第4章 第20節の続き2 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む
【ウッデーヒカ】
 
 
 ウッデーヒカ族は、ヴァラーハミヒラによってマディヤデーシュの部族として言及されている。彼らの貨幣は、ジャイプルのやや南の、ラージャスターン州トーンク県のライルフで発見されている。王名としてスーリヤミトラの名が印され、別の硬貨には、スーリヤミトラの名と共に、土地名なのか、詳細不明の「スダパ」という名前が刻印されているものも見つかっている。また「スダパ」の名と共に別の王のドルゥヴァミトラの名が印されている硬貨も発見されている。



 以上の都市を中心にした自治都市国家、君主国家、ガナ制の部族国家、ガナによって選出された王を有するラージャ・シャブディン・ウパジーヴィン制による部族国家、ジャナパダ制による部族国家等の群小国家が、各自で発行した貨幣を主な材料とし、前2世紀からの200年の北西インド、マディヤデーシュの群小国家林立の時代を見てきた。また前2世紀から2世紀ぐらいまでの400年間は、次回の記事で詳しく見ていくが、北西インドに四つの異民族(ギリシア人、スキタイ=サカ人、パルティア人、クシャーナ族)が進出した時代でもあった。従って、当時の群小都市国家・部族国家は、常に外敵の脅威にさらされていたのであり、その中でも群小部族国家は、この四胡の侵入の間歇を縫うように、自らの貨幣を発行し、国家としての共同体を維持していたわけである。ポスト・マウリヤ朝時代の群小部族国家は、独立性を維持しえていたとはいえ、それは自らの生命、家族、財産、共同体を守る為であり、常に緊迫した不安の中で生活していたのは想像に難くない。彼らは世をはかなんでの出家遁世が許されるような環境になかった。こうした混迷の時代、まさしくカリ・ユガと言うべき時代に彼らの発行した硬貨の一部には、彼らの崇拝する神格が刻印されていた。その特徴として、明らかに彼らの崇拝する神格は、ヴェーダ的な要素よりも多分にヒンドゥー的な要素への傾きが確認できる。パンジャーブの最大勢力であったヤウデーヤ・ガナは、彼らの部族神としてカールッティケーヤ神を軍神として崇拝していた。アウドゥムバラ族、アグラティヤ族、シビ族は、シヴァ神を崇拝していたのが確認できるだろう。また女神としてのラクシュミーが富の女神としての性格上、貨幣に刻印されるのが好まれたようである。他方で、部族神的な関わりとは別に、古代のサンスクリット文化の重要な担い手の片翼を担ったパンチャーラ族においては、王の名に関わる神格が硬貨に刻まれていて、これは部族という媒介を経ないで、直接、神と個人の紐帯を予想させるものである。前2世紀以降のクシャトリヤにおいて神との結びつきは、かくの如く明らかにヒンドゥー化の様相を呈していた。ガウタマ・シッダールータの時代においても、ガンガー中流域(サンスクリット文化の中心としてのマディヤデーシュから見れば周縁地域)において、ヴェーダ教への不満や、その限界が釈迦やマハーヴィーラにおいて強く意識されていたのであり、ヴェーダ教におけるブラーフマナ階級を中心とした祭式中心の形骸化が当時進行し、それがクシャトリヤを中心とする民衆と僧侶階級であるブラーフマナ階級との宗教的な需要と供給の構造的な不均衡を生じさせていた。またそうした民衆的な要求に応える形で発展した、一つの宗教的形態がヒンドゥー教とも言えるだろう。サンスクリット文化の中心であるマディヤデーシュにおいて、部族貨幣から判明するのは、かかるヒンドゥー化の進行であり、混迷の時代における民衆は、形骸化した祭式中心の儀式宗教よりも、もっと根源的な宗教感情に満足と慰安を与え、自らを強くする直接的かつ簡易なものを求めていたということが予想できる。安定した社会であれば、ヴェーダ教でも十分であったろうが、野蛮なギリシア人やスキタイ人が侵入してくる中で、ブラーフマナによるヴェーダの祭式が彼ら民衆の心を鼓舞しえたかとなると疑問とせざるを得ない。しかしそうした中にあってさえも、ブラーフマナ階級が自らヒンドゥー教を積極的に推進することは少なかったであろうと考えられる。なぜなら彼らの強みはその口承伝統の正確さ、不変性に基づく保守性にあるのだから。僧侶階級の保守性に対して進取の気性に富みながらも、仏陀やマハーヴィーラの如き宗教的な高い理想や天才性を有しない、クシャトリヤを筆頭とする、宗教を専門としない、素朴な民衆の、神との結びつきの要求がヒンドゥー化の流れを生んだのであり、一部のブラーフマナ階級が、それに乗じて遅ればせながら第五のヴェーダとして受け入れて、ヒンドゥー化を促進させたのだと推定される。こうした時代背景において、シュンガ朝のプシャミトラやカーンヴァ朝のヴェーダ教への回帰は反動に過ぎない。仏教やジャイナ教、ウパニシャッドを生んだ流れがエリート主義的なヴェーダへの批判や反省の流れを形成する一方で、ヒンドゥー化は土着化を伴った名もなき民衆の運動でもあった。しかし、ヒンドゥー化の推進者については、もう少し、ピントを拡大して見る必要がある。これまでの部族国家について筆者は、敢えて疑わしいところの多い、ヴリシュニ族とその発行貨幣について言及を避けてきた。大乗起源史の探求の為の今回の記事は三つのパートに分かれるが、第1パートの最後はまとめの意味を兼ねてヴリシュニ族について見ていくことにする。ちなみに今回の記事の第2パートは、部派仏教における大衆部についてであり、第3パートは、『八千頌般若』を中心とした研究である。というわけでまだまだ先は長いと言える。


 部族貨幣に関して、勘の鋭い読者はお気づきのことと思うが、そこにヴァースデーヴァやナーラーヤーナやクリシュナ神というヴィシュヌ派の神格がほとんど現れてこないということが観察される。紀元前2世紀以降こそが、『バガヴァッド・ギーター』の成立年代であると想定されているにも関わらずである。かくして我々はヴリシュニ族を見ていく前に問いを立てることにしよう。



Q:なぜ部族貨幣にヴィシュヌ系の神格が、ほとんど登場せず、人気がないのか?



