外気施術

人間生きていると、好む好まないに関係なく色々な事が起こる。
昨年4月、5月に体調を崩した。
まさか、自分がと思ったが、体調が悪くなったのは事実だ。
体調が崩れたのには原因があり、原因事体、自分でも分かっている。
しかし、分かっていても逃げられない、避けられない、一般的にそれをストレスと言う。

もともと、健康な人ではあったので、外気には興味があったが、健康体で面白半分で施術を受けるのも申し訳ないと思い、控えていた。

しかし、望まない形で、外気施術を受けても良いのではないかという状態になってしまった。

かなり体調は良くなっているが、やはり正直、辛い。

気功療法などは、地元の田舎でもネット検索すれば相当数ヒットするが、気功に関わっていると、こういった外気療法などは信頼できる方からしか受けたくない。

結局、自分の中で 信頼できる気功師=朱剛先生 となるので、本日お世話になることにした。

朱剛先生の外気施術に関しては、集中コースに出席している事もあり、他の生徒さんから、色々と話しを聞いている。

さて、自分にとってどのような反応があるだろう、楽しみでもあり、多少の怖さもある。

簡単に症状を伝え、早速、外気を受ける。
ストレス性の症状なので頭が中心になる。
眉間あたりに熱気を感じる、緩やかに脳みそに圧力がかかる感じがあり、海馬あたりに圧感を顕著に感じる。
あー心地よい。


ゆる~く 脳みそ をマッサージされているよな感覚があり、頭全体に温かい、静電気のようなモワッとした感覚もある。


自分は消化器もあまりよくないのか胃に手を当てられる。
胃事体は温かいが、周辺部には冷っとする感覚もあったりして、全身から冷汗が吹き出す感覚があり、全身の毛穴という毛穴が痺れているような感じがする。


ただ、全体をとおして心地よい。

感覚としては、質の良い瞑想のようでもあり、熟睡して起きた後、温泉にユラユラ浮いているような感覚である。


このルーチンを数回繰り返した。
心地よさをじっくり感じるので他ごとは、ほぼ思い浮かばない。
 

贅沢な時間である。


施術は50分であるが、あっという間に時間が過ぎ去る。
は〜い、終了です。


施術後に、今後の自分で出来る功法について、アドバイスをいただく。

施術後は、モワッとしたような、スッキリした感覚がある。
若い頃に15時間ぐらい寝た後は、こんな感じであった。
やはり、若い頃の回復力は半端なかったんだなと思う。

 

施術はこれで終了だが、その効果は時間を経て変わっていく。

 

新幹線の中では、温泉から上がったようなホッとした感覚があり、身体も楽なので コモディーイイダ で買ったおはぎを食べながらこのブログを書いている。

その後、地元の駅に到着し、月末期限の振込に行くが、身体が驚くほどスッキリして、軽い、スキップしたいぐらいである。

 

正直、外気の施術が終われば、そこから効果は落ちていくのだろうと思っていたが、時間が経つに連れ、尻上がりに調子は良くなっていく。

 

慌てて今、記事を追加している。

振込した時よりも調子は良くなっている。

ひょっとするとこれからまだ調子は良くなるのかもしれない。

 

だから、また追記するかもしれません。


今回、体調を崩した事もあり、外気を受けたが、健康体でも受ける価値はあるのではないかと思った。

興味のある方は是非どうぞ!

第一夜、第二夜では身体と心について語りました。

 

第三夜は、遊び編です。

 

遊び編?と思われる方も多いのではないでしょうか。

 

気功が遊び?

もうちょっと、真面目な内容にしてくれよ!

