このような根本分裂の時代は、アショーカの時代にあたる。アショーカの統治は、紀元前268年~前232年頃までのおおよそ40年である。こうした根本分裂後の教団の争いにアショーカが介入したことが知られている。それがアショーカの破僧伽に関する法勅である。現在、三つの碑文が知られている。一つ目は、コーシャンビー小石柱法勅、二つ目は、ヴィディシャー近郊のサンチー小石柱法勅、そして三つ目が、ヴァーラーナスィー近郊のサールナートのパータリプトラ周辺に向けて発布されたサールナート小石柱法勅である。コーシャンビーのものを塚本啓祥訳から引用しよう。
天愛(アショーカ)はコーサンビーにおける大官に指示する。……和合が命じられた。……僧伽においては認められない。比丘あるいは比丘尼にして僧伽を破つものは、白衣を着せしめて、住処(精舎)でない所に、住せしめなければならない。
アショーカがこのような法勅を発布したということは、言うまでもなく、アショーカ在位の当時、僧伽における争いや分裂が目に余る状態になっていたからである。このような根本分裂の時代における破僧伽とその解消の条件などの事情については、佐々木閑の『インド仏教変移論』(2000)が詳しい。
それをすべて紹介することはできないが、簡単にまとめると佐々木の論の要旨は、当時、アショーカの時代に厳格な破僧伽の定義に変更があり、その変更にアショーカが関わっていたとされる。もともとの破僧伽の定義は、デーヴァダッタ事件などに関連してチャクラベーダに基づき規定されていた。つまりチャクラベーダとは、仏陀の教説に反する者を破僧に処する律の規定である。十人十色、百家争鳴ではないが、仏陀の教説が仏教教団において絶対的なものであっても、やはりその解釈には相違がでるのは当然であるし、時代に即して律の解釈に若干の変化を加える必要がでるのは、仕方がないと言えば仕方がないわけであるが、それをすべて排斥し、異端審問の如く糾弾していけば、争いや分裂は裂けがたくなるのは必定である。こうした状況において佐々木は詳細な律の分析をとおして大衆部の『摩訶僧祇律』にチャクラベーダとは異なる破僧の定義としてのカルマベーダを見出だす。カルマベーダの破僧伽の規定は、内面の思想的な相違を一端棚上げにして、外面的な「同一僧団内で比丘達が二派に分かれ、別々に僧団行事を行うこと」とされる。また破僧伽の解消としてはサマッガム・ウポーサタカッマ(和合布薩)を挙げ、「界内の比丘が、再び一緒になって布薩することが破僧状態の解消」と端的に示される。こうしたチャクラベーダに追加されたカルマベーダによる破僧の定義と解消法を、南方分別説部のパーリ律や法蔵部の『四分律』、化地部の『五分律』には認められるものの、有部の律である『十誦律』と『根本説一切有部律』に認められないことから、カルマベーダを受け入れなかった僧団として有部が浮き彫りとなる。大衆部はカルマベーダの推進者であり、有部はカルマベーダを受け入れず、上座部の中で最も保守的な部派として、古来のチャクラベーダをそのまま維持したのである。南方分別説部や法蔵部、化地部は、アショーカの働きかけによって、大衆部の推進するカルマベーダを不承不承に受け入れたのであった。こうして僧団内部に内的な思想の多様化を生じさせる発生原因が生じたことこそが、大乗仏教の発生原因であると佐々木は、結論づける。
とは言え、佐々木のこのカルマベーダ論は、仏陀の根本の教えをAとすれば、そこから様々に多様化し、派生する多様なる仏教思想の同一レベルにおける系列を説明しているに過ぎない。それはつまり、
佐々木のカルマベーダ論は上記の多様化を説明しているのであるが、筆者がこれより説明するのは、M(マハーヤーナ)が、この(B,C,D,E,F…)の系列と、同一レベルでは語れないものであり、この系列と全く異なる平面上に存在するところに、大乗仏教の本質特性があり、それこそが仏教研究家が根本的に大乗仏教の起源を考察する上で狙った獲物を逃してしまう理由であるということを示したいと思うのである。
