第4章 第20節の続き1 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む

    シュンガ朝の建国者のプシャミトラは、息子がアグニミトラと言い、孫はヴァスミトラと言った。プシャミトラの一族は、ある時期までミトラが終わりにつくことがここから分かるであろう。(B)の線を追求する為に、もし仮にプシャミトラやアグニミトラと同族のブリハスパティミトラがマガダ国の王であったと仮定しよう。そしてここに補助線として、後代の作品であるが、カーリダーサの戯曲『マーラヴィカー公女とアグニミトラ王』を利用してみよう。この戯曲において、セーナパティであるプシャミトラの息子である王のアグニミトラは、ヴィンディヤー山脈以南の今のナーグプル近辺のヴァイダルバ国の抑えとして、ヴィディシャーに宮廷を置き、そこが戯曲の舞台となる。父親のセーナパティ・プシャミトラは、孫のヴァスミトラにアシュヴァメーダの馬の保護を任せ、その馬を襲撃したギリシア人と大戦闘になったことが劇中で語られている。この補助線を用いるとシュンガ朝の建国時、北西にバクトリア王国のギリシア人勢力がいて、さらに南にはヴィダルバ国が不穏な動きを見せていた。さらに碑文が語るように東南にはマハーメーガヴァーハナ朝のカーラヴェーラ王が虎視眈々と中央インドを狙っていて、事実、マガダ国進攻があったわけであるから、シュンガ朝は、当時少なくとも三方面に備える必要があり、三方面作戦を取らざるを得ない状況にあったことが、ここから推論できる。


(左バクトリア王国のサーカーラ、中央ヴィディシャー、右パータリプトラを示す)

    つまりバクトリアのギリシア人に備える北西方面軍、ヴァイダルバ国に備える南方方面軍、そして首都防衛と東南のマハーメーガヴァーハナ朝に備える東南方面軍の三つである。カーリダーサの戯曲において、北西方面軍は、セーナパティであるプシャミトラと孫のヴァスミトラが担い、南方方面軍はヴィディシャーに拠点を置くアグニミトラ王が担っていた。しかし、首都である東南方面軍については戯曲は何も語っていない。しかし当然のことながら、パータリプトラの守りを固め、東南のカーラヴェーラ王の動きに備える軍の司令官が必要であったのは言うまでもないことだろう。そしてパータリプトラの守護を任せる以上、プシャミトラの信頼する近親者に任せるというのは、当然の結論と考えられる。さらにハーティーグムパー碑文に、11行目に注目すべき記述がある。それは在位12年目のカーラヴェーラのマガダ国進攻の際に、「北道の諸王(utaraapadha raajaano)を恐怖に陥れた」という記述がある。ギリシア人のパータリプトラ進攻から四年後に北道(北インド)には複数の王がいたということが述べられているのである。シュンガ朝の統治形態は、実質的な皇帝であるがセーナパティ(将軍)を名乗るプシャミトラが軍隊の最高司令官の地位にあり、その配下の王としてアグニミトラがいた。こうした統治形態を鑑みれば、マガダ国の王であったブリハスパティミトラは、ヴィディシャーに宮廷を置く、アグニミトラと同格の地位にあったウッタラパタ(北道)の諸王の一人であったと想定される。つまりハーティーグムパー碑文の語るマガダ国の王は、ウッタラパタ(北道)の諸王の一人であるのだから、これは限りなく(B)の可能性の線を証するものであると考えられる。かくて(B)の説を真と仮定することにより、カーラヴェーラ王の在位8年目から在位12年目までのギリシア人への牽制からマガダ国進攻までの空白の4年間に対する解釈が可能となる。筆者の推論ではこうだ。ギリシア人王デーメートリオスによるパータリプトラ進撃は、マウリヤ朝の末期に起こったのであり、カーラーヴェーラは、マウリヤ朝の救援要請を受けて、援軍としてラージャグリハに進駐したのであると考えられる。デーメートリオスは、何らかの理由で退却し、その退却をカーラヴェーラは、碑文において自分の功績としたわけである。しかし、そこでカーラヴェーラがそのままパータリプトラに進攻できたにも関わらずしていないのは、当時のマウリヤ朝とは友好関係にあったからであり、援軍要請の目的は達した為に、略奪をしないで、そのまま自国に引き返したと推論できる。しかし四年の空白の間にマガダ国とマハーメーガヴァーハナ朝との関係が変化した結果、堂々と侵略作戦が取れるようになる。この4年の間にこそ、プシャミトラがクーデターに成功し、王権を奪取し、マウリヤ朝が滅び、シュンガ朝が成立したと考えられる。マウリヤ朝が滅んで、友好関係が無効となったので、四年の空白を経て、カーラヴェーラ王は、マガダ国とアンガ国に気兼ねなく侵攻することができるようになったのであろう。恐らくプシャミトラ率いるシュンガ朝の主力軍は北西のギリシア人との戦線に向かっていて、その留守を守るブリハスパティミトラがカーラヴェーラの軍隊に敗北し、マガダ国とアンガ国は略奪を受け、カーラヴェーラは、過去にナンダ朝の王がカリンガ国から奪ったジャイナの宝を取り返したのであった。これが筆者がハーティーグムパー碑文から読み取りうる限りの当時のシナリオである。まとめると、
 
