批判されないという自由ではない。
ということ。
批判されないという自由ではない。
ということ。
ラスボスはあいつだったのかと。
何から書いたらいいのかわからない。
飛行機に例えると、
研究活動は戦闘機、教育活動は旅客機と考えられないだろうか。
それぞれ役割が異なるもので、優劣をつけるものではない。
旅客機はできるだけ多くの人を載せて、安全に目的地まで進んでいく使命を持っている。
だからこそ、高校まで「学習指導要領」があり、それに沿って進んでいく。
これは、もとはと言えば、コメニウスの大教授学から始まっていて、
それまでは、知識は限られた一部の人しか持てなかったのである。
一般の人は字も書けなかった。
多くの人を安全に目的地まで送るということ、
だからこそ聖業と言われるのに違いない。
それは、自分も大学を中退しているから。
違うでしょうか。
有名大学に入学はしているけれど、卒業はしていないから。
就職したら、給料は高卒と同じです。
しかし、なぜか日本では大学の課程履修よりも、受験偏差値でその大学を判定しがち。
何を書いているか分からないと思いますが、
「すごい掘削機にAIが搭載された」
という感じでしょうか。
ちょっと怖くて手が出せなかったのです…。
一生懸命話したのですが
やはり、すごく酔っていたので、
バカみたいだったかもしれません。
「知的財産」というほどではないのかもしれないけれど、
それを知るために時間やお金を費やしていることも多いのですが、
苦労している方を見ると
「こうすれば楽なのでは」
とアドバイスしてしまうことも多いです。
しかし、それは余計なことだったのでは。
肝に銘じようと思いました。
人間だから言葉があるでしょう、
という人がいますが、
言葉を獲得しないままの人間もいるのです。
ではそういう人に研究はないのか
というとそんなことはないと思います。
一例をあげます。
Nさんは生まれながらの病気があり、
言葉はありませんでした。
話すことも書くこともできなかったのです。
Nさんは普段病院で生活していたのですが、
たくさんの音を聞き分けていて
お母さんの車の音だけ分かったのだそうです。
お母さんの車が来ると、
まだお母さんが病室に来る前にそれが分かって、
とても歓喜していたのです。
それも研究といえないでしょうか。
どんな人、どんな生活の中にも研究はあるということ。
小学校の特別支援教育では、
それぞれの特性があり、カリキュラムは柔軟です。
それなので、「そんな教育(あるいは教員)は無駄」と思われがちのようです。
さすがに、口に出して言う人は少なくなりましたが。
けれどもそんな子でも、それぞれ勉強というものは大変です。
掛け算ができないから、その子の勉強は楽なのかというとそうではなく、
わからなければ、やはり悔しくて泣いたりしているのです。
けれども、分からないことが分かったときはやはり笑顔です。
そしてわかるようになりたいのです。
受験勉強や研究者の仕事なども当然大切だと思います。
が、実はいまの日本でも世の中の半分の人しか大学に行くことはないといいます。
行きたくても行かれなかった人が多いのではないでしょうか。
能力や教育の機会に恵まれなかった人でも自分のルーツだったり、いろいろなことを研究していいと思うのですが、どうでしょうか。
最近、優性思想のようなものに触れたので、書いてみました。
(少し誤解を生む表現でしたので書き直しました)