 

しかし、私は、大真面目です。

 

遊びと言う表現を使わないとすれば、楽しい、面白い、が当てはまるかなと思います。

 

気功は、心身共に整えていく文化です。

気功は短期間でも効果がでます。

しかし、長く続けて行うことにより、効果が継続的に得られ、本当の意味での恩恵にあやかれます。

 

大切なのはコツコツ続けることなのです。

 

よく聞く決意表明があります。

 

明日からは運動するぞ! 等と言う言葉は本当によく聞きます。

しかし、続けられる人はほぼいません。

残念ながら、これが現実です。

 

何故でしょうか。

それは楽しくない、面白くないからではないでしょうか?。

 

そうなのです、人は楽しく、面白ければ続けますが、そうでないものは、やがて飽きて止めてしまいます。

 

子供等はヤメロと言ってもゲームをやりますし、隠してあるプラレールを探し出し遊びます。

 

人は楽しい事、面白いことはヤメロと言われても、そうそう簡単にはやめないのです。

 

自分にも当てはまります。

中学生の頃でしたが、勉強が大嫌いな私は、アニメを見るのが好きで、絶対にドラえもんは見ていました。

三者懇談の時、母親にドラえもんの事を暴露され 先生からも勉強するように強く言って下さい と言われ大恥をかいた事があります。

そんな事を言うとお前らギッタギタだぞ〜(ジャイアン風)と心の中では叫んでいました。

 

この、アニメ好きと言うのは、多くの人にも共感が得られやすいのではないかと思います。

 

しかし、そうでないものもあります。

 

一般的に辛いと言われる事であっても、本人はそうでは無いと言う事があります。

 

一時期、どっぷりとシーバス釣(スズキ)にハマった事があります。

最初の頃は人からも 釣りバカ 等と言われていましたが、釣に対する情熱が 釣りバカレベルでは無くなり 釣りバカ →  バカ釣り師(意訳:バカな釣り師)と呼ばれるようになります。

 

仕事は生活の為で、釣りの為に生きているような状態でした。

 

仕事が終わったら、夜釣りに行かなければならないので、残業などはあってはならないのです。

 

仕事は定時までに、絶対に終わらせなければなりませんでした。

 

当時、仕事の取り組み方には、鬼気迫るものがあったと思います。

仕事が終わり速攻で家に帰り、夕ご飯を食べ、釣り場に向かい 00:30 ぐらいまで釣りをし て2:00 に帰って寝る。

 

釣りスタイルは中々厳しいストロングスタイルで、時には雪が舞い、土砂降り、強風、状況により釣り用のゴム長靴を履き、胸まで水中に入っていました。

冬ですので水温は低く、身体は凍えます。

しかし、あまりの集中力に体が凍えている事にも気が付かず、もう少しで低体温症になりかけ、やばい事になった事もあります。

 

そんな異常な生活を送っていました。

人からは頭がおかしいと言われていましたが、自分でもおかしいと思っていました。

 

この生活を止めようと思い、寝床に入っても、このルアーを買おうとか、あの場所なら釣れるかもしれないとワクワク感が止まりません。

煩悩、雑念が浮かび、目がギンギンになってしまい寝れないのです。

 

どっちみち寝れないので、寝床を抜け出し夜釣りに行き、疲れ果て帰って寝る。

そんなルーチンが相当期間続きました。

 

こんな事、人からすれば千日回峰行か?。

金貰っても嫌だわと言われていましたが、本人は楽しくて、楽しくてしょうがないのです。

止められるはずがありません。

 

楽しいと言うのは、何にも勝ると思います。

 

私は武術も嗜みますが、この時代そんな技術を使う必要もなく、生活に必要か?と言われれば 全く以てごもっともでございます としか言えません。

 

しかし、武術は先人が命を懸けて伝えて来た文化が、凝縮されています。

 

乱暴とか危険とか、それははるかに凌駕する魅力があります。

ですから、何年取り組んで上手くなっても、まだ、まだ先があります。

 

雲、山、雲そして山、そんな言葉が武術界にはあります。

 

雲を抜け山の頂上が見え、頂上にたどり着くと実はそこは頂上ではなく、雲がかかった山がまだ先に連なっている。

 

武術は少し上手くなると、その先の課題にぶち当たり、そこを越えると、また課題にぶち当たります。

 