①ギリシア人のパータリプトラ進攻は、マウリヤ朝最末期に起こった。その時にカーラヴェーラ王もギリシア人牽制の為に軍を派遣していた。
②ギリシア人進攻から四年の間にプシャミトラがクーデターに成功し、マウリヤ朝を滅ぼして、セーナパティの称号の下でシュンガ朝を興した。
③シュンガ朝初期にプシャミトラの留守を狙って、カーラヴェーラがマガダ国とアンガ国を略奪した。その時のセーナパティ・プシャミトラの下でマガダ国の守護を任されていた王がブリハスパティミトラであった。
     かくて四年の間にパータリプトラは、国外の敵から二度侵略されたということになる。こうした、上記の推論が正しいとするならば、最初に判断保留していたハーティーグムパー碑文のサータカムニは、シャータカルニー1世ではなくマウリヤ朝末期、紀元前2世紀にアーンドラ地方に割拠していた、サータヴァーハナ朝初代のシムカ以前の祖先であると、ホームズの「不可能なものを除去して、残ったものは何であれ、それが如何にありそうもないものであっても、それは真実に違いないのだ」という言葉と共に、結論づけられるわけである。かくて部外者の筆者によってハーティーグムパー碑文の紛糾した解釈の謎は、ここ極東の知られざるブログにおいておおかた片付けられた。しかしこれはあくまでデーメートリオスを年代基準にした解釈であって、これが崩れれば瓦解するものである。



【プシャミトラの破仏はあったのか?】
 
 
 プシャミトラが我が国で言及される際に必ずと言っていいほど、彼が行ったとされる破仏とセットで語られることが殆どである。ここまで我々は、仏教側の資料を用いることなく、碑文とプラーナ文献のみで彼の姿を描いてきた。そこに浮かび上がるプシャミトラ像は、ギリシアのパータリプトラ進攻の混乱の中で頭角を現し、マウリヤ朝最後の王ブリハドラタを殺して、クーデターに成功し、シュンガ朝を興したということ。また彼は、ヴェーダを信奉し、アシュヴァメーダを執り行い、その祭式を執り行った僧の一人が、文法学者のパタンジャリであったということだ。彼は名よりも実を取るタイプの人間で、終生、セーナパティ(将軍)を名乗るのみであった。         



    他方で仏教側の伝承は、マトゥラーの有部と大衆部などの伝承に基づいていて、プシャミトラ(弗沙蜜多羅)は、マウリヤ朝最後の王であり、彼の死を以て、マウリヤ朝の王家である孔雀大姓が滅んだとされる。彼は祖先のアショーカ王と名声を競おうとして、逆張りで仏教僧団を破壊することで、その名を高めようとし、部下のブラーフマナの進言によって、プータリプトラの教団の拠点であったクックトラーラーマ(鷄寺)を攻撃したとされる。ここに見られるプシャミトラは、実より名を求める暗愚の典型そのものである。事実は、前述の通り、彼はマウリヤ朝の最後の王ではなく、シュンガ朝を興した名より実を取るタイプの英雄であった。彼を巡る破仏の可能性として想定されるのは、
 
①プシャミトラは、仏教の伝承通りに破仏を行った。
②破仏を行ったのは、マウリヤ朝最後の王であり、その悪名がヴェーダの信奉者であり纂奪者であるプシャミトラに帰されることになった。
③破仏などなかった。
④破仏を行った真犯人は上記三つの説とは別の誰かである。
 
    というのを挙げることができるだろう。ここで筆者の疑問としては名より実を取るタイプのプシャミトラが、ヴェーダ教の復権の為に、仏教徒を殺すようなリスクを取るのかということである。とは言え、クックトラーラーマの仏僧達は、アショーカ以来の保護の下にありマウリヤ朝の既得権益側にいたと考えられるので、マウリヤ朝側に着く仏教教団を、シュンガ朝に対して反逆的と見做し、政治的な理由で攻撃した可能性も捨てきれない。クックトラーラーマ僧院は、法顕の時代には遺跡が残るのみであったので、やはりどこかの時点で破壊されたのは確かであろうと考えられる。そこで、これまでの歴史研究から、パータリプトラが二度の侵略を受けていることも鑑みれば、他の可能性も考慮にいれるべきであるとも思われる。つまり、
 