    この問いと共に、我々はヴリシュニ族の検討に入る。



【ヴリシュニ族】
 
 
ヴリシュニ族(サンガ)は、ドゥヴァイパーヤナをそれぞれ攻撃して〔滅びた〕。カウティリヤ『実利論』(上村勝彦訳)
 
 
 ラーヒリーや、グプタも部族貨幣の研究において、1章を割いて、ヴィリシュニ族を論んじているのではあるけれども、そもそも前3世紀のカウティリヤの『実利論』の時点における認識において、『マハーバーラタ』で語られている通り、ヴリシュニ族は既に滅亡したものとされていた。ヴリシュニ族は、ヤーダヴァ族の一支族であり、クル族やヤーダヴァ族と共に、群小部族国家が林立する前2世紀から遥か昔に名の知られた古代の部族名であり、部族貨幣の研究においてクル族やヤーダヴァ族の名が全く現れて来ないことからも、前2世紀のマディヤデーシュで活動していると想定するにはいささか違和感を覚える。しかしヴリシュニ族の名の刻印された貨幣がパンジャーブで発見されているので、どうしても彼らを前2世紀以降に存在していた可能性のある部族として論じざるを得ず、かくて当時のヤウデーヤ族やアウドゥムバラ族等と共に部族貨幣論において語られるのを今まで常としていたのである。ヴリシュニ族は、マハーバーラタ時代にはマトゥラー地方を支配していて、後にグジャラートのドゥワールカーに移住したとされる。そしてクルクシェートラの戦いの後には、同士討ちをして滅び去ったというのが、『マハーバーラタ』において語られているところであった。従って、冒頭で引用した通り、紀元前3世紀のカウティリヤにあって、ヴリシュニ族は、ドゥヴァイパーヤナ(クリシュナ)を攻撃して滅んだと言われたわけある。しかるに、一枚の貨幣が群小部族国家林立時代にあって、自らの存在をアピールする以上、そのコインについて最初にここではっきりとさせておかなくてはなるまい。


(ヴリシュニ族のものとされるコイン)

 その硬貨は、表面には、柵に牛の蹄を表すナンディパダと、半分が獅子、半分が象の生き物が印され、ブラーフミー文字で、「vRiSN(i) r(aa)jajJaagaNasya traatarasya 」と記さていて、裏面には十二の輻を有するチャクラが印され、カローシュティー文字で、「vRiSNirajaNNa(gaNasa) tra(tarasa) 」と印されている。ここで問題となるのが、ブラーフミー文字の「raajajJaaa」、カローシュティー文字の「rajaNNa」を如何にサンスクリットに還元し、その読みを確定するかにある。その紆余曲折は、実際にラーヒリーやグプタなどの議論を見て欲しいのだが、裏面の12の輻を有するチャクラは、ヴィシュヌ神の象徴であることを鑑みても、「ヴリシュニ族というクシャトリヤ・ガナの守護者の」(vRiSNiraajanya gaNasya traatuH )という読みがグプタの言うように恐らく妥当であり、それはつまりヴリシュニ族の英雄神であるクリシュナのことを指していると推定される。

(ニューデリー博物館のクリシュナとアルジュナの対話     筆者撮影)

    つまり当時、実際にヴリシュニ族のガナがその硬貨を発行したというよりかは、クリシュナ神を信奉する集団ないし、王によって発行されたというのが恐らくより蓋然性が高いと考えられるのである。マハーバーラタ時代からだいぶ時代が降っているのであるからその硬貨一枚をもってシーラカンスの生き残りのように当時、パンジャーブにヴリシュニ族の生き残りによって、ガナ制の国家が存続していたというのは、やはり無理があると筆者にも思われる。従って当時、クル族やヤーダヴァ族の硬貨が存在しないのと同列に、ヴリシュニ族が発行した硬貨も存在しないと考える方が無難であろう。もし仮にヴリシュニ族の共同体が存続していたとしても、グジャラートのドゥワールカーの移住先周辺にいたのであればまだ分かるが、パンジャーブにその集団が存在していたというのはかなり可能性が低いと結論せざるを得ない。とは言え、たとえヴリシュニ族が当時滅亡していたとしても、彼らの名は、原『マハーバーラタ』を通じて、人口に膾炙していたのは事実であり、ヴリシュニ族のサンカルシャナ・バララーマとヴァースデーヴァ・クリシュナの兄弟やその子供と孫を含めたパンチャ・ヴリシュニ ・ヴィーラ(ヴリシュニ族の五英雄)に対する信仰を表す碑文が様々な地域に残っているので、次にそうした碑文をとおして原(ウル)・ヴァースデーヴァ・クリシュナ信仰に迫ってみたいと思う。

 原ヴァースデーヴァ=クリシュナ信仰を検討する上で、部族国家においてなぜヴァースデーヴァ=クリシュナの貨幣がそれほど多くないのかという問いに答えておこう。つまり部族貨幣を発行した人々の集団は、ヴァースデーヴァがヴリシュニ族の英雄神であり、決して自分達の部族神ではないということを知っていたからであり、当然彼らが、自らの部族神を差し置いてまで、ヴァースデーヴァを全面に押し出すことはなかったということがその理由である。それではまず初めに我々が見ていくのは、シビ族の拠点であったマディヤミカーことラージャスターンのナーガリーのハーティバーダー・コースンディー碑文(前2世紀~前1世紀)である。それは、当時のナーガリー地方を支配していたサルヴァタータ王によって造営されたナーラーヤナ・ヴァタカという宗教施設を記念した碑文であり、そこでバガヴァトであるサンカルシャナ(=バララーマ)とヴァースデーヴァ(=クリシュナ)の名とが、並立して登場し、彼らへの崇拝が述べられている。
 次に、かなり北上してアフガーニスターンのアイ・カヌームで発見されたバクトリア王国の王アカトクレース・デイカイオス(在位前180~前170)の発行したコインがある。そこにはハーティーバーダー・ゴースンディー碑文と同様にサンカルシャナとヴァースデーヴァがそれぞれ刻印されている。

(左が兄サンカルシャナ、右がチャクラを持つヴァースデーヴァ)

 続いて今度は南下してデカン高原の南西部のナーネーガート窟碑文(前1世紀頃)である。ここでもダルマやインドラ、ローカパラ(方位の守護神である)であるヤマ、ヴァルナ、クベーラ、ヴァーサバ達と共にサンカルシャナとヴァースデーヴァへの帰依が、サータヴァーハナ朝の王妃により表明されている。