次回の記事で上座部の枝末分裂について述べるので、今回は必要最低限のものとして、大衆部の分派について地理的にできる限り関連付けながら述べていくことにしよう。マハーサンギカ(大衆部)は、カルマベーダをもって破僧を定義し、サマッガム・ウポーサタカッマ(和合布薩)によって教団の分裂を実際に防ぎえたかと言うと、残念ながらカルマベーダによって分派を防止することはできなかったようである。根本分裂で見たように、大まかにいえば、ヴァイシャーリーやマガダ国と言った東の国が、大衆部の発祥地であり、西部やデカン高原、そして北西部は、主に上座部の勢力範囲と言うことができよう。初めに確認したが、アショーカ死去後、僅か45年にしてマウリヤ帝国は崩壊し、ヴェーダ教を信奉するプシャミトラがシュンガ朝を建国したのだが、その時代に仏教徒側の伝承では、パータリプトラのクックトゥアーラーマ僧院は、プシャミトラに襲撃され灰塵に帰したのであった。それが事実にせよ、他の者が行ったにせよ、パータリプトラの仏教教団に何らかの攻撃が加えられた可能性は高いと言えるだろう。ヴァイシャーリーやマガダ国に主な拠点を有していたと想定される大衆部にとって、それは苦難の時代の始まりであった。
ギリシア人デーメートリオスやマハーメーガヴァーハナのカーラヴェーラが、マガダ国を蹂躙していった記憶は生々しく僧侶達に残っていたし、クックトアーラーマ僧院が灰塵に帰したことは膿んだ傷口のような思い出として、「諸行無常」を常に頭にあっても、教団に暗い陰を投げかけていた。シュンガ朝の代々の王は、ヴェーダの信奉者であり、もはやアショーカ王の与えたような昔日の強力な庇護を期待することはできなかった。北西からは、スータの一行がヒンドゥーの教えを織り交ぜた『マハーバーラタ』の18日間に渡る興行をもってパータリプトラの大衆の喝采を受け、時にヴァースデーヴァ=クリシュナに帰依すれば、自らの世俗の義務を果たしながら解脱に達することができると法悦の表情を浮かべながらクルクシェートラの戦いと共に祭礼で説くのが見られた。サンチー近くのヴィディシャーでは、それを真に受けたギリシア人の大使がヴァースデーヴァを讃える石柱を建てたと言った噂がパータリプトラにも流れてきていた。齢80にもならんとする長老が「出家もせずに解脱できれば苦労はない」と小さい声で呟くのを聞いたものがいた。在家のものより今朝受け取った若い僧侶の手の内の貨幣の裏面には、太陽を表すチャクラと共に「ヴリシュニ族の軍団の庇護者のもの」という刻印がなされていた。
マハーサーンギカ(大衆部)からの分派史を考察する上で、資料となるものは複数存在するが、①スリーラーンカの上座部大寺派所伝の『ディーパヴァンシャ(島史)』や、②説一切有部のヴァスミトラ(世有)の作とされる『サマヤベードーパラチャナチャクラ(パラーマールタ訳の漢訳名は部執異論、玄奘のは異部宗輪論)』、③バーヴィヴェーカ(清弁)の『ニカーヤベーダヴィバンガヴィヤーキヤーナ(異部分派解説)』の上座部所伝(第一説)・大衆部伝(第二説)・正量部伝(第三説)、④大衆部所伝の『舎利弗問経』、⑤『文殊師利問経』などを挙げることができる。これら全てを比較して、最も妥当性のある分派史を描くのは筆者の手に余るので、我らがウッジャイニー代表であり前回の記事でも登場したパラマールタ(眞諦)訳の、『部執異論』と大乗仏教起源史の筆者の独自研究における最も重要な知見を与えてくれた『部執異論』の注釈であるパラマールタによる『部執異論疏』の散逸したものが引用されている嘉祥大師こと吉蔵の『三論玄義』や、我が国の中観澄禅の『三論玄義檢幽集』(1280)、聞証の『三論玄義誘蒙』(1686)などを基に論じていきたい。