①マウリヤ朝の最後の暗愚な王によって破壊された。
②ギリシア人のパータリプトラ進攻によって破壊された。
③プシャミトラの血生臭いクーデター劇の最中の混乱の中で破壊された。
④ギリシア人進攻の四年後のマハーメーガヴァーハナ朝のカーラヴェーラの進攻によって破壊された。
⑤プシャミトラによって政治的な理由で破壊された。
 
 これらについて結論は出せない。しかしクックトラーラーマ僧院が破壊されたのだけは事実であろう。筆者は、マウリヤ朝の最後の王がその暗愚さによって、自己の無能さを転化したオディップス・コンプレックス的な父祖への憎しみから僧院を敵視し、襲撃させ、その罪が、後の仏教徒達によって、マウリヤ帝国を滅ぼした纂奪者でヴェーダ教の復興者であるプシャミトラに汚名を着せられたのではないかと想像するのだが、これは筆者のこれまでのプシャミトラ研究による思い入れから来るとも思われるので、ここでは一つの可能性として提示するにとどめたい。知性に自信のある方は、自ら証拠を収集し結論を出して欲しいと願う次第である。
 シュンガ朝のプシャミトラ以降の王統譜は、プラーナ文献の中の、マツヤ、ヴァーユ、ブラフマーンダ、ヴィシュヌ、バーガヴァタにおいてそれぞれ言及されているが、例えばヴィシュヌ・プラーナに依れば、10代112年続いたとされる。
 

プシャミトラ(36年の治世 おおよそ前187~前150)
アグニミトラ(8年 前157~前149)
スジェーシュタ(7年 前149~前142)
ヴァスミトラ(10年 前142~前132)
アールドラカ(2年 前132~130)
プリンダカ(3年 前130~前127)
ゴーシャヴァス(3年 前127~前124)
ヴァジュラミトラ(9年 前124~前115年)
バーガヴァタ(32年 前115~前83)
デーヴァブーティ(10年 前83~前72年)
 
 マウリヤ朝が10代137年続いたとされるから、シュンガ朝も10代112年続いたということなので、マウリヤ朝にさほど継続年数においてひけを取らないということが分かる。最後に王のデーヴァブーティは、彼の祭僧であった、ヴァスデーヴァによって殺されたとされ、ヴァスデーヴァによって前73年にカーンヴァ朝が建国されたのであった。カーンヴァ朝は、短命で4代45年続いたとされる。

 
ヴァスデーヴァ(前73~)
ブーミミトラ
ナーラーヤナ
スシャルマン(~前13)
 
 
    に継承されたと言われ、最後の王スサルマンは、サータヴァーハナ朝の初代のシムカに殺さたと伝えられている。約150年に渡り。シュンガ朝→カーンヴァ朝が継続したのであるが、その歴史の証言は思いの外に少ないのである。つぎに当時の群小地域国家に目を向けよう。

 以前、我々はMMT(現代貨幣論)を研究する過程で、貨幣の起源について考察し、それが税の支払い機能の手段として、国家の捕獲装置として一挙に出現するものであるということを確認している。つまり貨幣の発行は、国家の課税の行使とセットであり、そのようにして発行された貨幣の存するところには、ある程度の独立した国家が存することを考えなくてはならない。シュンガ朝からカーンヴァ朝にかけての時代、インドには様々な貨幣を発行する地域的な群小国家が存在していた。これからの研究は、主にベーラー・ラーヒリーの『States of Northern India』(1974)に拠る。またそれを補うものとして、カリヤーナ・クマール・ダース・グプタ『A Tribal History of Ancient India』(1974)を用いる。このブログを読むぐらいならラーヒリーの、完全に名著と言うべき400頁に渡る著書を読んだ方が当時のインドの状況がよく分かるであろう。とは言え、あまりに詳細過ぎるので大乗仏教起源史の研究に必要な程度に筆者でまとめる。
 ラーヒリーは、貨幣の鋳造者の名から当時の群小国家を三つのカテゴリーに大別する。
 
