神魂神社:島根県松江市大庭町563
大庭宮山(出雲大神宮):島根県松江市大庭町(立正大学淞南高等学校内)
出雲口伝というものがある。古代出雲王朝に口述で伝えられた古史とされ、近年は書籍にもなっている。史料価値を云々するほど当方に知識はないが、古代史ファンにとってはなにかと取り沙汰したくなるテーマらしい。司馬遼太郎の「生きている出雲王朝」というエッセイにも、彼が新聞記者であった時の同僚、W氏がこの口伝を伝える話が出てくる。先祖が大国主命だというW氏は、ただ一系統だけ残った出雲族の末裔と称し、「出雲族は天孫族に簒奪された」と慨嘆する。
少し経緯をおさらいしておこう。国譲りのあと、出雲王族は元々の支配地であった大和三輪山の麓に移され、族長の大国主命は政治的な影響力のない「象徴」として杵築(出雲)大社に封じ込められた。天孫族が代わりに現地の統治に派遣したのが天穂日命だ。司馬遼太郎はこのことをアメリカ占領下の天皇とマッカーサーの関係に擬えたが、まさしく換骨奪胎され、簒奪されたのである。
遣わされた天穂日命がGHQを設置したのがここ神魂神社である。意宇六社の一社とされるが、出雲国風土記にも延喜式にもその名が見えない。元々通常の神社ではなく、出雲国造が祖神の天穂日命を邸内で祀った、いわば私的な斎場だったとされ、現在地に遷座してのちに近隣の信仰を集めることになったという。神魂神社の本殿(国宝)はこのことを伺わせる。大社造と呼ばれる神社建築様式は古代の「家」を模しており、宮殿が転じて社殿になったと推定されている。創建時の姿は不明だが、杵築大社が大国主命の住居であったように、当社も元々は出雲国造の住まいだったのではなかろうか。
参道を行く。神魂神社は小高い丘の上に鎮座していた。石段を上った先の境内は広くない。古色蒼然とした社殿は正平元年(1346年)の再建だ。室町期の建築様式で、出雲大社よりも規模は小さいものの古風を留める。意宇六社はいずれも大社造だが、この本殿の存在感は他の五社を大きく凌ぐ。なにか古い生き物を思わせ、意匠もあいまっていつまで眺めていても飽きることがない。いにしえの出雲の幻影がかげろうのようにゆらめいている。あぐらをかいた天穂日命が顎をさすりながら従者に指示を出しているようすが脳裏をよぎった。
本殿両脇には摂末社が並んでいるがこれらに特筆すべきことはない。それよりも好奇心をくすぐられるのは、神魂神社にほど近い山裾にある磐座である。神魂神社の奥宮とされ、現在は「出雲大神宮」と称する。出雲大神宮といえば丹波国一之宮だ。主祭神は大国主命とその妃神の三穂津姫命なので、ここも大国主命を祀るのだろうか。
神魂神社を出て100mほど進むと、右手に立正大学淞南高等学校の入口がある。舗装路の坂をゆっくり上っていくと右手に校舎、その先の左手、少し上ったところに東屋が見える。空気が変わった。玉垣がめぐらされた中が磐座だ。小山の斜面にかなりのスケールで苔むした巨石が転がっている。一見して自然石のありようではない。配置にわずかに規則性のようなものが見え、なんらかの人為を感じる。しかし、ここは学校の校内である。生徒も教職員もこの異空間をどう思っているのだろうか。大庭宮山と呼ばれるこの地は古くは禁足地であったという。1961年に開校してから事故が相次いだため、特別に祀るようになったとの由。よく整備されているのはこうした背景があるからだろう。
大和三輪山の山頂にある奥津磐座に似た印象だ。三輪山に祀られているのは大物主神、つまり大国主命の幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)である。先に出雲族は天孫族によって三輪山麓に封殺されたと書いた。また、三輪山のある奈良県桜井市には今も「出雲」という地名が残る。彼らが畏怖し、仰いだ山が三輪山であり、大国主命はそこに出雲族のシンボルとして重ねられたのである。
