熊野大社:島根県松江市八雲町熊野2451番
フォローいただいている方は「また熊野か」と思われるかもしれないが、今回は南紀の熊野ではなく、出雲の熊野大社である。この二社にはもちろん共通点がある。出雲の熊野大社の祭神は、伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命(いざなぎのひまなご かぶろぎくまのおおかみ くしみけぬのみこと)。寿限無のように長たらしい神名だが、実はスサノヲの異名。一方、熊野本宮大社の主祭神は家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)。別称は熊野坐大神〈くまぬにますおおかみ〉、または熊野加武呂乃命〈くまぬかむろのみこと〉だ。(因みに速玉大社も那智大社も同神を祀っている)。こちらもスサノヲの異名だ。みけ・みこは、御饌であり、食物を司るという点でも同じである。熊野大社が出雲から紀伊に勧請されたのかどうかは定かではないが、出雲族が朝廷成立以前に大和に進出していたとすれば、この神が大和を経由して紀伊に入ったとみるのは自然だろう。奈良県桜井市の三輪山の東麓には出雲という地名が残るし、製鉄技術に優れた出雲族が住んだと思われる「金屋」や「穴師」など鉄に因む地名もある。なにしろ、大神神社の神体の三輪山は鉄を産出し、この山に降った神は大国主命の異名同神である大己貴命とされているのだ。
出雲大社、八重垣神社に比べると、熊野大社を参拝する観光客は少ないように思う。“縁結び”という御利益を強く打ち出していないこともあるのかもしれない。僕が訪れたのは日曜日の午前中。やはり参拝者は疎らだったが、神前結婚式を挙げるカップルがひと組いて、髪を結った白無垢の新婦が随身門から拝殿を望む構図で、カメラマンに写真を撮ってもらっていた。
正面本殿には熊野大神櫛御気野命、向かって右側の稲田神社にはその妻、櫛稲田姫命とその両親、足名椎命、手名椎命を祀る。左側の伊邪那美神社には母、伊邪那美命を祀っている。ほか、境内左手には荒神が祀られているが、これらはすべて明治三十九年(1906年)の神社合祀の勅令によるものだという。
境内左手には、当社特有の鑽火殿がある。熊野大社は、火の発祥の神社として「日本火出初之社」(ひのもとひでぞめのやしろ)の別称もあるように、この中には、燧臼(ひきりうす)、燧杵(ひきりきね)が収められている。熊野大社縁起には「出雲大社の祭祀は熊野大社の「神聖の火《熊野大神の霊》」、燧臼燧杵の神器を拝載する事によってはじまるとされ、出雲大社宮司(出雲國造)の新任時の霊継式(火継)、また年々の当社の鑽火祭に於いて新しいその神器が授与される」とある。両社の間には古来から浅からぬ縁があるようだ。
熊野大社は出雲大社と並び名神大社であり、どちらも出雲国一之宮だが、創祀は熊野大社の方が古いとされている。通説では、出雲国造の本拠は出雲東部の意宇郡にあり、熊野大社を奉斎していたが、後に杵築に本拠を移し、出雲大社を奉斎するようになった。しかし、お分かりのように両社は祭神が異なる。熊野大社は櫛御気野命、出雲大社は大国主命だ。古代史研究者の村井康彦氏はこのことから出発し、異説を唱える。それは、八世紀の初め、出雲国造の果安が伊勢の内宮と外宮の関係に準じ、出雲大社を内宮に見立て、御饌を司る外宮の役割を熊野大社に持たせたとする説で、熊野大社の社殿を造って祀った時期もこれに合致するという。つまり大和朝廷との関係の中で、出雲大社を伊勢神宮に匹敵するものとするために、熊野大社を御饌の神として引き合いに出し、作為したというのだ。国譲りによって大和に服属した出雲国造の矜持なのだろうか。出雲のみならず、大和はじめ関係する土地を隈なく歩き、出雲国風土記はじめ文献を丹念に読まれた上での仮説であり、歴史好きにとっては堪えられない話題だろう。ご関心あらばぜひ文末の参考文献を読まれたい。
