今まで目にした活元運動の体験記で

 

もっとも読みごたえがあり

 

わかりやすい体験記は

 

絵本作家・五味太郎さんのこの手記でした。

 

五味さんの文章内で整体とあるのは、野口整体のことですが、【いのち】と読み換えて読んでいただいてもよいかもしれませんウインク

 

 

 

 

******以下、転載です****************

 

 

 

 

いわゆる無意識に起こっている運動を、体全体でせいせいやらせてあげようというのが、活元運動なんです。

 

無意識の運動、つまり、欠伸とか、まばたきとか、寝相とか、内臓の動きとか、そういうやつ。

自分で意識はしてないのに、勝手にやってくれている分野の運動。

そういう健やかさを保つためのことというのは、ひとりでにやっていることなんです。

 

 

 

 

教えられてやるのではないし、考えてやるのでもない。

 

それを頭でやろうと思うから不安になるけれども、体はとうに知っているし、とっととやっているんです。

だから余分なことに頭を使わないで、自然に従っていけばいい。

意識で考えてそうしているのではない。

 

活元運動は、常にそこに還るものです。

 

 

 

 

人は、裡(うち)の要求、【いのち】自身の要求によって生活し、行動しています。

【オレ】という自意識が意識してやっていることなんて、ホントにちっぽけなものです。

その【いのち】自身の要求は、全て運動系の働きで果たしています。

 

出力先は、運動系しかないからです。

だから人間の体の中の要求を、ドンドン運動系に出していくべき。

 

要求が素直に現れるようになれば、自然に健やかなんです。

頭で細工するよりも、体に任す方がよっぽど的確。

 

 

 

 

 

それでさてさて、

実を言うと、僕は整体に出会うまで「何故死んではいけないのか」とずっとずっと想い続けてました。

 

「殺しちゃいけない」「死んじゃいけない」とよく言いますが、何故なのか全然腑に落ちなかったんです。

ありきたりの説得ではなるほどなんて思えなかったし、そういう意味では、誰の説明も僕の納得のいくものではありませんでした。

だから最近の若い子に「どうして殺しちゃいけないの?」って逆に訊かれでもしたら、とても困ったことになるなといつも想っていたものです。

 

 

 

 

 

それを僕に教えてくれたのが、なんとこの活元運動だったんです。

初めて活元運動が出た頃、僕の場合は、最初はあまり大きな運動が出なかったんですが、まるでパンクスのようにヘッドバンキングを繰り返し、やる度にものすごく気持ちが悪くなって活元運動をするのがイヤでした。

確かにパンク・ロックは大好きでよく聴いてはいましたが、よっぽど首が硬かったんでしょうね。

 

それがだんだんほぐれてきたのでしょう、あるきっかけでものすごく大きな運動が出た夜がありました。

止めようったって止まらない、体に力を入れていると一応止まるけど、ふと気を抜くとガラガラと動き出しちゃう。

止まらなくて止まらなくてどうにも困った夜がありました。

 

 

 

 

 

そうやってグァラグァラと動かされているときに、

「どう考えてもこれはオレが動こうと思って動いているわけじゃない。

 

だけどオレは動いている。オレじゃないオレが動いている」


と、何だかそれがすごく可笑しくて、こみ上げてくる笑いも抑えられずに、ゲラゲラ笑いながらグァラグァラと動いてました。

 

深夜に独りでやっていたからよかったようなものの、端から見たら随分異様な光景だったろうと、今となっては思います。

「あぁ、オレはオレじゃないところで生きているんだなぁ」

 

と、妙にそのとき腑に落ちたんですね。

 

 

 

 

 

 

オレがオレがと思っていたその【オレ】は、アタマであり自意識であり、だけどそんなことはお構いなしに【いのち】はグァラグァラと生きている。

今想えばバカバカしいくらいに当たり前のことなんですが、何かホントに目から鱗が落ちたみたいでした。

まぁ、つまるところは「鈍感でしたね」というだけのことなんですが、僕にとっては活元運動は決定的でした。

 

 

 

 

 

【オレ】ではなく【いのち】が生きている、ただそれだけ。

 

その【いのち】が死ぬまで生きる。

【いのち】が生きようとする以上、【オレ】はそれを妨げてはいけない。
 

それがその【いのち】への礼というものです。

だからそれを殺してはいけない、自分のだろうと他人のだろうと。


それだけのことでした。

 

 

 

 

 

それならば逆に、その【いのち】が生きたいように生きるのが、我が【いのち】への礼というものです。

【いのち】の活元運動を生きる、それだけが生きることであり、死ぬことなんだなぁと想っています。

 

 

 

 

そうであるなら、我が【いのち】の声、裡なる要求にジッと耳を澄ますしかない。

 

フッと【きく】しかない。

 

フッときくというか感じるというか、という次に動いている、フッと感じたと思ったらフッと動いていた、何てことはない、生きること自体がそもそも活元運動なんですね。

 

 

 

 

 

ホントはわざわざするまでもないことなのかもしれない。

とはいうものの、それを教えてくれたのは活元運動なのだから、それはホントにありがたいことです。

 

 

【オレ】などいない、【いのち】の問題。

 

 

 

整体への学びが多少深まってくると、「何故死んではいけないのか」なんていう若い頃の憂鬱も、
 

「明日の朝、目が開かなかったらいいのに」なんていうセンチな気分も、
 

僕の場合は、結局は、腕の使い過ぎや筋肉疲労の蓄積による

 

胸椎三番・四番、頸椎三番・四番の硬直からくるものだ、ということが分かってきたりも、します。

 

 

 

 

そうすると、人生には元々さほど深刻なことなどないんだなということが実感されて、ホントにバカバカしくなってもきます。

と同時に、多少敏感になってくると、そんなことにクヨクヨメソメソしている暇もないほどに、世界は未知なる驚きで溢れ返っていることも実感されて、次から次へとビックリしているうちに一生が終わってしまうんだろうなぁ、と感じたりしています。

 

 

 

 

 

整体の世界では、愉氣も整体指導も、また稽古のときも、常に礼に始まり礼に終わります。



でも、それは言うまでもなく、【あなた】への礼ではない。
 

あなたという【いのち】への礼だ。

 

そういうことを踏まえるならば、まず何よりも自分の【いのち】への礼を尽くすべきなのだ、と思います。
 

 

 

 

 

 

 

 

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