『部執異論』によれば、①マハーサーンギカ(大衆部)より、
②エーカヴィヤーヴァハーリカ(一説部)
③ローコーッタラヴァーディン(出世間部)
④クックリカ(灰山住部)
がまず分派したとされる。これら大衆部、一説部、出世間部、灰山住部は、基本の教えは同一である。「諸仏世尊は、皆、この世のものを超越している(出世間)」から始まり、49の特徴が挙げられるが、特徴としては、仏が超越的な存在として、いわゆる「人間的な、余りに人間的な」要素を払拭され、人間釈尊から超人釈尊への道を進んでいるのが見て取れる。これは次回見ていくが、ジャータカの本生譚を取り込んだ仏陀観の発展を跡付けうるものと考えられる。またマハーデーヴァ(大天)の五事が挿入されてもいて、阿羅漢の基準の緩和と、阿羅漢の限界が意識されていることが分かる。『部執異論疏』を引用している『三論玄義』及び『三論玄義檢幽集』から一説部の教えの特徴について見ていこう。
【エーカヴィヤーヴァハーリカ(一説部)】
パラマールタによれば、一説部は執・生・死・涅槃は皆、仮名であるとし、世俗の存在も、出世間(世間を超越した)の存在も、ことごとく、仮名にして、一切の存在は無自性(無実体)であると述べる。全てが無自性でるからこれを「皆仮名」の一名のもとに捉えることができ、それ故に一説と名付けるのである。仮名を空と言い換えて、形而上学的な存在として捉えれば、それは般若経の大乗思想の「空」となるわけだが、そこを踏み止まっているのである。しかしこれは6世紀のパラマールタの解説であることは注意が必要である。2ヶ月前には、あまり情報が整理てきてなかったので設仮部(多聞分説部)が、大乗に最も近い発展形を示していると筆者は予想をつけていたが、それは誤りで、現在の筆者は、一説部の思想が大乗思想に最も近い部派であったと推定するものである。一説部を地理的情報は後程まとめて述べる。
【ローコーッタラヴァーディン(出世間部)】
出世間部は、世間法(世俗的な存在)は、顛倒(無常・苦・不浄・無我を常・楽・浄・我と見なすこと)によって生起し、仮名に過ぎず、出世間法(ブッダの法など超越的存在)が真実の実在であると説いた。静谷正雄は、『小乗仏教史の研究』で出世間部の二諦説は、一説部の急進的な思想に対する緩和的なものであると述べている。有名な『マハーヴァストゥ・アヴァダーナ』は出世間部の律蔵に属する。『マハーヴァストゥ』において、菩薩の十地など大乗思想の浸食が見られる。
【クックリカ(灰山住部、鶏胤部)】
灰山住部は、パラマールタ曰く、彼らが住んでいた山の石は灰を作るのに適していた為に、灰山と呼ばれ、そこに住んでいたから灰山住部と名付けられたとされる。石灰石を焼くことで石灰が作られることが知れているので、石灰石を産出するところから特定できるかも知れないが筆者の能力に余る。また『論事註』では、「一切世界は苦の熱灰(kukkula )に過ぎない」と言う彼らの主張から来たとも言われる。『ディーパヴァンシャ(島史)』は、彼らをゴークリカと呼び、静谷はゴークラをクリシュナの成育した土地であるヴリンダーヴァンやマトゥラーと結びつけて、マトゥラーに大衆部の拠点があったことを根拠にゴークラは、マトゥラー大衆部のことであると自説を述べている。その他に玄奘の鶏胤部(クックティカ)という名称から、パータリプトラのクックターラーマ(鶏園)やコーシャンビーの同名のクックターラーマと関連づけられそうでもあるが、その関連性を裏付ける資料はない。『文殊師利問経』ではこの部派の名前は、最初の指導者の名前から取ったと述べられている。灰山住部には、アビダルマを重視したという記述以外、あまり教義について説明はない。