    以上三つの例から分かるのは、既に前2世紀から前1世紀の我々がこれまで検討してきた、群小部族国家林立時代にかなりの広範囲にサンカルシャナ=バララーマとヴァースデーヴァ=クリシュナ信仰が広がっていたということである。ヴァースデーヴァ=クリシュナ信仰の拠点とも言うべきマトゥラーにおいてモーラー井戸碑文(1世紀)においては、二神の英雄兄弟神の崇拝は、その子供であるプラデュムナ(クリシュナの息子)、サンバ(プラデュムナの異母兄弟)、アニルッダ(プラデュムナの息子)を取り込んで、パンチャ・ヴリシュニ・ヴィーラ(五人のヴリシュニ族の英雄神)に発展しているのが確認できる。前々回の記事で公準として述べた、「教えの拡大は時間軸に沿って放射状に拡大する」という原理をここに適用すれば、マトゥラーやクルクシェートラなどを含むマディヤデーシュを本来震源とするヴリシュニ族の英雄神であるサンカルシャナ=バララーマとヴァースデーヴァ=クリシュナへの信仰は、前2世紀よりも相当前に遡ることができると公準より推測でき、アフガーニスターンやデカン高原に南北に教線が伸びていたということは、東西にもその教線が延びてたと考えねばならない。

(マトゥラーを中心にヴァースデーヴァ教の確認できる前1世紀頃の南北両端を結んだ線)

    また彼らの信仰はヤーダヴァ族やヴリシュニ族という部族神という垣根を突破し、バクトリアやサータヴァーハナ朝にもその信者を得ている以上、そこに前2世紀以前に既に局地的な部族英雄神としての性格を脱却して、普遍宗教的な神性を獲得としたものと推定されるのである。それを明証的に呈示するのはタクシャシラーの大使であったギリシア人のヘーリオドーロスがヴィディシャーに建立した有名なガルーダ柱碑文 (前113)である。そこでこのギリシア人のヘーリオドロースは、デーヴァデーヴァ(神々の神)としてヴァースデーヴァへの信仰を表明しているのである。ギリシア人をしてヴァースデーヴァを信仰させるには、それなりの求心力がヴァースデーヴァ教にあったと考えられ、ヴリシュニ族の部族英雄神という性格を止楊し、普遍宗教としての神格をヴァースデーヴァ=クリシュナが獲得していたと推定される。前5世紀の文法学者パーニニは4巻3章98説で、ヴァースデーヴァをアルジュナと並べて説明していることや前3世紀のマウリヤ国の宰相とも伝えられるカウティリヤがヴリシュニ族の滅亡を語っていることからも分かるが、かなり古い時代から既に原(ウル)『マハーバーラタ』ともいうべき物語が存在していて、それが広くパーニニのガンダーラ地方やマガダ国のカウティリヤ、そして時代が降れば、デカン高原の王妃に至るまで拡大していたのである。かくて次に問われるべきは、「如何にしてヴリシュニ族の部族英雄神であるヴァースデーヴァに対する信仰が、かくも広範囲に部族神の制約を脱却して普遍宗教としてその教線を拡大しえたのか?」ということになる。
 ここで確認しておきたいのは、口承伝承の形態である。それを筆者は、パーソナル・メディア型とマス・メディア型とに差し当たって分類しておきたい。すなわち、ヴェーダやウパニシャットの教えや仏陀の教説などは、基本的に父から子へ、師から弟子へのパランパラ(伝承)の内密な関係性に基づくパーソナル・メディアによるのであり、当然のことながらこうした伝承は、民族や地域を越えて拡大するには障壁があると言えるし、意図的に布教をしようとでもしない限り、広範囲な拡がりは期待できない。翻ってマス・メディア的な一対多の口承は、それが深い教えを呈示するには、パーソナル・メディアに比して難ありだが、その伝播のスピードや伝承対象は、家族、部族、民族、地域の垣根を越えて容易となる。かくてこうしたマス・メディア的な口承伝承の存在をもってして始めて、ヴァースデーヴァ信仰が拡大したことを説明できると信じる筆者は、次に当時のヴァースデーヴァ教の拡大・推進を担った人々が、どういった人々だったのかの検討をしていきたい。とは言え、もったぶる必要は微塵もなくて、『マハーバーラタ』の物語は、スータと言われる、吟遊詩人達によって伝えられたと知られている。『ラーマーヤナ』は、クシーラヴァと言われる遊歴詩人・芸人のグループによって広く歌われたのだった(横地  2007)。そしてプラーナもスータによって流布したのである。つまりこうした吟遊詩人・芸人グループであるスータ、クシーラヴァの線上にこそ、ヴェーダ教のパーソナル・メディア性の垣根を越えうる可能性の領野が開けていたのであり、彼らこそがノマド的にインドを広く渡り歩くことによって、マス・メディア的な役割を有しつつ、部族英雄神であるヴァースデーヴァを普遍宗教的神格に昇華した当事者、推進者、担い手であったと推論できるのである。彼らにはそれぞれの口承文化を技術交換する機会も多かったと見え、『マハーバーラタ』には『ラーマーヤナ』の物語がそのまま挿入されているのも、彼らの交流の現れと言ってもいいだろう。人気のある出し物であれば、自らのレパートリーに加えたいというのは、彼らがいわば日本の講談師や落語家などと同類であると想像すれば、理解できることと思う。ちなみにスータは、『マヌ法典』においては、父親がクシャトリヤ階級であり、母親がブラーフマナ階級の間に生まれ者達と規定されていて、ある種、境界の人々であった。彼らは、戦時は御者として、平時は、物語の語り部として生活していた。父親の血統からは英雄物語の伝承を、母親の血統からはヴェーダなどの宗教性を獲得した彼らは、それぞれの階級からは不純なもの、疑わしいものとして見られていたことは想像に難くない。しかし、彼らは自らの境遇の曖昧さを、その鬱屈を結果的にヒンドゥー教として昇華させたのであった。そして彼らは大衆の兄貴分として広場や、祭礼においてその物語を語り、大衆の人気を博したものと想像される。古い例えで恐縮だが『踊るマハラジャ』のラジニーカーント演じる主人公の御者のムトゥを想像して貰えば、だいたい彼らの性格がどういったものか小説的な想像によって理解できること思う。