 
①都市の名を印した貨幣より、自治都市国家
②統治者の名を印した貨幣より、君主国家
③部族の名やジャナパダの名を印した貨幣より、群小部族国家
 
 
 まずは①の都市の名において発行された貨幣が発見されているのは、コーシャラ国のあったアヨーディヤーやシュラーヴァスティー、ヴァーラーナスィー、カウシャンビー、ヴィディシャー、アイラナ、サンチー付近のバーギラやクララ、ウッジャイニー、トリプリー(ジャバルプル近郊の現在のテーワル)、マーヒシュマティー(現在のオンカーレーシュワルのある現マンダーター又はマヘーシュワル)。こうした諸都市が都市の名で貨幣を発行しているので、ある時期において、これらの諸都市が自治都市として機能していたことが推定される。
 ②の地域的君主国家は、カウシャンビー、アヨーディヤー、カーニヤクブジャ、マトゥラー、パンチャーラ、アルモーラー、ユガシャイラ(デーフラドゥーン付近)などに存在していた。少し詳しく見ていくと、
 
 
【カウシャンビー】
 
 カウシャンビーでは①の自治都市として発行された貨幣の、後の時代に属する君主の名を印した貨幣が発見されている。その数26人をとりあえず列挙する。
 
1 スデーヴァ
2 ブリハスパティミトラ (この二人は前2世紀頃)
3 ヴァヴァゴーシャ
4 プラウシュタミトラ
5 ジェーシュタミトラ
6 ジェーシュタブーティ
7 アグニミトラ
8 ブリハスパティミトラⅡ (ここまでが前1世紀前半)
9 アガラージャ 
10 ラーマミトラ
11 ウーダーカ
12 ヴァルナミトラ
13 パルヴァタ (ここまでが前1世紀後半)
14 アシュヴァゴーシャ
15 イーシュヴァラミトラ
16 ラーダミトラ
17 プリヤミトラ
18 デーヴィーミトラ
19 ダーマミトラ    (ここまでが1世紀前半)
20 スラミトラ
21 サルパミトラ
22 サタミトラ   (紀元前1世紀の終わりから1世紀初頭)
23 ラージャミトラ
24 プラジャーパティミトラ
25 ラジャニーミトラ
26 シヴァミトラ    (ここまで1世紀中期)
 
 
 注目してもらいたいのは、前2世紀のブリハスパティミトラである。彼がカーラヴェーラに敗れたマガダ国の王であったブリハスパティミトラと同一人物なのかは、分からない。しかしほとんど同時期に同名で、カウシャンビーで貨幣を発行した王がいたというのは興味深いものである。またこの王(ブリハスパティミトラ)の娘であったと考えられるヤシャマターは、マトゥラーの王の妃であったということが、彼女が遺したモーラー碑文に父親の名と共に記さている。シヴァミトラ以降の王としてはナヴァ、ムーラハスタ、ヴィシュヌシュリーなどが貨幣を発行していた。



(ブリハスパティミトラⅠ世のコイン)


【アヨーディヤー】
 
 アヨーディヤーにおいても、以下の王の名が印された貨幣が発見されている。ダナデーヴァ(プシャミトラの6代目の子孫)、ムーラデーヴァ、ポータデーヴァ、ヴァーユデーヴァ、ヴィシャーカデーヴァ、ジェータダタ、ナラダタ、シヴァダタ。硬貨には雄牛やラクシュミーが描かれている。
 
 
【カーンニヤクブジャ】
 
 マトゥラーのミトラ朝と関係するブラフマミトラ、スーリヤミトラ。ビシュヌデーヴァの硬貨などが見つかっている。
 

【マトゥラー】
 
 紀元前のマトゥラーの支配者は、13人の王の名が知られている。最後にミトラのつくミトラ朝とも言われる、ブラフマミトラ、ダダミトラ、ゴーミトラ、サタミトラ、スーリヤミトラ、ヴィシュヌミトラの系統と、次に続くのがダッタが最後につく、ダッタ朝のバヴァダッタ、カーマダッタ、プルシャダッタ、ラーマダッタ 、シェーシャダッタ、ウッタマダッタである。そして最後がバラブーティである。硬貨にはラクシュミーなどが描かかれている。彼らヒンドゥーの王家が続いた後に、マトゥラーは、サカ族のクシャトラパの支配に変わる。

