」こと、このアフンルパのすぐ後方が共同墓地だということなど併せ考えると、素人の妄想に過ぎないがここは周堤墓だったのではないかとも考えたくなるのである。

 

眼鏡をかけた中年の男性が一人、高性能そうなカメラをぶら下げてやってきた。昨日洞爺湖の湖畔での花火見物の最中に見掛けた御仁ではないか。物好きな人もいるものだ。いま一度振り返ってみたアフンルパは、雑草生い茂るただの大きな窪地だった。

 

 

(2023年8月10日)

 

注)

*1 アイヌの墓参りについて以下の記述がある。

「先祖に対する考えかた  ~アイヌの伝統的な信仰  その1~」アイヌ文化情報発信! コラム【第5回】北海道立アイヌ文化研究センター 2012(平成24)年8月17日配信 https://ainu-center.hm.pref.hokkaido.lg.jp/13_01_005.htm

 

出典)

*1 キウス周堤墓群見学案内 北海道千歳市公式ホームページ https://www.city.chitose.lg.jp/docs/20687.html

*2『北方文化研究報告』第十一輯 昭和31年3月(「登別のアフンルパロ」 localwiki より転載)

https://ja.localwiki.org/nb/%E7%99%BB%E5%88%A5%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%B3%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%AD

 

参考)

大谷敏三「北の縄文人の祭儀場 キウス周堤墓群」 シリーズ「遺跡を学ぶ」074 新泉社 2010年