    ギリシア人やサカ人の侵入し、ポスト・マウリヤ帝国の時代は混迷の時代であり、その時代は部族貨幣の研究からも分かるようにヴェーダの教えが背景に退き、ヒンドゥー的な神格が前面に出てきた時代であった。そしてその強力な推進者は、不安と恐怖と隣り合わせの民衆に慰安と勇気を与えようとした原『マハーバーラタ』を歌うスータ達であった。クリシュナが御者としてクルクシェートラに参陣するのも、ある種彼らスータの反映であり、彼らの代表として、という穿った見方も可能であろう。彼らはマス・メディア的な手法をもって、『マハーバーラタ』のヴァースデーヴァを部族英雄神からギリシア人にさえ信仰を持たせるような普遍宗教の神へと昇華させたのである。筆者は部族貨幣のまとめで、ヒンドゥー教化の流れは、仏陀やマハーヴィーラのような宗教的天才性を有しない、クシャトリヤを筆頭とする素朴な民衆の神との結びつきの要求によって生じたと述べたが、ヒンドゥー教という大衆運動、思想運動の原動力という点ではそうしたものであったというのは疑いえないが、『バガヴァッド・ギーター』の核の部分には、仏陀やマハーヴィーラに匹敵するような宗教的な天才の霊感が少なくとも一人以上は必要であったと筆者は考えるものである。『バガヴァッド・ギーター』に比べれば、『新・旧約聖書』や『クルアーン』は、賎民的な卑俗さの印象が脱ぐえないし、パラノイア的過ぎるのである。また『老子』は消極主義過ぎるし、仏陀の教えはこれ一点というものがなく、まとまりに欠ける嫌いがある。『バガヴァッド・ギーター』をこの世に生み出すには少なくとも一人の宗教的霊感にみたされたラーマクリシュナ的人間が必要であったはずなのである。それがヴァースデーヴァその人なのか、それを語った最初のスータであったのかは筆者の与り知らぬところではあるけれども。それでは今回の記事の第1パートを纏めよう。
 
①前2世紀からの200年の時代は、大帝国であったマウリヤ帝国が崩壊したポスト・マウリヤ帝国の時代であり、北西インドは異民族の侵入に脅かされていて、様々な群小部族が独自の貨幣を発行した地域的な分権の進んだ混迷の時代であった。
 
②その時代の大衆の要求に応える形で、パーソナル・メディア的性格の強いヴェーダ教は、マス・メディア的な性格を有するスータ達によってヒンドゥー教として刷新された。すなわちこの時代はヒンドゥー興起の時代であった。
 
③部族英雄神であったヴァースデーヴァは、マス・メディア的な役割を担うスータ達により普遍宗教化した神格へと昇華され、アフガーニスターンからデカン高原へと民族や地域の垣根を越えて、伝播した。
 
④言うまでもないこととして論じていないが、『バガヴァッド・ギーター』の教えとは、戦いにおいても神を念想して戦えば、ヴァースデーヴァ=クリシュナに達し、解脱に達するという教えであり、出家をしなくとも、在俗のまま自らの義務を果たしつつ解脱できるという教えである。それは当時の混迷の時代にあって、自らの部族を守る為に出家などするわけにはいかなかった部族民や都市の民衆の要求にマッチしたものであった。
 
⑤ヒンドゥー化とは大衆の要求に応えたものであり、その民衆源泉を考慮することぬきには考えられないものである。それはかまびすしい広場や、集会、祭礼のスータ達のマス・メディア的言語において伝播したものであった。
 
 
 かくてヒンドゥーの大衆運動は、日本の仏教研究家が考えるよりも強烈なインパクトをもってインドに波及していたことが上記より理解されたことと思う。これでようやく大乗仏教起源史を考察する上で必要な補助線が一つ引かれたと見てよい。混迷の時代において大衆の要求に応えるスータ達のマス・メディア的な伝達手段による、叙事詩から派生したヒンドゥー教化の強烈な波。これが出家主義を唱える仏教教団を支える在家の人々が彼らの日常の、広場や祭礼において接していた現実なのである。これは大乗仏教経典のテクストからは読み取れないその背景に存在した時代性のコンテクストである。本来ここまでの内容だけでも400頁に渡って展開可能な内容であり、そうあるべきものだったかも知れない。しかし、我々の目的は大乗仏教起源史の探求であるから、これくらいの軽い内容で本題ではないヒンドゥー起源史の問題は差し当たって満足しておかなくてはなるまい。というわけで次に今回の記事の第2パートである大衆部の研究に進むとしよう。

 根本分裂が、実際にいつ起きたのかに関しては、南北の伝承に相違があるので、明確に決定することはできないが、釈迦入滅後、すぐに第1回のサンギーティ(結集)が行われ、仏滅後約100年後に行われたヴァイシャーリーでの第2回の結集の結果、生じたもののようである。
 ことの起こりは、ヤシャ・カーカンダカプッタ比丘がヴァイシャーリーに滞在した折に、ヴァイシャーリーの比丘達が在家の信者から金銭の授受をしているのを目撃したことに端を発する。それをヤシャが律に違反する「不浄」として咎めたところ、逆ギレされて、ヴァイシャーリーのヴァッジプッタカ比丘らがヤシャを信者の浄心を誹謗するものとし、大衆部の『摩訶僧祇律』によれば、ウッケパニーヤ・カッマ(挙罪羯磨=比丘の停権を決定すること)にかけて追放したのであった。上座部の律蔵によれば、さらに事件は詳細になり、ヤシャが金銭授受を不浄として咎めたところ、いったんヴァイシャーリーの比丘らは、ヤシャをパティサーラニヤ・カッマ(下意羯磨=在家人に謝罪をさせること)に決定した。ヤシャは在家に向かって、金銭授受が非法であると告げて、説得しようとした。そこでヴァッジプッタカ比丘らは、ヤシャをウッケパニーヤ・カッマに決定し、追放した。そこでヤシャは、お釈迦様が決めたことに明らかに違反しているヴァイシャーリーの比丘達の行動を問題し、『摩訶僧祇律』によれば、マトゥラーのダサバラに応援を求めた。上座部系の伝承はさらに詳細で、ヤシャは西の比丘達に応援を求めて、コーシャンビーに至り、そこからパーテーヴィヤ(コーサラ国の西、サーンカーシャ周辺、マトゥラーも恐らく含む)、アヴァンティ(ウッジャイン周辺)、ダッキナーパタ(デカン高原)の比丘達に応援を求めた。かくて大雑把にいえば、金銭授受などを巡り、最終的に東西700人の比丘が、マトゥラー(磨偸羅)、サーンカーシャ(僧伽舎)、カンニヤークブジャー(羯両耆)、シュラーヴァスティー(舎衛城)、サーケータ(沙祇)などから、ヴァイシャーリーのヴァールカ・サンガーラーマ(沙堆僧伽藍)に集まり、最終的にヴァイシャーリーの比丘が行っていた十事(金銭授受など)を非法と決定したのであった。これに反発したのがヴァッジプッタカ比丘らであり、彼らは別にマハーサンギーティ(大合誦)と名付ける結集を行った。こうして東のヴァイシャーリーの比丘を始めとしたマガダ国の比丘達は、時代の変化に適合するように律に対して寛容な態度を取り、西の比丘はお釈迦様以来の律に対して厳格な態度を保ち、教えの保守に回ったのである。こうして東西冷戦さながらに、東西の比丘達の律を巡る争いから根本分裂が生じたのである。
 このような根本分裂の時代は、アショーカの時代にあたる。アショーカの統治は、紀元前268年~前232年頃までのおおよそ40年である。こうした根本分裂後の教団の争いにアショーカが介入したことが知られている。それがアショーカの破僧伽に関する法勅である。現在、三つの碑文が知られている。一つ目は、コーシャンビー小石柱法勅、二つ目は、ヴィディシャー近郊のサンチー小石柱法勅、そして三つ目が、ヴァーラーナスィー近郊のサールナートのパータリプトラ周辺に向けて発布されたサールナート小石柱法勅である。コーシャンビーのものを塚本啓祥訳から引用しよう。
 