 
【パンチャーラ】
 
 北パンチャーラ国の首都が、アヒッチャットラ(現ラームナガル)、南パンチャーラ国の首都がカームピリヤ(現カームピル)である。硬貨に印されている王の名が、アグニミトラ、アナミトラ、ボドラゴーシャ、バーヌミトラ、ブーミミトラ、ブリハスパティミトラ、ダーマグプタ、ドゥルヴァミトラ、インドラミトラ、ジャヤグプタ、ジャヤミトラ、パールグニーミトラ、プラジャーパティミトラ、ルドラゴーシャ、ルドラグプタ、シヴァナンディシュリー、スーリヤミトラ、シュリーナンディ、ヴァンガパーラ、ヴァルナミトラ、ヴァスセーナ、ヴィシュヌミトラ、ヴィシュヴァパーラ、ヤジュナパーラ、ユガセーナ等である。その硬貨に描かれているのは、スーリヤ系、ヴィシュヌ系、シヴァ系など様々である。
 パンチャーラ国の硬貨の興味深い点として、アランの指摘に基づき、ラーヒリーが述べているのは、その王の名ごとに裏側に描かれる神格が異なるという点である。アグニミトラ王ならアグニ神、インドラミトラ王ならインドラ神、ヴィシュヌミトラならヴィシュヌ神など。部族神や国家の主要な神という媒介なしに、個人と神格とのある種の結びつきがここで想定されるわけである。


(上、ルドラグプタのコイン、ルドラ神の三又が刻印されている。下、インドラミトラのコイン、インドラ神が刻印されている。)



【アルモーラー】

    アルモーラーでは、ハリダッタ、シヴァダッタ、シヴァパールタが王名として硬貨に印されたものが見つかっている。


【ユガシャイラ】

     ユガシャイラ(デーヘラドゥーン)においては四度のアシュヴァメーダを行った、シーラヴァルマンの名が印された硬貨が見つかっている。


 仏教における部派仏教の時代は、王権においても地方分権ではないが、以上のように都市単位、地方の王権単位で北インドが細かく分化分裂する方向に進んでいたのである。仏教教団の文化は政治単位における分化と歩調を一つにしていたのである。このような中で我々が次に注目すべきは、インドのサンスクリット文化の中心とも言うべき現在のパンジャーブ州、ハリヤーナー州、ラージャスターン州、ウッタルプラデーシュ州といったマディヤデーシュ周辺に様々に割拠した部族国家である。ここがヴェーダ教が土着化、民衆化したヒンドゥー教へと変容した地帯であり、ヒンドゥー教興起の時代は、これから見ていく群小部族国家林立の時代であった。


(グプタの『古代インドの部族史』より、読者のために心を鬼にして勝手に転載)

 硬貨に印された銘などから、前2世紀以降の北西インドの群小部族国家の統治形態を、ラーヒリーはさらに三つに大別する。
 
①ガナ型。共同体という意味でのガナの名を印した硬貨を発行した部族。民主制か代表制と考えられる。例として、ヤウデーヤ族のヤウデーヤ・ガナ。
 
②ラージャ・シャブディン・ウパジーヴィン(王を称するものに依存する共同体)型。①のガナに準ずる共同体によって選出されたラージャ、ないしマハーラージャを指導者に持つ部族国家。君主制ではなく共同体によって選出されたラージャを指導者に持つという点では共和政体に近い。アウドゥムバラ族、クルータ族、クニンダス族、ヴァイマキ族、マドラ族等。
 
③ジャナパダ(領土)型。王のいない民主制か代表制であったと考えられる。アグラティヤ族、ラージャニヤ族、トリガルタ族、ヴァイマキ族、シビ族等。
 
 
 これらの群小部族国家は、5世紀の文法学者のパーニニによって言及されているので、その起源は古いが、メナンドロスのギリシア人によるインド支配の終わり頃から勢力を持つようになり、徴税権とセットの通貨発行権を行使するようになった。すなわちバクトリアのギリシア勢力の退潮と共に紀元前2世紀中頃から、サンスクリット文化の中心地であるマディヤデーシュは、群小部族国家林立時代を迎えたのである。ドゥルーズ=ガタリの言う、モル状組織にばかり焦点が向かいがちな我々は、歴史認識においても大国にばかり目がいきがちなので、大国のモル状組織に比して分子状とも言うべきこうした群小部族国家を見落とすことによって、結果的に歴史の重要な転換期の思潮の波を捉え損ねる結果となる。従って、紀元前2世紀以降のシュンガ朝・カーンヴァ朝期の歴史を正しく捉える為には、サンスクリット文化がヒンドゥー化する震源地としてのマディヤデーシュ周辺の部族国家林立時代をできる限り正確に把握することが重要となる。それはつまり大乗仏教の起源の年代における、大乗経典が挙示的ロゴスによって敢えて語らず、それらテクストが隠匿するコンテクストの再現に不可欠な要素なのである。