人によってこの状態をどう思うかは?ですが、私などは新しい課題にぶち当たるたび、まだ楽しませてくれるのかと、楽しくてしょうがありません。

 

前出で書いたシーバス釣りは、頭が狂ったように通い、腕前が上がってしまい、行けばほぼ釣れるような状態になってしまいました。

釣れるのが分かっている釣りなんて、楽しくもなんともありません。

 

結局私の目標は達成されしまい、色々考えて、工夫して、と言う必要がなくなり、あれほどワクワクしていた気持ちが無くなってしまい、今では殆ど行くことは無くなってしまいました。

人間、目標が達成されると腑抜けになるものです。

 

さー前振りが長かったですが、気功の話です。

 

私は気功には興味があったものの、ここまで深く入り込むとは思ってもみませんでした。

気功はただの、健康体操だと思っていました。

 

確かに、健康に関する文化であることは間違いありません。

 

しかし、そんな簡単な物でもありません。

これは断言させてもらいます。

 

個人的な感覚では、身体と心の文化、極論すれば人とは何ぞや、と言うところまで踏む込めると思っています。

 

最新の科学であっても解明されない物が、気功にはあると思います。

それが楽しいな~と思います。

 

理論が分からなくても、頭で理解できなくても、現象と言う形で気功は体験させてくれます。

そんな現象に出会うと、既成概念が壊れ、本当の意味での自分らしさに出会えます。

 

そんな体験が楽しくてしょうがありません。

 

そんな体験をして満足していると、まだまだ先があることが分かってしまいます。

 

もーどれだけ楽しませてくれるんだ と思います。

 

気功に取り組んで、誰もがこんな気持ちになるかは、正直?です。

 

しかし、そんな気持ちになる可能性はあると思いますし、深い経験をすれば多くの人が、気功の楽しさに引き込まれるのではないかと思います。

 

しかし、地道な練習が必要であることも、間違いありません。

 

あっちで穴を掘り、こっちで穴を掘り、それではモグラにも劣ります。

 

同じ穴をコツコツ掘り進む事でしか、たどり着けない事も事実です。

 

気功は真剣に遊んでよい文化だと思います。

 

そして 楽しい と言う気持ちになれば、続けることができます。

 

穴さえ掘り続ければ、必ずたどり着きます。

 

二夜目は禅密気功の核心部であり真骨頂。

 

心についてです。

 

この心と言う表現は、非常に曖昧な表現です。

正体不明な感じがあり、誰でも、なんとなく説明が出来ますが、誤魔かし表現が出来てしまうものでもあるなと思います。

 

私は武術を嗜みますが、このの界隈の人はやたらと心と言う言葉を使います。

しかし、瞑想を始めると、そう簡単にやたらと使ってよい言葉ではないなと、個人的に思うようになりました。

 

要は心に対して、納得出来る説明を聞いた事がほぼないと言うことです。

 

禅密気功で、心に絡む部分は瞑想です。

 

禅密気功の瞑想は3つの種類(4種類)あります。

各々の瞑想で、心との関係性は基本的に異なりますが、完全に分離している訳でもなく、各々が緩やかに結合、重なりあっています。

 

当初、瞑想と聞き胡散臭を感じました。

そう思う人は、世の中には多くいると思います。

 

そして、人によっては、ほぼ、胡散臭さで構成されていると言ってもよい教え方をしている人もいます。

そういった類いの人たちは、アンドロメダ大星雲の彼方で勝手に語っていただくとして、我々は練習と効果の部分を、真摯に見つめて瞑想に取り組んでいくべきだと思います。

 

何故こんなに自分が、瞑想にハマってしまったかを説明しなければなりません。

 

私は武術を嗜む事もあり、人に比べ身体や脳に関する事への興味が、人より旺盛であると思います。

 

よって、素人の横好きですが、科学番組等を相当好んで見る達の人間です。

少し前までは分からなかった、麻酔がどうして効くのかとか、臓器に対して脳からだけの信号だけでは無く、臓器間の伝達物質のやり取りだけでも働く司令系統があったり、そもそも、手の動きなどは、脳を介さず動く司令系があるなど、知らない人が聞くと、驚くような機能が身体にはあります。