 
天愛(アショーカ)はコーサンビーにおける大官に指示する。……和合が命じられた。……僧伽においては認められない。比丘あるいは比丘尼にして僧伽を破つものは、白衣を着せしめて、住処(精舎)でない所に、住せしめなければならない。
 
 
 
 アショーカがこのような法勅を発布したということは、言うまでもなく、アショーカ在位の当時、僧伽における争いや分裂が目に余る状態になっていたからである。このような根本分裂の時代における破僧伽とその解消の条件などの事情については、佐々木閑の『インド仏教変移論』(2000)が詳しい。



    それをすべて紹介することはできないが、簡単にまとめると佐々木の論の要旨は、当時、アショーカの時代に厳格な破僧伽の定義に変更があり、その変更にアショーカが関わっていたとされる。もともとの破僧伽の定義は、デーヴァダッタ事件などに関連してチャクラベーダに基づき規定されていた。つまりチャクラベーダとは、仏陀の教説に反する者を破僧に処する律の規定である。十人十色、百家争鳴ではないが、仏陀の教説が仏教教団において絶対的なものであっても、やはりその解釈には相違がでるのは当然であるし、時代に即して律の解釈に若干の変化を加える必要がでるのは、仕方がないと言えば仕方がないわけであるが、それをすべて排斥し、異端審問の如く糾弾していけば、争いや分裂は裂けがたくなるのは必定である。こうした状況において佐々木は詳細な律の分析をとおして大衆部の『摩訶僧祇律』にチャクラベーダとは異なる破僧の定義としてのカルマベーダを見出だす。カルマベーダの破僧伽の規定は、内面の思想的な相違を一端棚上げにして、外面的な「同一僧団内で比丘達が二派に分かれ、別々に僧団行事を行うこと」とされる。また破僧伽の解消としてはサマッガム・ウポーサタカッマ(和合布薩)を挙げ、「界内の比丘が、再び一緒になって布薩することが破僧状態の解消」と端的に示される。こうしたチャクラベーダに追加されたカルマベーダによる破僧の定義と解消法を、南方分別説部のパーリ律や法蔵部の『四分律』、化地部の『五分律』には認められるものの、有部の律である『十誦律』と『根本説一切有部律』に認められないことから、カルマベーダを受け入れなかった僧団として有部が浮き彫りとなる。大衆部はカルマベーダの推進者であり、有部はカルマベーダを受け入れず、上座部の中で最も保守的な部派として、古来のチャクラベーダをそのまま維持したのである。南方分別説部や法蔵部、化地部は、アショーカの働きかけによって、大衆部の推進するカルマベーダを不承不承に受け入れたのであった。こうして僧団内部に内的な思想の多様化を生じさせる発生原因が生じたことこそが、大乗仏教の発生原因であると佐々木は、結論づける。
 とは言え、佐々木のこのカルマベーダ論は、仏陀の根本の教えをAとすれば、そこから様々に多様化し、派生する多様なる仏教思想の同一レベルにおける系列を説明しているに過ぎない。それはつまり、
 
 
A(仏陀の教え)→(B,C,D,E,F…)
 
 
 佐々木のカルマベーダ論は上記の多様化を説明しているのであるが、筆者がこれより説明するのは、M(マハーヤーナ)が、この(B,C,D,E,F…)の系列と、同一レベルでは語れないものであり、この系列と全く異なる平面上に存在するところに、大乗仏教の本質特性があり、それこそが仏教研究家が根本的に大乗仏教の起源を考察する上で狙った獲物を逃してしまう理由であるということを示したいと思うのである。

 次回の記事で上座部の枝末分裂について述べるので、今回は必要最低限のものとして、大衆部の分派について地理的にできる限り関連付けながら述べていくことにしよう。マハーサンギカ(大衆部)は、カルマベーダをもって破僧を定義し、サマッガム・ウポーサタカッマ(和合布薩)によって教団の分裂を実際に防ぎえたかと言うと、残念ながらカルマベーダによって分派を防止することはできなかったようである。根本分裂で見たように、大まかにいえば、ヴァイシャーリーやマガダ国と言った東の国が、大衆部の発祥地であり、西部やデカン高原、そして北西部は、主に上座部の勢力範囲と言うことができよう。初めに確認したが、アショーカ死去後、僅か45年にしてマウリヤ帝国は崩壊し、ヴェーダ教を信奉するプシャミトラがシュンガ朝を建国したのだが、その時代に仏教徒側の伝承では、パータリプトラのクックトゥアーラーマ僧院は、プシャミトラに襲撃され灰塵に帰したのであった。それが事実にせよ、他の者が行ったにせよ、パータリプトラの仏教教団に何らかの攻撃が加えられた可能性は高いと言えるだろう。ヴァイシャーリーやマガダ国に主な拠点を有していたと想定される大衆部にとって、それは苦難の時代の始まりであった。