【ヤウデーヤ・ガナ】
 
 戦士(yodha)にtaddhita接尾辞eyaを付加して作られた語ヤウデーヤは、その名の通りパンジャーブの部族国家の中で最も強力で、広範囲な勢力を有していた部族国家である。パーニニにおいても言及され、『マハーバーラタ』、プラーナ、ヴァラーハミヒラの『ブリハ・サンヒター』等でも言及される。その領土は、西はバワルプルからサトレッジ川とビアーズ川を遡り、北はカングラ地方に至り、東はサハーランプルからパーニーパット、ソーニーパットを通り、南はバラトプルに達し、西はスーラトガルへと至る地帯である。


(ヤウデーヤ・ガナの通貨から推論される支配領域)

    その発行硬貨は年代ごとに異なる。、ジョン・アランによって6つにクラス分けされているが、時代的に我々の研究において重要な初期の三つのクラスの特徴を述べると、クラスⅠは、マハーラージャと記さているので、元々は王を選出していたことが分かるが、クラスⅡからは部族名のヤウデーヤの名で発行されている。クラスⅡ(紀元前2世紀中頃~紀元前1世紀頃)のコインは、「yaudheyanaaM bahudhaJake」と刻印されている。この「バフダナカ」は、『マハーバーラタ』でも言及された国名で、現在のハリヤーナ州一帯を指し、その首都は現在のディッリーの西のローフタクであった。ここからヤウデーヤの多数の硬貨が発見されていて、彼らの造幣所があったと考えられる。クラスⅢ(紀元2世紀)の硬貨には、カールッティケーヤ(ブラフマニヤデーヴァないし、ブラフマニヤデーヴァ・クマーラ)の像が印刻されている。ヤウデーヤ族は、『マハーバーラタ』では「マッタマユーラ」とも言われ、その部族の部族神は軍神であるカールッティケーヤであった。


(カールッティケーヤが刻印されたヤウデーヤ・ガナのコイン)


【アウドゥムバラ(ウドゥムバラ)】
 
 
 アウドゥムバラ族は、現在のカングラ地方の西部に住んでいた。パーニニは、ジャーランダル近郊に住む部族として言及している。パターンコート、ジュヴァーラームキー、ホーシヤールプル等から硬貨が発見されている。彼らはマハーデヴァの名と共に、王(ラージャ)のダラゴーサ、ルドラダーサ、シヴァダーサの名を刻印した硬貨を発行した。硬貨にはシヴァ神の寺院とおぼしき建物や三又の矛等が刻印されていて、彼らがシヴァ神を崇拝していたことが窺える。

(アウドゥムバラのコイン。シヴァ神の寺院と三又の矛が確認できる)


【クルータ】
 
 
 クルータ族は、元々はタクシャシラー(タクシラー)に住んでいた部族であるが、その後、移住してヒマーチャル・プラデーシュ州のクル渓谷に住みついたと考えられる。彼らの王の名としては硬貨の刻印から、ヴィジャヤミトラとヴィーラヤシャが知られている。ヴァラーハミヒラも『ブリハト・サンヒター』で言及し、玄奘も彼らの王国を屈露多(クルータ)として言及している。王の名は刻印されていても宗教的な言明は特にないので、当時、どのような信仰を主に彼らが抱いていたかは、不明である。


【クニンダ】
 
 
 クニンダ族は、アムバラからサハーランプルに至る現在のデーヘラ・ドゥーン周辺の地域に住んでいた。『マハーバーラタ』やマールカンデーヤ、ヴァーユ、ヴィシュヌ等のプラーナ文献で言及され、ヴァラーハミヒラにおいても言及されている。王の名としてアモーガブーティの名がその刻印から知られている。初期の硬貨には、ラクシュミーとおぼしき女神の姿が刻印され、ポスト・クシャーナ朝時代の頃の硬貨には、三又の矛を持つバガヴァッタ・チャトレーシュヴァラ・マハートマンの名でシヴァ神が刻印されている。


(アモーガブーティのコイン)


【マドラ】
 
 
 マドラ族のコインは、発見されていないが、『マハーバーラタ』やジャータカ文献、アッラーハバード碑文等において言及されている部族である。『アイタレーヤ・ブラーフマナ』により、現在のシュリーナガル付近のウッタル・マドラとシーアルコートを首都とするダクシナ・マドラに分けられていたことが知られる。カウティリヤの『実利論』の第11巻でもラージャ・シャブディン・ウパジーヴィニン(王と称するものに従属するサンガ)として言及され、ヴァラーハミヒラも『ブリハト・サンヒター』で言及している。