 

脳なども機能ごとに担当する領域が、確実に決まっていたり、天才脳と言った現象も徐々に解明され、脳に対して直接外部から電気信号を送り、制御しようとする実験も結構前から行われていたりします。

そもそも、簡単な部分では、脳細胞を人工的に作ることにも成功しています。(倫理的な問題はありますが)

 

昨今の科学の進歩には、物凄いものがあります。

今後も量子コンピュータ等が、実用レベルになればとんでもなく色んな事が解析され、さらなる進歩に繋がるでしょう。

 

しかし、自分には疑問があります。

科学はどんどん深掘りして細分化していき、細分化したものを、さらに細分化して、結局、全体像としての脳の解明に辿りつけるのか?非常に疑問です。

 

そして、これも凄いとは思いますが、禅や、瞑想が辿りついた境地に対しては、現代の科学を持ってしても、全く追いついておらず、大部分が解明されてはいないと思われることです。

 

マインドフルネス等は、科学、医学に基づいていて、分かり易いと言う意味では、大変ブームになりました。

 

しかし、歴史ある瞑想文化に比べると深みが足りず、物足りなさを、個人的には感じています。

 

優れた瞑想文化は、まだまだ、最先端科学のずーっと先を行っていると思います。

 

しかし、最先端の科学者や、医者の凄いと思うところは、瞑想や宗教文化を否定せず、元となった文化に切り込んで研究を行うところです。

 

科学とか宗教とかに関係なく、現象としてあるならば、宗教からも学び、それを科学で解明していこうとする人達がいます。

 

倫理的に間違いを起こさず、このまま研究が進めば、瞑想文化が持つ恩恵が誰にも得られる日が来るかもしれません。

 

それが、いつになるかは分かりません。

だから、待ってはいられないのです。

ただ一つ言えるのは、正しく、たくさん、コツコツ練習することで自分の心(脳)の働きは変えていけることです。

 

そして、この変えていく行為は、とてつもなく楽しいと言うことです。

 

優れた瞑想文化を保持している団体は、少ないかもしれませんが、良い団体の瞑想であれば、現代のストレスにも、かなり対応できるだけの技術と智慧を確実に持っています。

 

瞑想などは、シッカリと習えば自宅でもできます。

 

身体も大切ですが、心もとても大切です。

 

瞑想が進むと、心が嬉しくなるような感覚がでます。

 

瞑想の嬉しさは、高価な物を買うとか、満漢全席の料理を食べるとか、世界一周クルーズ旅行に行くとか、これでもかとお金を必要とはしません。

 

ふっと微笑むように瞑想すると、不思議とほっこりと、穏やかになり、そして嬉しくなります。

 

以上

 

新春スペシャル、本日から三夜連続で、お送りします。(誰も期待などしとらんと思うが・・・)

 

本日は身体編です。

 

気功と名の付く物は、世に多くあります。

禅密気功も、その一つです。

 

私は多くの気功を嗜んだ理由ではありませんので、断言は出来ませんが、禅密気功は特徴的だと思います。

 

他の気功が比較的、静的姿勢(小さな動き)の形に拘っているのに対して、禅密気功は静的姿勢に拘りません。

 

何故か、それは禅密気功の動功は、ほぼ、動きっぱなしだからです。

しかし動きの中にも、重心位置、軸線、リラックスは原則として貫かれています。

 

そして、禅密気功最大の特徴、動功が背骨を中心とした、動きで構成されている事です。

人の運動の全てに、ほぼ関わっている背骨を、これでもかと動かします。

意識上、背骨と言う言葉を使っていますが、個人的には、中枢神経に働きかけていると言っても良いと思います。

中枢神経は、脳とも繋がっていますし、当然、末梢神経とも繋がっています。

 

ある意味、心も身体を含めた、全体の要と言っても良いでしょう。

 