    ギリシア人デーメートリオスやマハーメーガヴァーハナのカーラヴェーラが、マガダ国を蹂躙していった記憶は生々しく僧侶達に残っていたし、クックトアーラーマ僧院が灰塵に帰したことは膿んだ傷口のような思い出として、「諸行無常」を常に頭にあっても、教団に暗い陰を投げかけていた。シュンガ朝の代々の王は、ヴェーダの信奉者であり、もはやアショーカ王の与えたような昔日の強力な庇護を期待することはできなかった。北西からは、スータの一行がヒンドゥーの教えを織り交ぜた『マハーバーラタ』の18日間に渡る興行をもってパータリプトラの大衆の喝采を受け、時にヴァースデーヴァ=クリシュナに帰依すれば、自らの世俗の義務を果たしながら解脱に達することができると法悦の表情を浮かべながらクルクシェートラの戦いと共に祭礼で説くのが見られた。サンチー近くのヴィディシャーでは、それを真に受けたギリシア人の大使がヴァースデーヴァを讃える石柱を建てたと言った噂がパータリプトラにも流れてきていた。齢80にもならんとする長老が「出家もせずに解脱できれば苦労はない」と小さい声で呟くのを聞いたものがいた。在家のものより今朝受け取った若い僧侶の手の内の貨幣の裏面には、太陽を表すチャクラと共に「ヴリシュニ族の軍団の庇護者のもの」という刻印がなされていた。

    多少、小説めい想像力をもって書けば、こういう状況が紀元前2世紀以降の大衆部の状況であった。
 マハーサーンギカ(大衆部)からの分派史を考察する上で、資料となるものは複数存在するが、①スリーラーンカの上座部大寺派所伝の『ディーパヴァンシャ(島史)』や、②説一切有部のヴァスミトラ(世有)の作とされる『サマヤベードーパラチャナチャクラ(パラーマールタ訳の漢訳名は部執異論、玄奘のは異部宗輪論)』、③バーヴィヴェーカ(清弁)の『ニカーヤベーダヴィバンガヴィヤーキヤーナ(異部分派解説)』の上座部所伝(第一説)・大衆部伝(第二説)・正量部伝(第三説)、④大衆部所伝の『舎利弗問経』、⑤『文殊師利問経』などを挙げることができる。これら全てを比較して、最も妥当性のある分派史を描くのは筆者の手に余るので、我らがウッジャイニー代表であり前回の記事でも登場したパラマールタ(眞諦)訳の、『部執異論』と大乗仏教起源史の筆者の独自研究における最も重要な知見を与えてくれた『部執異論』の注釈であるパラマールタによる『部執異論疏』の散逸したものが引用されている嘉祥大師こと吉蔵の『三論玄義』や、我が国の中観澄禅の『三論玄義檢幽集』(1280)、聞証の『三論玄義誘蒙』(1686)などを基に論じていきたい。 
 『部執異論』によれば、①マハーサーンギカ(大衆部)より、
 
 
②エーカヴィヤーヴァハーリカ(一説部)
③ローコーッタラヴァーディン(出世間部)
④クックリカ(灰山住部)
 
 
 がまず分派したとされる。これら大衆部、一説部、出世間部、灰山住部は、基本の教えは同一である。「諸仏世尊は、皆、この世のものを超越している(出世間)」から始まり、49の特徴が挙げられるが、特徴としては、仏が超越的な存在として、いわゆる「人間的な、余りに人間的な」要素を払拭され、人間釈尊から超人釈尊への道を進んでいるのが見て取れる。これは次回見ていくが、ジャータカの本生譚を取り込んだ仏陀観の発展を跡付けうるものと考えられる。またマハーデーヴァ(大天)の五事が挿入されてもいて、阿羅漢の基準の緩和と、阿羅漢の限界が意識されていることが分かる。『部執異論疏』を引用している『三論玄義』及び『三論玄義檢幽集』から一説部の教えの特徴について見ていこう。
 
 
【エーカヴィヤーヴァハーリカ(一説部)】
 
 
 パラマールタによれば、一説部は執・生・死・涅槃は皆、仮名であるとし、世俗の存在も、出世間(世間を超越した)の存在も、ことごとく、仮名にして、一切の存在は無自性(無実体)であると述べる。全てが無自性でるからこれを「皆仮名」の一名のもとに捉えることができ、それ故に一説と名付けるのである。仮名を空と言い換えて、形而上学的な存在として捉えれば、それは般若経の大乗思想の「空」となるわけだが、そこを踏み止まっているのである。しかしこれは6世紀のパラマールタの解説であることは注意が必要である。2ヶ月前には、あまり情報が整理てきてなかったので設仮部(多聞分説部)が、大乗に最も近い発展形を示していると筆者は予想をつけていたが、それは誤りで、現在の筆者は、一説部の思想が大乗思想に最も近い部派であったと推定するものである。一説部を地理的情報は後程まとめて述べる。
 
 
 
【ローコーッタラヴァーディン(出世間部)】

 
 出世間部は、世間法(世俗的な存在)は、顛倒(無常・苦・不浄・無我を常・楽・浄・我と見なすこと)によって生起し、仮名に過ぎず、出世間法(ブッダの法など超越的存在)が真実の実在であると説いた。静谷正雄は、『小乗仏教史の研究』で出世間部の二諦説は、一説部の急進的な思想に対する緩和的なものであると述べている。有名な『マハーヴァストゥ・アヴァダーナ』は出世間部の律蔵に属する。『マハーヴァストゥ』において、菩薩の十地など大乗思想の浸食が見られる。
 
 
 
【クックリカ(灰山住部、鶏胤部)】
 
 
 灰山住部は、パラマールタ曰く、彼らが住んでいた山の石は灰を作るのに適していた為に、灰山と呼ばれ、そこに住んでいたから灰山住部と名付けられたとされる。石灰石を焼くことで石灰が作られることが知れているので、石灰石を産出するところから特定できるかも知れないが筆者の能力に余る。また『論事註』では、「一切世界は苦の熱灰(kukkula )に過ぎない」と言う彼らの主張から来たとも言われる。『ディーパヴァンシャ(島史)』は、彼らをゴークリカと呼び、静谷はゴークラをクリシュナの成育した土地であるヴリンダーヴァンやマトゥラーと結びつけて、マトゥラーに大衆部の拠点があったことを根拠にゴークラは、マトゥラー大衆部のことであると自説を述べている。その他に玄奘の鶏胤部(クックティカ)という名称から、パータリプトラのクックターラーマ(鶏園)やコーシャンビーの同名のクックターラーマと関連づけられそうでもあるが、その関連性を裏付ける資料はない。『文殊師利問経』ではこの部派の名前は、最初の指導者の名前から取ったと述べられている。灰山住部には、アビダルマを重視したという記述以外、あまり教義について説明はない。