【アグローダカのアグラティヤ・ジャナパダ】
 
 アグラ族は、パーニニの『アシュター・アディヤーイー』の4巻第1章第99節で記述され、続く102節でその派生語として、アグラーヤナが述べられているように、紀元前5世紀には既に知らていた。彼らがハリヤーナ州の現アグローハーにそのジャナパダ(共和国)を建設し、そこはアグローダカと呼ばれていたようである。アグラティヤは、アグラ族の国という意味である。しかし、このような名称は実際は、プラークリットの硬貨に印されている、「agodaka agaacajanapadasa」を苦心の末に様々な学者がサンスクリット化して、「agrodaka agratyajanapadasya」にした結果である。これは筆者は、カリヤーナ・クマール・ダース・グプタの『A Traibal History of Ancient India』の解釈によるが、プラークリットからサンスクリット化する推論過程は、煩雑なのでここでは省略する。アグローダカは、発掘調査がなされていて、51枚のアグラティヤ・ジャナパダの硬貨が見つかっている他、興味深いものとしては粘土印が見つかっていて、ブラーフミー文字でルドラ神の異名と考えられる「パーヴァネーシャ」の名が刻印されている。インド考古局の報告書には年代の記述はない。


(パーヴァネーシャの粘土印)


    地元の郷土史家は、伝説の王アグラセーナとこの土地を結びつけているが、明確な証拠はない。アグローダカは、ウッタラパダの交易ルートにあったために発達したと推論される。


【ラージャニヤ・ジャナパダ】
 
 ラージャニヤ族は、パーニニの4巻2章53節でも、述べられていて、紀元前5世紀には既にパーニニによって知られているが、彼らがラージャニヤ・ジャナパダの名で貨幣を発行し始めたのは、ギリシア・グリーク朝の衰退の時期であり、紀元前2世紀中期以降である。インド・パルティア王国の時期には既にその独立性を失っていたと推定される。彼らの居住地域は、パンジャーブのホーシヤールプル周辺であったと考えられる。彼らの発行した硬貨は、前2世紀中期以降のカローシュティー文字の硬貨と前1世紀のブラーフミー文字のものとがある。カローシュティー文字の硬貨には、右手に蓮華を持つラクシュミーとおぼしき女神が刻印されている。


(ラージャニヤ・ジャナパダのコイン、中央に女神らしき人物が刻印されている)


【トリガルタ・ジャナパダ】
 
 トリガルタ族は、パーニニおいても知られ、アーユダジヴィン・サンガ(武器で生計を立てる者達の共同体)に分類されている。『マハーバーラタ』やプラーナ文献におても言及される。カニンガムは彼らの居住地をジャーランダラ付近に比定しているが、デーヴェーンドラ・ハーンダーは、彼らの居住地域をカングラ地方としている。彼らの硬貨の一つは、中央に寺院ないしストゥーパが刻印され、裏側には樹木が描かれている。彼らのジャナパダの存続期間もギリシア人の衰退から僅かの期間と考えられる。


(トリガルタ族のコイン)


【ヴェーマキ・ジャナパダ】
 
 
 ヴェーマキ族は、『マハーバーラタ』やプラーナ、ヴァラハーミヒラなどによって言及されている。アウドゥムバラ族に隣接したパンジャーブのどこかの地域に居住していたと考えられるが、実際の居住地域は不明である。ジャナパダの名前で発行された硬貨が残る他にルドラダーマンという王の名で発行された硬貨も残っている。


