なんらかのキッカケで自然と活元運動が出たって方がいる。
身近に野口整体の指導者がいたり、活元運動をしている方がいればなんら問題ない。
ところが身近にそういう人がいないと悩みが深くなる。
巷の病院やら整体院などに行って相談すると、まずほとんどのところで???って
何言ってるの?
頭ダイジョウブ?
下手をすると精神科を紹介されたりするんだそう。
そうなると、ますます悩みが深くなる。
霊が見える霊能者が子供時代に、周囲に霊が見える人がいないと自然と見えることについて口をつぐんでいくのと同じ現象。
口にしてはいけないタブーになっちゃう。
カラダが勝手に動き出すってこと自体がこんな特殊なことになっちゃってるってことに驚くよね
赤ちゃんが寝相で動くまくることを見たことがないんだろうか?
セックスにおいてオーガズムに達した女性が意思とは関係なく激しく動くのを体験したことがないんだろうか?
そんな鈍いカラダの人が多数派になってしまっている
カラダを触れる職業の人ですら恐ろしいくらいに硬張った鈍いカラダの人がいる。
人間は自分より緩んでいる人、リラックスした人に触れられないと心地よくない。
だから自分が硬張っている人の下には、もっと硬張った人しか訪ねて来ない。
触れられただけで気持ち悪いと感じる人で整体指導者ってのもいる。
病んでいる気でヨガの先生とか。
黒いオーラで人に触れる職業の人すらいる。
そういうところにはもっと鈍った人たちだけがやって来る。
自然から遥かに離れてしまったカラダが多数派となってしまった現代。
なんでこんなに鈍いカラダが増えたのか。
考えてばかりで、感じるが行われていないから。
感受性として大脳がメインになってしまっていて
カラダで感じるってことがなくなっている。
NTTを辞めようと思って即座に辞表を書いたという武田双雲さん。
ぼくは辞表書くのに1年以上要したからね。
これが考えると感じるの違い。
考えるは、思考の産物。
感じるは、要求、衝動の産物。
要求っていうのは、保管しておくことができない。
いま、湧き起こってきたもの。
常に生もの。
だから湧き起こってきたまま行動していくだけ。
行き先だってよく分からない。
考えるが必要な状況だってあるわけだけど。
いのちの働きであるカラダの無意識運動に大きな影響を及ぼしているのは「感じる」なんだよね。
で、無意識運動の邪魔をするのが「考える」。
悩みというのは、頭の中で過去のこと未来のことを考え出すことで生じる産物。
カラダが鈍っている現代においても
「感じる」はダイレクトにカラダに影響を与えている。
鈍っているカラダのみぞおちに手を当ててみると
目の前に来た人が好きか嫌いかは
瞬時に気の気配が教えてくれる。
好きな人が来ると
みぞおちがパァーッと開いてしまうし
嫌いな人が来るとキューっと締まってしまう。
自分の好き嫌いを知られないように笑顔を取り繕ってみても
カラダはちゃんと感じたままに表現してしまう
あまりにもストレートに表現してしまうので
やりあうメンバーを考えなきゃいけないくらい笑
実はそんなにも敏感に感じ取っているのがカラダなんだよね。
だから、やりたくない仕事に従事していると
カラダは瞬時に硬張っていく。
嫌なのに仕事を続けるってことは
感じたことを無視するってメッセージをカラダに送っていることになる。
するとカラダは感じている影響を最小限に抑えようと
感じないように
鈍って環境に適用しようとしていく。
この鈍り適応で問題なのは
〇〇したい
〇〇食べたいなどの
カラダから衝動、要求が湧きおこりにくくなるってことなんだよね。
感じるというカラダからのメッセージを無視し続けてきたんだから仕方ない。
「感じる」という機能はみんなに標準装備されている。
感じて、動くという自然な人が増えていけば
「カラダが勝手に動くなんて頭ダイジョウブ?」って
問いかけも自然となくなっていく。
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