一説部、出世間部、灰山住(設仮)部は、一つの資料を除いて、場所の記述がない。唯一、記述があるのが、何を隠そう、我等がウッジャイニー代表、パラマールタの散逸した『部執異論疏』にのみ、その記載があり、それを引用しているのはパラマールタがその僧名を付けた嘉詳大師こと中国僧、吉蔵(549~623)の『三論玄義』と、三論玄義を注釈した日本の僧、聞証の『三論玄義誘蒙』(1686)のみである。『三論玄義』では『部執異論疏』から引用しているという言明がないが、聞証は「疏」から引用していると言明しているので、ほぼ『部執異論疏』からの引用であると考えて問題ない。従って、以下の内容はウッジャイニー出身の6世紀のパラマールタの一説部・出世間部、灰山部に対する見解ということになる。また場所の記述以外に大乗の伝播の三つの仕方が述べられているので、大乗起源論の考察において非常に重要である。全文、聞証の『三論玄義誘蒙』より引用する。恐らく吉蔵のは、自ら要約したものと考えられる。
疏云。第二百年大衆部併度行央崛多羅國。此國在王舍城北。此部引華嚴・涅槃・勝曼・維摩・金光明・般若等諸大乘經。於此部中有信此經者。有不信此經者。若不信者謗言無般若等諸大乘經。言此等經皆是人作非是佛説。悉簡置一處。還依三藏根本而執用云。小乘弟子唯信有三藏。由不親聞佛説大乘故爾。復有信受此經者自有三義。一或由親聞佛説大乘故信受此經。二能思擇道理知有此理故信受。三由信其師故信受師所説也。其信大乘者一説部。不信者出世説部也。灰山住部唯執毘曇不關信不信。故云二部也。
疏に云う、第二百年、大衆部は併度し、央崛多羅国(アンゴータラ)に行く。此の国は王舍城の北に在り。此の部は華厳・涅槃・勝曼・維摩・金光明・般若等の諸の大乗経を引く。此の部の中には此の経を信ずる者有り、此の経を信ぜざる者有り。若し信ぜざる者は、謗言し般若等の諸の大乗経の無しを言う。言いて此等の経は皆、これ人の作りしものにて、仏の説く所に非ずと。悉く一処に簡置し、還って三蔵の根本に依って用を執ると云い、小乗の弟子は唯だ三蔵有ることを信ず。由りて仏の大乗を説くを親しく聞かざる故にのみなり。復た、此の経を信受する者有るは、自ずから三義を持つ。
一には、或いは仏の大乗を説くを親しく聞くが故に此の経を信受す。
二には、道理を思擇して此の理の有ることを知るが故に信受す。
三には、其の師を信ずるに由りて、故に師の説く所を信受す。
其の大乗を信ずる者は一説部なり。不信の者は出世説部なり。灰山住部は唯だ毘曇を執りて信不信に関せず。故に二部と云う。
まず一説部、出世間部、灰山部は、アンゴータラ(央崛多羅國)に大衆部が伝播して生じた部派であるということである。アンゴータラとは、ウッタラ・アンガ、北部アンガ国であり、アンガ国は、カーラヴェーラの侵略を受けたアンガ国のガンガーを境に北岸の地域であると考えられる。詳しく以下の
中央学術研究所のアングッタラーパ国のPDFをダウンロードしていただければ、詳細の記載がある。そしてこのアンゴータラ国で大乗を取り入れた部派が、一説部であり、それを拒否したのが出世間部であり、我関せずとばかりにアビダルマを部派の中心においたのが、灰山住部なのである。大乗経典が仏滅二百年後にあったという記述は、パラマールタの錯誤であると考えられるが、口承伝承としての大乗的なものをいち早く取り込んだのが、どうやらパラマールタの大衆三部論に基づけば一説部だったということになる。
また大乗の三つの伝播・伝承形式をパラマールタが述べているのは、非常に重要である。それは
①伝聞によって大乗を仏の教えと信じることによって
②自ら大乗の教えを理論的に勘案し、信じることによって
③大乗を信じる師からの伝承によって
この三つが大衆部内において如何に大乗が伝播したかというパラマールタ説の三つの伝承伝播形式である。それは、創始者を伝えているわけではないが、大乗伝播に関する貴重な見解である。
