ささら獅子舞☆3 ありがとう三崎 | ゆうゆうねこの感想ブログ

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ふ~。

 

何から書いたらいいのか分かりませんが…。

 

今日、私は反省しながらも気になって密厳院(上尾市)から養竹院(川島町)まで行ってみることにしました。

 

こう書くと、すごい移動のようですが車で15分くらいあれば到着します。

 

岩槻太田家が大名として残っていれば、養竹院は菩提寺として栄えていたのでしょうが「道灌陣屋跡」という石碑がむなしくたっているだけです。

 

不勉強なせいで、いまだにどこに資家資頼さまがいるのかも自分には分かりません。

 

けれども心で「太田家と獅子舞の関係を教えてください」とかをお願いしてみましたが、頭が痛くなり、早々に立ちさりました。

 

しかし、帰る途中

(そうだ、畔吉の徳星寺の木を見て帰ろう)

と思い、寄り道することにしました。

その木は、県の天然記念物の大かやで、私が好きな木です。

 

(そういえば、その大かやも弘法大師のお手植えという伝承があったな。そんなはずないのに。伝承なんてそんなものなのかもしれない)

とか思っていると、迷ってしまい、知らない道に出てしまいました。

 

気が付くと、そこは、松原八幡宮という場所でまた「ささら獅子舞」の掲示が出ていました。

そして、その隣に松原八幡宮のものすごくレアな縁起が書いてあったのです。

 

3人の武士が鎌倉から八幡像を守ってこの地に落ちのびたのだそうです。その名は三崎。〇〇崎、✕✕崎、△△崎の三人なので三崎です。その三人が背負って来た像がまつられているのが「松原八幡宮」だというのです。そこの獅子舞は、桶川のほかの地域とは違って上尾の藤波の物と似ているというのです。

 

その三崎の名前を見たときに、「ああ、もしかしたらここに来るためだったのかな」と少し思ったのです。その中には母の旧姓もありました。

 

かやの木にも行きましたが、畔吉の獅子舞の場所から松原八幡宮は本当に近かったです。藤波からもです。

 

石戸領に土着した三崎の一族は、石戸を領していた岩槻太田家に従っていたのでしょうか。それとも抵抗していたのでしょうか。片野の三楽さまにはついていかなかったのでしょうが、本当はついて行きたかったのでしょうか。

 

分かったような、分からないような…。そんな感じです。