さて、出雲口伝に戻ろう。司馬遼太郎の同僚、W氏の御子息が書いた本がある。「真実の出雲史を普及させてくれ」という父の遺言に従い、出版社を立ち上げて本を書いたという。ペンネームは斎木雲州だが、版元の代表者は富早人氏とあるので、この方が御子息なのだろう。富家とは、もと向家であり、出雲大社の上官家だった。上官とは出雲国造の名代を務める上級神職で、向家に伝わる古文書によれば、近世には北島、千の両国造家に8名ずつ、他に別火家1名の計17名おり、向家は北島国造方の筆頭であった。このあたりを紐解いていくと非常にややこしいので、ここでは磐座について記された部分について同書から引用しておく。
わたしの家から西南に15分歩くと、神魂の丘に着く。そこの神社の南方200メートル先に、歴代の東出雲王墓がある。(中略) 王国時代の王の葬儀は、風葬であった。王が没すると、立て膝で座る姿勢にされて、竹籠に納められる。口に刺した漏斗から、朱を注ぎ入れる。朱は体の総ての細胞に染みわたり、死臭を防ぐ。遺体は駕籠で熊野山に運ばれ、ヒノキの大木の茂みに隠される。その木には締め縄が巻かれ、紙幣が付けられた。それは霊(ひ)モロギと呼ばれた。3年後に洗骨して、頂上付近の磐座の横に埋納することになる。遺骨なき後も、その木は締め縄が張られ、霊モロギと呼ばれ続けた。後世に山の麓(八雲村熊野宮内)に神社が建てられる以前は、熊野山の中腹に斎場があり、代々の王の神霊を拝んでいた。出雲地方には、両墓制の習慣があった。遺体は遠くの山にほうむられた。そこが「埋め墓」である。その山は神奈備山と呼ばれた。屋敷には石を置いて、「拝み墓」とした。向王家では王の没後、大きな丸岩を運ばせて、拝み墓とした。それが「東出雲王墓」であった。そこには大岩が20個ほど山と積まれている。(出典*1)
この記述に根拠を求めるのは至難だが、仮に神魂神社が住居であるとすれば、至近の宮山に拝み墓を設けることはあり得るし、熊野山(天狗山)の斎場を訪れた経験(参考*3)からも、彼の地が埋め墓であったことは想像にかたくない。(とにかくすさまじい霊気なのだ) この斎場は古くから元宮平(げんぐがなり)と呼ばれているのだが、北島国造家文書によれば、「平」は平定した王家、すなわち向家のことを指す。同書の解説には、「向家の『向』は『言むける』(征服する)の古語から来ている。その後、貢物が集まり、富が益したので、『富家』とも呼ばれるようになった」とある。いってみれば磐座も斎場も向家先祖代々の墓所ということになる。
元宮平(熊野大社元宮 斎場)
富家(向家)は東出雲王の直系の末裔を自認するが、一方で冒頭に触れた出雲国造の祖は天穂日命であり、大和からやってきた天孫族である。神魂神社のある大庭一帯が富家(向家)の根拠地であったとすれば、辻褄が合わない。邪馬台国の所在に同じく、これら古代史におけるさまざまな比定は、結局考古学に頼るしかないのかもしれない。
出雲は巨石信仰のメッカだ。古代出雲の磐座の機能ははたして拝み墓だったのだろうか。
(2021年6月12日、2017年9月10日)
出典
*1 斎木雲州「出雲と蘇我王国」大元出版 2022年
参考
*1 司馬遼太郎「歴史の中の日本」中公文庫 2002年
*2 藪信男「神魂神社」谷川健一編『日本の神々−神社と聖地- 第七巻 山陰』白水社 1985年
*3 拙稿「熊野坐大神はいずこの神か」出雲 熊野大社