ここまでの大衆部についてまとめると、大衆部は仏滅百年後の根本分裂によって生じ、それはヴァイシャーリーやマガダを中心とする地域によっていたが、その後、さらに東進してアンゴータラにて、一説部、出世間部、灰。山住部に分かれたというのが、ウッジャイニー出身のパラマールタ(六世紀)による大衆部の説明である。碑銘からいうと、マトゥラーやコーシャンビー、ガンダーラなどに大衆部の拠点があったことが知られているが、大まかにいって、大衆部の発生原因である東西の争いであった根本分裂の震源地に基づくと、大衆部の割合は、東に勢力を有し、東高西低型であったと考えられ、逆に上座部は西高東低型であったと考えられる。
(オレンジのところがおおよそのアンゴータラ国であり、マガダ国、ヴェーシャーリー、アンガ国との位置関係が分かるであろう)
順番としては次に多聞部と分別説部(設仮部)を論じるべきなのであろうが、この二部の研究においてこそ、大乗仏教起源史を考察する上で、筆者の仮説の根幹を成す知見の材料を提供してくれることになる部派なので、後に回して、先に大衆部で最も分かりやすい、アーンドラ派(アンダカ派)の大衆部を先に見ていく。初めに断っておくが、大乗仏教起源史の考察において、アーンドラ地方はそれほど重要度は高くない。最重要地域は、今回の記事の第3パートで述べるが、アーンドラ地方より北、マヘーンドラ山脈を越えたカーラヴェーラ王の支配していたマハーメーガヴァーハナ朝のカリンガ地方とナーグプルを有する南コーサラ地方である。従って、アーンドラ地方は、大乗仏教起源史の考察においては、そこが特に重要性は高くなく消去法の材料を提供するという役割以外は特に有していない。
アーンドラ・プラデーシュにおける大衆部については、塚本啓祥の『アンダカ派の形成』がPDFでネットから簡単に拾ってこられる上に、よく整理されているので分かりやすい。さらに詳細は、静谷正雄の『小乗仏教史の研究』などがある。筆者はこれらを参考にしながら、パラマールタの『部執異論』を基本に話を進める。アーンドラ派大衆部は、、南北両伝承においてマハーデーヴァ(大天)による分派とされる。
【チャイティヤギリ(支提山部)】
五事の提唱で有名なマハーデーヴァ(大天)が、ヴィジャヤワーダーのクリシュナ川を挟んだ南岸の有名なアマラーヴァティー大塔のあるダーニヤカタカのチャイティヤギリ(チャイティヤ・シャイラ)に住していた為に、その名が付いた。ちなみにダーニヤカタカは、『華厳経入法界品』で善財童子が、マンジュシュリー菩薩(文殊師利法王子)に出会いインド全土を巡る遍歴の旅の基点となった街でもある。玄奘は、この街の南にヴェーンギーに住していたディグナーガの影響を受けたバーヴィヴェーカ(清弁、6世紀)の入定窟があり、空海同様に弥勒菩薩の到来を待ち続けていると語っている(ディグナーガの住んでいたヴェーンギーからバーヴィヴェーカの住んでいたダーンニヤカタカまでは、距離にして85キロぐらいである)。ちなみに筆者は、12のジョーティルリンガのあるシヴァ神の聖地シュリーシャイラに行く為に、ヴィジャヤワーダーに行ったことがあるが、そこからチェーンナイーに行く為に、満員の二等列車に飛び乗って18時間ギュウギュウの満員電車で立ち続けるというこれまでの人生で最高に辛かった悪夢の苦行を行った所でもある。これに比べれば、ゴームクでの氷河から湧き出るガンガーの水での沐浴や、ジャイサルメールでの3泊4日のタール砂漠における灼熱のひたすら意味不明に苦しいだけのキャメルサファリなどは、キャンプ場みたないものに過ぎない。
話が脱線してしまったが、支提山(制多山)部は、三つの教義が特色である。
①菩薩の段階では、未だ悪道を脱していない(菩薩不脱悪道)。