 一説部、出世間部、灰山住(設仮)部は、一つの資料を除いて、場所の記述がない。唯一、記述があるのが、何を隠そう、我等がウッジャイニー代表、パラマールタの散逸した『部執異論疏』にのみ、その記載があり、それを引用しているのはパラマールタがその僧名を付けた嘉詳大師こと中国僧、吉蔵(549~623)の『三論玄義』と、三論玄義を注釈した日本の僧、聞証の『三論玄義誘蒙』(1686)のみである。『三論玄義』では『部執異論疏』から引用しているという言明がないが、聞証は「疏」から引用していると言明しているので、ほぼ『部執異論疏』からの引用であると考えて問題ない。従って、以下の内容はウッジャイニー出身の6世紀のパラマールタの一説部・出世間部、灰山部に対する見解ということになる。また場所の記述以外に大乗の伝播の三つの仕方が述べられているので、大乗起源論の考察において非常に重要である。全文、聞証の『三論玄義誘蒙』より引用する。恐らく吉蔵のは、自ら要約したものと考えられる。
 
 
 
 
疏云。第二百年大衆部併度行央崛多羅國。此國在王舍城北。此部引華嚴・涅槃・勝曼・維摩・金光明・般若等諸大乘經。於此部中有信此經者。有不信此經者。若不信者謗言無般若等諸大乘經。言此等經皆是人作非是佛説。悉簡置一處。還依三藏根本而執用云。小乘弟子唯信有三藏。由不親聞佛説大乘故爾。復有信受此經者自有三義。一或由親聞佛説大乘故信受此經。二能思擇道理知有此理故信受。三由信其師故信受師所説也。其信大乘者一説部。不信者出世説部也。灰山住部唯執毘曇不關信不信。故云二部也。
 
 
 
疏に云う、第二百年、大衆部は併度し、央崛多羅国(アンゴータラ)に行く。此の国は王舍城の北に在り。此の部は華厳・涅槃・勝曼・維摩・金光明・般若等の諸の大乗経を引く。此の部の中には此の経を信ずる者有り、此の経を信ぜざる者有り。若し信ぜざる者は、謗言し般若等の諸の大乗経の無しを言う。言いて此等の経は皆、これ人の作りしものにて、仏の説く所に非ずと。悉く一処に簡置し、還って三蔵の根本に依って用を執ると云い、小乗の弟子は唯だ三蔵有ることを信ず。由りて仏の大乗を説くを親しく聞かざる故にのみなり。復た、此の経を信受する者有るは、自ずから三義を持つ。
 
一には、或いは仏の大乗を説くを親しく聞くが故に此の経を信受す。
二には、道理を思擇して此の理の有ることを知るが故に信受す。
三には、其の師を信ずるに由りて、故に師の説く所を信受す。
 
其の大乗を信ずる者は一説部なり。不信の者は出世説部なり。灰山住部は唯だ毘曇を執りて信不信に関せず。故に二部と云う。
 
 
 まず一説部、出世間部、灰山部は、アンゴータラ(央崛多羅國)に大衆部が伝播して生じた部派であるということである。アンゴータラとは、ウッタラ・アンガ、北部アンガ国であり、アンガ国は、カーラヴェーラの侵略を受けたアンガ国のガンガーを境に北岸の地域であると考えられる。詳しく以下の中央学術研究所のアングッタラーパ国のPDFをダウンロードしていただければ、詳細の記載がある。そしてこのアンゴータラ国で大乗を取り入れた部派が、一説部であり、それを拒否したのが出世間部であり、我関せずとばかりにアビダルマを部派の中心においたのが、灰山住部なのである。大乗経典が仏滅二百年後にあったという記述は、パラマールタの錯誤であると考えられるが、口承伝承としての大乗的なものをいち早く取り込んだのが、どうやらパラマールタの大衆三部論に基づけば一説部だったということになる。
 また大乗の三つの伝播・伝承形式をパラマールタが述べているのは、非常に重要である。それは
 
 
①伝聞によって大乗を仏の教えと信じることによって
②自ら大乗の教えを理論的に勘案し、信じることによって
③大乗を信じる師からの伝承によって
 
 
 この三つが大衆部内において如何に大乗が伝播したかというパラマールタ説の三つの伝承伝播形式である。それは、創始者を伝えているわけではないが、大乗伝播に関する貴重な見解である。
    ここまでの大衆部についてまとめると、大衆部は仏滅百年後の根本分裂によって生じ、それはヴァイシャーリーやマガダを中心とする地域によっていたが、その後、さらに東進してアンゴータラにて、一説部、出世間部、灰。山住部に分かれたというのが、ウッジャイニー出身のパラマールタ(六世紀)による大衆部の説明である。碑銘からいうと、マトゥラーやコーシャンビー、ガンダーラなどに大衆部の拠点があったことが知られているが、大まかにいって、大衆部の発生原因である東西の争いであった根本分裂の震源地に基づくと、大衆部の割合は、東に勢力を有し、東高西低型であったと考えられ、逆に上座部は西高東低型であったと考えられる。


(オレンジのところがおおよそのアンゴータラ国であり、マガダ国、ヴェーシャーリー、アンガ国との位置関係が分かるであろう)

 順番としては次に多聞部と分別説部(設仮部)を論じるべきなのであろうが、この二部の研究においてこそ、大乗仏教起源史を考察する上で、筆者の仮説の根幹を成す知見の材料を提供してくれることになる部派なので、後に回して、先に大衆部で最も分かりやすい、アーンドラ派(アンダカ派)の大衆部を先に見ていく。初めに断っておくが、大乗仏教起源史の考察において、アーンドラ地方はそれほど重要度は高くない。最重要地域は、今回の記事の第3パートで述べるが、アーンドラ地方より北、マヘーンドラ山脈を越えたカーラヴェーラ王の支配していたマハーメーガヴァーハナ朝のカリンガ地方とナーグプルを有する南コーサラ地方である。従って、アーンドラ地方は、大乗仏教起源史の考察においては、そこが特に重要性は高くなく消去法の材料を提供するという役割以外は特に有していない。
 アーンドラ・プラデーシュにおける大衆部については、塚本啓祥の『アンダカ派の形成』がPDFでネットから簡単に拾ってこられる上に、よく整理されているので分かりやすい。さらに詳細は、静谷正雄の『小乗仏教史の研究』などがある。筆者はこれらを参考にしながら、パラマールタの『部執異論』を基本に話を進める。アーンドラ派大衆部は、、南北両伝承においてマハーデーヴァ(大天)による分派とされる。
 