ツボの様に、局所から攻めると言った概念では無く、本丸を直接攻められる距離感、だが、末端も同時に抑えると言う欲張り、贅沢仕様となっています。

そして、背骨という誰もが意識しやすい部位を、ターゲットに選んだのは、必然か、偶然かは別として英断だったと思います。

 

そして、これもすごいことだと思いますが、築基功に関しては運動の種類が、わずか3種類で、これも最終的には要約され、1種類になります。

 

これは極端な言い方をすれば、覚える行為が、殆ど要らないと言うことです。

太極拳の様に、108式とか型が有りませんので、頭を使って運動をしません。(太極拳も慣れれば最後は自動的に身体は動きますが)

 

築基功は、テレビを見ながらでも、鼻歌を歌いながらでも、オシッコをしながらでも(ある意味、悲惨な事にはなりますが)禅密気功の基本は行えてしまいます。

 

本来は、意念を使いシッカリと行うのが基本ですが、禅密の築基功は、何も考えなくても、運動量が確保出来てしまうので、嫌でも全身や神経系が、整ってしまうと感じています。

 

これは、理論的な部分もありますが、自分が経験上感じていることです。

 

唯一の難点は、単純すぎて、退屈に感じてしまう事かなと思います。

 

しかし、築基功が習慣化されれば、建康への恩恵は計り知れないと思います。

 

本日は、元旦です。

 

美味しい料理も並んでいるでしょう、お酒もあるでしょう。

そんなこんなで、年末からのダラダラ感で、身体が鈍っている方もいるでしょう。

 

一年の計は元旦にあり。

 

続けて身体を動かす習慣は、今後、何事にも代え難い宝になります。

 

さー自分の為にも、家族の為にも、社会の為にも運動してみませんか?

 

 

今年は2月の気の瞑想、10月の吐納、12月の陰陽合気に参加した。
 

例年に比べ短期集中講座の出席率は非常に悪かった。


今年は4月に転勤したことも有り、勤務が大きく変わってしまい、日常の練習も変わってしまった。
4月から10月ぐらいは動功、静功共に時間が取れずに練習できなかった。


通勤時間が2時間ほど長くなってしまい、気功に時間を割けなくなってしまう。


それではイケないと思い、最短の乗継を見つけ、朝方の30分をなんとかひねり出し、築基功だけは11月から行うようになった。


正直、長らく築基を続けていると、身体への変化はほぼ無くなるが、やめたときに築基の恩恵が嫌と言うほどよく分かるので、最低限、築基だけでも元に戻したいと思っていたので、これだけはなんとかなった。
 

しかし、瞑想に関しては上手く時間が確保できていない。
電車に乗っている時間や、フッとした時間には行っているが、自分のレベルだとやはり、条件が整った場所で、しっかりと時間を確保するべきだと気づきもあった。
 

今年は転勤により、相当の業務量を抱え込み、体調も崩した。
それは今も続いており、辛い部分もあるが、それによる、気づきもあった。
 

病気になると病気の人の気持が本当によく分かる。(当然だけど)
これは普通に考えれば、病気の人にしかわからないが、どんな病気かは別にして、病気と言う物は、精神的な意味では驚くほど共通する状態にある。
 

しかし、病気をとおし、ある意味、優しくはなったのではないかと思う。


まー今の状態は、なんとかしていかなければイケないが、自分にできる事は、瞑想によって意識的な部分を変えていかなければイケないと思っている。
 

病気というものは、良いか、悪いか、と言えば、決して良い部類の現象では無いが、思わぬ気付きがあり、マイナスの部分だではないし、病気になると言う事が、自分の偏りを如実に示している。

今年に対して点数を付けてしまうと、相当低い点数になるが、瞑想と言うものは本来、点数をつけるような物ではない。
まーこんな年もあるなと思います。
しかし、来年はこの状態から抜けていきたいと思っています。

今年も朱剛先生、気功の仲間にはお世話になりました。
誠にありがとうございました。

ブログを御覧になられている皆様も、良いお年をお過ごしください。