藪薩御嶽(ヤブサツウタキ):沖縄県南城市玉城百名
沖縄には、御嶽、城跡、墓、湧水地など祖先ゆかりの旧跡を巡拝する行事があり、いくつかのルートが伝えられる。琉球国王や聞得大君が巡拝した東御廻り(アガリウマーイ)はその代表的なもので、毎年四月に首里城を出発し、十四ヶ所の聖地を巡っていたという。稲作のはじまりとこれをもたらした祖先神への感謝を込めたものだったようだ。その後、この国王の巡拝を基本に民間もはじめるようになり、いくつかの聖地が加えられたようだ。以下がそのルートだ。(各所の後に付記した*が国王の巡拝地)(参考*1)
1.園比屋武御嶽(ソノヒャンウタキ)*
2.与那原親川(ヨナバルウェーガー)*
3.御殿山(ウドゥンヤマ)
4.馬天(場天)御嶽(バティンウタキ)*
5.佐敷上グスク(サシキウィー)*
6.テダ御川*
7.斎場御嶽*
8.知念グスク*
9.知念大川(チネンウッカー)*
10.ミントゥングスク
11.仲村渠樋川(ナカンダカリヒージャー)
12.アイハンタ御嶽*
13.藪薩御嶽*
14.ヤハラ司*
15.潮花司(スーバナヅカサ)*
16.浜川御嶽(ハマガーウタキ)
17.受水走水(ウキンジュハインジュ)*
18.玉城グスク*
19.玉城祝女殿内(タマシロノロドゥンチ)
20.志堅原仁川(シケンバルジンガー)
以下にGoogle Mapのリンクを貼っておく。
https://drive.google.com/open?id=1akR3Hrw4ic90sIsqqp37EtKiWkemAq_9&usp=sharing
この内の六割くらい訪れているが、大部分は現在の南城市に所在する。藪薩御嶽はこの内の一ヶ所だ。なぜ藪薩御嶽をとり上げるのか。それは、この中で唯一モニュメントらしきものがない「神の森」だからだ。
世界遺産「斎場御嶽」から国道331号線を南西に下っていく。市営の百名団地を左手に見て、その先交差点を左に曲がり少し行くと、右手に「やぶさち」というカフェが入る白い建物が見える。その先は広い原っぱになっているので、すぐにわかるだろう。ここに車を停め、その先にある森に入っていく。
いかにも南島の海の近くにある樹叢だ。私有地とのことだが、いったい誰がこの森を管理しているのだろう。森を行くとすぐにヤブサツ御嶽→30mと記された標識が見える。左手に折れる。空気が変わる。祈りの場が近づいていることがわかる。

タマガイクマガイの御イベ
この下が仲村渠クルク
聖地には大体においてなんらかの目印がある。神社でいえば鳥居、社殿、〆縄、狛犬といったものだ。だが、琉球弧の島々の御嶽、拝所に限らず、ヤマトの神社の祭祀も元々はなにもないところで行っていた。社殿が造られはじめたのは仏教寺院の影響と考えられており、その時期は飛鳥寺が建立された六世紀末以降、おそらく七世紀に入ってからのことだろう。それまでは祭祀の都度、神籬や磐境を設けて神の依り代としていた。祭祀が終われば祈りの設えは撤去される。ただし、祭祀が営まれる場所は決まっていたと思う。それは、祈りを捧げる人々にとってなんらかの意味で特別な場所だったからだ。いにしえの記憶をいまに繋ぐ場所、たとえばその地を開墾した祖先の住居や葬地、自然の意匠によって意味づけられた空間などであっただろう。日本人にとってそれらの場所は、天上から、海の彼方から、地の底から来訪する神を迎える、正に「神座」であった。
さて、ここ藪薩御嶽をとりあげるのにはもうひとつ理由がある。それは、ヤブサ信仰との共通性だ。壱岐ではヤブサ、対馬ではヤボサとされる「森の神」を祀る信仰である。折口信夫、中山太郎、山口麻太郎、鈴木棠三らの論考があり、ここで詳しくは紹介しないが、「ヤブサ」という音韻のみならず、神体に小石を祀るところが多いこと、壱岐では百合若説教のイチジョウ、対馬では法者(ホサ)など、ノロやツカサに同じく巫覡が祀っていたことなど共通項は多い。
折口信夫は「鬼の話」(出典*1)で、こう記す。「壱岐の島へ行くと、おにやというものがあるが、これは古墳に相違ない。ここには昔、鬼が棲んだと言われている。対馬へ行くと、やぼさという場所が神聖視せられている。初春には、ことに大切に取り扱わねばならぬ。ここには、祖先のもっとも古い人が住んでいると考えられ、非常に恐れられている」とし、さらに「昔は、海辺の洞穴に死人を葬ったが、後にはそこを神の通い場所と考えるようになった」としている。また、「雪の島」(出典*1)ではこうも記している。「壱岐には矢保佐・矢乎佐などという社が、今も多くあり、昔は大変な数になるほどあった。(中略)対馬にやぼさと言うているのは、岡の上の古墓で、より神とも言うそうである。古墓の祖先の霊で、憑るからのより神であろう。さすれば、壱岐に数多いやぼさは元古墓で、祖霊のいる処と考えていたのが、陰陽師の役霊として利用せられるようになったり、そのもとがだんだん、忘却せられてきたのだろう」。
この折口説を支持した民俗学者谷川健一、御嶽に魅せられた仏文学・美術史研究者の岡谷公二の両氏も、藪薩御嶽が葬地と密接につながる聖地であることを主張する。藪薩御嶽は、琉球開闢の七御嶽のひとつだ。国造りの祖を祀っていたことはもはや間違いないだろう。
以前投稿した対馬の天神多久頭魂神社
社https://ameblo.jp/zentayaima/entry-12421997598.html
の脇に、同じような拝所があった。御嶽のようだと書いたのだが、いま思い起こすとこれこそヤブサではなかったか。もしそうだとすれば、対馬という国境の島、さらにその辺境の地の佐護が、藪薩御嶽のある百名浜と"黒潮"によって結ばれていることになる。
人間にとって移動とは、生活であり、文化であり、歴史であり、経済であり、実は生きることそのものなのだ。COVID-19というこのとても厄介な感染症を克服して、いつの日かまた皆が自由に旅することをいまは祈るばかりである。
(2019年7月10日)
参考
*1「沖縄の聖地 −拝所と御嶽−」湧上元雄・大城秀子 むぎ社 1997年
「森の神の民俗誌 −日本民俗資料集成21−」谷川健一編 三一書房 1995年
「沖縄の聖地 御嶽 −神社の起源を問う−」岡谷公二著 平凡社新書 2019年
出典
*1 「古代研究II 」折口信夫著 中公クラシックス 中央公論新社 2003年