熊野大社は、現在地に祀られるまでにも曲折があったようだ。元々熊野大社はこの地ではなく、東南にある天狗山の山頂近くに祀られていた。いまもそこに元宮磐座と呼ばれる祭祀場があり、中世には熊野三山信仰の隆盛に伴って、いわば紀伊から逆流する形で熊野信仰が入り込んでいる。この際、天狗山から里に下り、「上の宮」と「下の宮」に分かれたらしい。上の宮は熊野三山、下の宮は伊勢の神々を祀ったといわれるが、このあたりも前述の村井康彦氏の異説に関係がありそうだ。上の宮は明治の神社合祀によって下の宮に統合されるが、これが熊野大社の現社地なのである。現社地の境内の前には意宇川が流れるが、ここから五百メートル川上にある御笠山の麓には今も「上の宮」の跡が残る。
さて、僕の性分から、元宮があると聞いて行かないわけにはいかない。二度目に当地を訪れた時、天狗山に登ってみた。途中までは車で行ける。熊野大社を出て、1kmほど南に下って左折し、意宇川沿いにしばらく上っていくと、右手に車が数台停められる駐車場がある。ここから未舗装の道に入り、登山口までは徒歩二十分くらいかかる。悪路ではなく、登山口にも数台の駐車スペースがあるので、時間をセーブしたい向きは車で登山口まで行ってしまうことをお勧めする。ところが、この登山口がわかりにくいのだ。道の左手に少し開けた土地があり、案内板が立っていてその奥が登山口なのだが、樹木に遮られてよく見えない。見過ごしてしまうと山を巻くように歩き続けることになる。平坦な林道になったら要注意だ。僕は登山口を探しながら二十分も歩いて行ってしまい、途方に暮れて元に戻ったのだった。
登山口の入口、小さな木の橋を渡って山の中に入る。すぐに「意宇の源」と記された標識が目に付く。意宇川の水源だ。草木の間からちょろちょろと水が湧き出ている。手で掬って飲んでみた。甘露。山中に湧き出る水はいつどこで飲んでも旨いものである。
さらに十五分ほど登っていくと今度は「不思議な構造物」の標識。苔生した石組がある。宗教的なものなのだろうか。これまでに見た山中のこの種のものは寺院の基壇だったり、修験の宿の跡だったり、炭焼き小屋の跡だったりしたことが多いが、これは未だによくわからない。
遣り過ごしてさらに先を行く。晩秋だが、急坂に汗ばむ。道の両側には熊笹がやたらと生い茂り、強い風を受けて波を打つようにざわめく。
登山口から概ね三十分で山頂手前の斎場に達した。
「ここは出雲国一の宮・熊野大社の元宮の斎場跡(祭場跡)で、古くから元宮平(げんぐがなり)といわれている地です。天平五年(722年)に編纂の『出雲国風土記』に「熊野山。所謂熊野大神の社坐す」と記されておりますが、正面の山斜面の上方に聳えます巨石を磐座といい、かつて熊野大社の元宮でありました。(中略) 皆様方にはここ(石垣手前)から磐座を仰ぎ見られ、しばし悠久の昔の熊野大神並びに原初の大神の宮に思いを致されてはいかがでしょう。(後略)」 ということで、原初の大神の宮に思いを致してみる。
興味関心のない方々にとっては小石がごろごろしているただの山の斜面だろう。だが、僕のような好事家にとっては、折から吹き荒ぶ風も相俟って、とても神々しく映る。不思議なものだ。
磐座の手前に張られた注連縄にぶら下げられた紙垂がひらひらしているのが見える。木々に遮られてよく見えないが、神体らしき巨石の姿を朧げに確認する。これは実見しないと、と矢も盾もたまらず斎場を登る。しかし、結構な急斜面で足場が悪い上につかまる物もない。磐座の近くまでなんとか辿り着いたと思うと、足下の小石が滑り、「ずざざざーっ」と音を立てて後退してしまう。「ずざざざーっ」。「ずざざざーっ」… まるで蟻地獄のようだ。何度か挑戦したが徒労に終わり、頂上に向かう山の斜面の右手から回り込むことを試みたがこれも叶わず、やむなく磐座を目にするのは諦めたのだった。
熊野大社は遷座の過程で祀られる神が変遷していった可能性がある。村井氏の説に従うならば、ひょっとすると、いや、多分そうだろう。いまも山の上に坐す石神は、本来御饌の神などではなかったのではないか。社殿も何もないこの小石だらけの斎場に佇んで風に吹かれていると、あさはかな人間たちが勝手に造った神々を、山頂に隠れた磐座が嘲り笑っているような気がするのだ。
(2017年9月10日、11月23日)
参考
出雲國神仏霊場公式ホームページ 【第十五番】熊野大社
http://www.shinbutsu.jp/46.html
「出雲と大和」村井康彦著 岩波新書
「古代出雲を歩く」平野芳英著 岩波新書