 
【チャイティヤギリ(支提山部)】
 
 五事の提唱で有名なマハーデーヴァ(大天)が、ヴィジャヤワーダーのクリシュナ川を挟んだ南岸の有名なアマラーヴァティー大塔のあるダーニヤカタカのチャイティヤギリ(チャイティヤ・シャイラ)に住していた為に、その名が付いた。ちなみにダーニヤカタカは、『華厳経入法界品』で善財童子が、マンジュシュリー菩薩(文殊師利法王子)に出会いインド全土を巡る遍歴の旅の基点となった街でもある。玄奘は、この街の南にヴェーンギーに住していたディグナーガの影響を受けたバーヴィヴェーカ(清弁、6世紀)の入定窟があり、空海同様に弥勒菩薩の到来を待ち続けていると語っている(ディグナーガの住んでいたヴェーンギーからバーヴィヴェーカの住んでいたダーンニヤカタカまでは、距離にして85キロぐらいである)。ちなみに筆者は、12のジョーティルリンガのあるシヴァ神の聖地シュリーシャイラに行く為に、ヴィジャヤワーダーに行ったことがあるが、そこからチェーンナイーに行く為に、満員の二等列車に飛び乗って18時間ギュウギュウの満員電車で立ち続けるというこれまでの人生で最高に辛かった悪夢の苦行を行った所でもある。これに比べれば、ゴームクでの氷河から湧き出るガンガーの水での沐浴や、ジャイサルメールでの3泊4日のタール砂漠における灼熱のひたすら意味不明に苦しいだけのキャメルサファリなどは、キャンプ場みたないものに過ぎない。
 話が脱線してしまったが、支提山(制多山)部は、三つの教義が特色である。
 
①菩薩の段階では、未だ悪道を脱していない(菩薩不脱悪道)。
 
②ストゥーパ崇拝はたいして功徳がない(薮斗陂中恭敬事報少)。
 
③阿羅漢に五事あり(五事)。
 
 
 菩薩は悪道(悪趣)を脱していないという場合の、菩薩が、単にお釈迦様の前身の本生譚における菩薩なのか、既に大乗の菩薩観念を前提にしての菩薩なのか、『部執異論』からは分からないが、菩薩=仏ではないという当然の主張であり、万能を有する存在へと進展しようとする菩薩観念への牽制であろう。アマラーヴァティー大塔を中心に発達したと考えられるアーンドラ大衆部が、ストゥーパ崇拝の効果の制限を認めているのは興味深いが、これは出家者でも当時、在家の如くストゥーパ崇拝にのめり込む人達がいたのだろうと推察できる。出家者は、あまりストゥーパ崇拝にのめり込むなよというこれも牽制であろう。それくらいアーンドラ大衆部にとって目前に聳え立つ偉容を誇るアマラーヴァティー大塔の影響が大きかったということでもあろう。マハーデーヴァ(大天)の五事を確認していこう。
 
1)阿羅漢も何者かの仕業によって夢精する場合がある(他以不浄染汚其衣=餘所誘)。
2)阿羅漢は全知ではない(有無知)。
3)阿羅漢にも自らの悟りに関して疑いが生じる場合がある(有疑惑=猶豫。)。
4)阿羅漢の悟りが、他者によって起こる場合がある(有他度=他令入)。
5)阿羅漢は聖道において「これは苦である」と言葉を発してしまうことがある(聖道亦爲言所顯=道因声起故)。
 
 これらのことがあった場合に、その人は阿羅漢なのかという阿羅漢の定義問題であり、厳格な阿羅漢の定義の緩和である。私事で恐縮だが、筆者は基本夢を見ないので数年禁欲しても夢精しなかった。また悪夢もみない(子供の時に一回だけ見た)。ウィリアム・ジェームズも自分は夢を見ないと言っていたが、すぐに熟睡位に入るようになれば、筆者の経験から言うと夢精しないであろう。しかし睡眠においていつも夢を見るようであっては、阿羅漢であってもその危険は大きいと言えよう(何の話やねん!)。阿羅漢の全知性の否定というのは、知らない人がやって来て、「おい!お前!俺の名前を言ってみろ!」とか言われて、答えられなければ、「お前は全知でないから阿羅漢ではない!」と言われた時の対策である。阿羅漢でも聖道の実践中に「これは苦しい」と言うのかという問題は、筆者がクンダリニー覚醒時に内言において「これはヤバい」と発話したのと似たような問題であろう。これらは実際的な話であり、阿羅漢と言っても人の子であるから、当然、上記のようなことが起こるわけである。大衆部において仏陀の超越性の強調と共に実際面で阿羅漢の基準の緩和が行われていたということが大天五事から分かる。それは阿羅漢の価値下落でもあるわけだが、金銭授受問題同様に理想より現実主義路線を取ったということである。しかしそれが逆に仏陀の超越性を強調することに向かったのは興味深いところである。
 
 
【ウッタラシャイラ(北山部)】
 
 
 碑文から言うと、プールヴァシャイラ(東山部)の名前で記されている。玄奘の時代には、東山部と西山部が、城を中心にして東西にあったと記されている。『文殊師利問経』では、東山部から北山部が分出したと記されている。
 
 
 
【アパラシャイラ(西山部)】
 
 イクシュヴァーク朝の時代、ナーガールジュナコーンダに彼らの碑文が残っている。今後詳しく論じるが、ナーガールジュナコーンダとナーガールジュナは関係がない。インド西岸のカンヘーリー石窟にアパラシャイラの碑文が残る。チベット大蔵経のアヴァローキタヴラタの『プラジュニャプラディーパティーカー(般若灯論複釈)』には、東山・西山にはプラークリットの『般若経』が伝えられていたということである。ラージャグリヤ(王山部)とシッタールティカ(義成部)といった部派の名も伝えられているが、詳細はあまり知られていないので、今回の研究では『部執異論』に記載もないので、省略する。