②ストゥーパ崇拝はたいして功徳がない(薮斗陂中恭敬事報少)。
③阿羅漢に五事あり(五事)。
菩薩は悪道(悪趣)を脱していないという場合の、菩薩が、単にお釈迦様の前身の本生譚における菩薩なのか、既に大乗の菩薩観念を前提にしての菩薩なのか、『部執異論』からは分からないが、菩薩=仏ではないという当然の主張であり、万能を有する存在へと進展しようとする菩薩観念への牽制であろう。アマラーヴァティー大塔を中心に発達したと考えられるアーンドラ大衆部が、ストゥーパ崇拝の効果の制限を認めているのは興味深いが、これは出家者でも当時、在家の如くストゥーパ崇拝にのめり込む人達がいたのだろうと推察できる。出家者は、あまりストゥーパ崇拝にのめり込むなよというこれも牽制であろう。それくらいアーンドラ大衆部にとって目前に聳え立つ偉容を誇るアマラーヴァティー大塔の影響が大きかったということでもあろう。マハーデーヴァ(大天)の五事を確認していこう。
1)阿羅漢も何者かの仕業によって夢精する場合がある(他以不浄染汚其衣=餘所誘)。
2)阿羅漢は全知ではない(有無知)。
3)阿羅漢にも自らの悟りに関して疑いが生じる場合がある(有疑惑=猶豫。)。
4)阿羅漢の悟りが、他者によって起こる場合がある(有他度=他令入)。
5)阿羅漢は聖道において「これは苦である」と言葉を発してしまうことがある(聖道亦爲言所顯=道因声起故)。
これらのことがあった場合に、その人は阿羅漢なのかという阿羅漢の定義問題であり、厳格な阿羅漢の定義の緩和である。私事で恐縮だが、筆者は基本夢を見ないので数年禁欲しても夢精しなかった。また悪夢もみない(子供の時に一回だけ見た)。ウィリアム・ジェームズも自分は夢を見ないと言っていたが、すぐに熟睡位に入るようになれば、筆者の経験から言うと夢精しないであろう。しかし睡眠においていつも夢を見るようであっては、阿羅漢であってもその危険は大きいと言えよう(何の話やねん!)。阿羅漢の全知性の否定というのは、知らない人がやって来て、「おい!お前!俺の名前を言ってみろ!」とか言われて、答えられなければ、「お前は全知でないから阿羅漢ではない!」と言われた時の対策である。阿羅漢でも聖道の実践中に「これは苦しい」と言うのかという問題は、筆者がクンダリニー覚醒時に内言において「これはヤバい」と発話したのと似たような問題であろう。これらは実際的な話であり、阿羅漢と言っても人の子であるから、当然、上記のようなことが起こるわけである。大衆部において仏陀の超越性の強調と共に実際面で阿羅漢の基準の緩和が行われていたということが大天五事から分かる。それは阿羅漢の価値下落でもあるわけだが、金銭授受問題同様に理想より現実主義路線を取ったということである。しかしそれが逆に仏陀の超越性を強調することに向かったのは興味深いところである。
【ウッタラシャイラ(北山部)】
碑文から言うと、プールヴァシャイラ(東山部)の名前で記されている。玄奘の時代には、東山部と西山部が、城を中心にして東西にあったと記されている。『文殊師利問経』では、東山部から北山部が分出したと記されている。
【アパラシャイラ(西山部)】
イクシュヴァーク朝の時代、ナーガールジュナコーンダに彼らの碑文が残っている。今後詳しく論じるが、ナーガールジュナコーンダとナーガールジュナは関係がない。インド西岸のカンヘーリー石窟にアパラシャイラの碑文が残る。チベット大蔵経のアヴァローキタヴラタの『プラジュニャプラディーパティーカー(般若灯論複釈)』には、東山・西山にはプラークリットの『般若経』が伝えられていたということである。ラージャグリヤ(王山部)とシッタールティカ(義成部)といった部派の名も伝えられているが、詳細はあまり知られていないので、今回の研究では『部執異論』に記載もないので、省略する。