【マーラヴァ】
 
 前回の記事でおおよそ4世紀以降のマーラヴァ族によって建国されたアウリカラー朝については詳しく王統史含めて確認したが、ここではアウリカラー朝建国以前のマーラヴァ族について確認する。前回の記事で頻出したマールワー地方は、マーラヴァ族の住む土地という意味であり、元々、ウッジャイニー周辺は、アヴァンティと呼ばれていた。従ってアヴァンティがマールワー地方と呼ばれるようになったのは、サカ族の西クシャトラパ王がグプタ朝に撃退された5世紀前期以降と考えられる。マーラヴァ族は、アレクサンドロスの東征の頃にはパンジャーブ州に定住していた、『アレクサンドロス東征記』では、マッロイ人の名で知られ、アレクサンドロスと死闘を繰り広げたのであった。どうしても『アレクサンドロス大王東征記』を読むと、アレクサンドロスとマケドニア軍視点で見てしまうので、マッロイ人は分けの分からないインドの野蛮な民族の一つみたいな感覚で軽く読み流してしまうのであるが、彼らがバルトリハリの祖先であると考えて読むと、アレクサンドロス視点から離脱することができ、マッロイ人の城内に単騎で躍り込んで瀕死の重傷を負うアレクサンドロスこそが野蛮人に思えてくるから面白い。アレクサンドロスの東征以降、バクトリア王国のギリシア人デーメートリオスからメナンドロスまでのインド進攻と進出の影響で、彼らは南下し、その後はラージャスターン州を中心に居住していたと考えられる。西クシャトラパのウシャヴァダータのナーシク碑文では恐らく国境沿いと思われる所でのマーラヴァ族撃退の記録が残されているので、2世紀当時は、ラージャスターンを拠点に活動していたことが推定される。その後、3世紀のウダイプル近郊のクリタ歴(ヴィクラマ歴)282(西暦225)年にサカ族に対する勝利を記念して、ブリグヴァルダナの孫にして、ジャヤソーマの息子である、マーラヴァ族のソーンギン氏族の王ナンディソーマによって建てられた犠牲の獣を結ぶ為のナーンダシャー・ユーパとそれに刻印された碑文が残っているので、3世紀当時、ウダイプル周辺に勢力を有していたことが分かる。気になるのが名前の終わりにヴァルダナと付くところだが、彼らが後のアウリカラー朝の王家と関連性があるかどうかを証明することはできないとバローも述べている。その後、西クシャトラパ王国の滅亡と共にアヴァンティ地方は、マーラヴァ族の居住地域となり、後にマールワー地方と呼ばれるようになったのであった。ちなみに有名なヴィクラマーディティヤ王が作ったとされるヴィクラマ歴は、元々はクリタ歴と言われ、マーラヴァ族が作った歴であるからマーラヴァ歴とも呼ばれていた。それが実際にヴィクラマ歴と呼ばれるようになったのは9世紀頃である。マーラヴァ族の硬貨は多数見つかっている。

(約700年間でのマーラヴァ族の移動ルート)


【アールジュナーヤナ】
 
 アールジュナーヤナ族の名前の由来は、『リグ・ヴェーダ』では、聖仙カウトサの父方の姓として「アールジュネーヤ」という言葉が使われているが、一説では、パンドゥ族のアルジュナや、ハイハヤ王のカルタヴィリヤ・アルジュナから来ているとも言われるが、詳細は不明である。居住地域としてディッリー・ジャイプル・アーグラを結ぶ三角地帯辺りと想定される。ラージャスターン州からその貨幣が発見されていて、またグプタ朝のサムドラグプタのアッラーハバード柱碑文でもその名が言及されている。硬貨には、丘の上の雄牛や、ユーパ(犠牲柱)に繋がれた牛や、ラクシュミーとおぼしき人型などが刻印されている。アールジュナーヤナ族の独立性は、東クシャトラパ王国を建国したサカ族のマトゥラー支配が始まった1世紀始めには失われたと考えれるが、その後のグプタ朝期にも碑文に記載があるので、その勢力は続いていたようである。


(ラクシュミーの刻印されたアールジュナーヤナ族のコイン)


【マウカリ】
 
 今回の記事の研究では、主に紀元前2世紀からの200年の群小部族国家の状況が分かれば言いのだが、今後の記事の展開次第では必要になるかもしれないので、マウカリ族についても述べておく。ラージャスターンのバーラーン県バドワーのユーパ碑文は。239年にマウカリ・マハーセーナパティ・バラの三兄弟(バラヴァルダナ、ソーマデーヴァ、バラシンハ)の息子達によって建てられたものであり、そこから当時この一帯はマウカリ族の領土であったことが分かる。後にマウカリ家の名は、ガヤー、カナウジなどの碑文で確認されているので、彼ら一族は、後にラージャスターンから、ビハール州やウッタル・プラデーシュ州に移り住んだようである。


【シビ】
 
 シビ族は、『リグ・ヴェーダ』の有名な十王戦争においてシヴァ族と言及され、『アイタレーヤ・ブラーフマナ』では、シヴィ族として言及されている。アリッアノスの『インド史』では、シバイ人は生皮を身にまとい、棍棒を携え、彼らが飼っている牛にも棍棒の焼き印を押していたと語っている。パタンジャリは、シヴィ族の町としてシヴァプラについて述べていて、そこは五世紀の碑文から現在のパーキスターンのショーコートと比定されている。発見されている硬貨には、「シビジャナパダ」と刻印されているので、政体はジャナパダ制であったと考えられる。またマディヤミカー(現タームバーヴァティー・ナガリー)との刻印がなされ、ラージャスターンでコインが発見されているので、元々の居住地のパンジャーブからある時期にラージャスターンに移住したものと考えられる。その名の通り彼らはシヴァ神崇拝を行っていたと考えられる。

(シビ族のコイン)