第4章 第20節の続き3 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む
 それでは今回の第2パートの最後を飾る多聞部と分説説部(設仮部)について見ていこう。
 
 
 
【バフシュルティーヤ(多聞部)】
 
 
 バフシュルティーヤこと多聞部は、我が国の『三論玄義檢幽集』にしか残っていない、パラマールタ(眞諦)の『部執異論疏』の多聞部の項からその成り立ちを見ていく。重要なので全文、原文と読み下し文を以下に載せる。

佛在世時有一阿羅漢。名祠皮衣。昔作仙人被樹皮衣以祠天故。後出家已。随佛説法皆能誦持。佛未涅槃遂住雪山坐禪。不覺佛滅度。至佛滅後二百年中。方從雪山出至央掘多羅國。尋覓同行人。見大衆部所弘三藏。唯弘淺義不能弘深義。心甚驚怪。謂大衆部弘佛所説甚深之義不能通達。悉皆棄置不復弘通。所弘之者唯弘淺義。其羅漢便於大衆部具足誦出淺義及以深義。深義中有大乘義也。其中有不信者。其有信者誦持。大衆部有弘其所説。有不弘其所説。若弘其所説者別成 一部。名多聞部。以所聞多先所習故曰也。


仏在世の時に、一阿羅漢あり。祠皮衣(ヤージュニャヴァルキヤ)と名づく。昔、仙人となりて、樹皮の衣を被り、天(デーヴァ)を祠るが故なり。後に出家して已み、仏説の法に随い、みなよく誦持す。仏の未だ涅槃せざるに、遂に雪山(ヒマーヴァト)に住し、坐禅す。仏の滅度を覚せずして、仏滅後、二百年中に至りて、方に雪山より出て、央崛多羅(アンゴータラ=北アンガ)国に至る。同行の人を尋覚し、大衆部の弘むるところの三蔵を見るに、浅義を弘むるのみにして、深義を弘むる能わず。心の甚だ驚き怪しみて、謂うなるは、大衆部の仏の説く所を弘むるも、甚深の義は通達するを能わずして、悉くみな棄て置き、または弘通せず。これを弘むる所のものは、ただ浅義を弘むるのみなり。その羅漢はすなわち大衆部において具足し浅義を誦出しては、以って深義に及ぶ。深義の中には大乗の義あるなり。その中に信ぜざる者あり、その信じる者は誦持するありて、大衆部にその所説を弘めるもあれば、その所説を弘めざるもあり、もしその所説を弘むる者は別に一部を成す。多聞部と名づく。聞くところを以って、先に習うところよりも多かるが故に曰うなり。
 

 ここで筆者は、上記の文を以って、それ故に多聞部より大乗が発生したのだと言うつもりはない。ここで確認しておきたいのは、多聞部の成り立ちとして、ヤージュニャヴァルキヤという人が出家して、自己の悟りの内容を仲間に語り、それに賛同する者達によって多聞部が分派したと言うことである。アンゴータラとは、前述したように北アンガ国のことであり、マガダ国のさらに東北である。多聞部の教義として、無常・苦・空・無我・涅槃寂静の五つは、出世間の教えであり(謂仏五音是出世教)、それ以外の仏の教えは、世間の教えであるというものである。彼らはマハーデーヴァの五事を認めていた。
 
 
 
【プラジュナプティヴァーディン(分別説部)】
 
 
 
 まず我が国の中観澄禅の『三論玄義檢幽集』に引用されているパラマールタの『部執異論疏』に、分別説部の成り立ちが、書かれているので、それをまずは多聞部同様に、原文と筆者による読み下し文を全文引用する。
 
大迦旃延佛在世作論。分別解説。佛滅二百年中。大迦旃延從阿耨達池至摩訶陀國。來至大衆部中。分別三藏聖教。明此是佛假名説。此是佛眞實説。此是眞諦。此俗諦。此是因果。大衆部中
有信受迦旃延所説者各成一部。名分別
説部。分別説部即大迦旃延弟子。


大迦旃延(カーティヤーヤナ)は、仏の在世に論を造り、分別して解説す。仏滅二百年中に、大迦旃延は、阿耨達池より摩訶陀国に至り、大衆部中に来至して、三蔵の聖教を分別す。此れはこれ仏の仮名の説なり、此れはこれ仏の真実の説なり、此れはこれ真諦なり、此れは俗諦なり、此れはこれ因果なりと明らかにす。大衆部の中に迦旃延の所説を信受するもの有りて、各一部を成す。分別説部と名づく。分別説部は即ち大迦旃延の弟子なり。
 

 お釈迦様の十大弟子でウッジャイニー出身のカーティヤーヤナは、仏の教えを分別する論を作った。その後、阿耨達池より出てきて、マガダ国の大衆部に来て、その教えを仮名の教え、真実の教え、真諦、俗諦、因果を説くものと分別した。それを信じるものが、大衆部から分派して作ったのが、分別説部である。分別説は、上座部の教えであり、スリーランカーの仏教も南方分別説部である。そもそも次回論じるが、南方分別説部もウッジャイニー地方からスリーランカーに伝わったものである。従って大衆部の分別説部は、アヴァンティの上座部の影響を受けて、成立した部派であるから、例えて言えば、日本の曹洞宗のお坊さんが、スリランカの坊さんに影響を受けて、テーラワーダ化したようなものである。玄奘の『異部宗輪論』では設仮部と名付けられて、その出所が分かりにくくなっているが、大衆部がある種、上座部よりになったのだから、急進化した部派ではないのが分かる。分別説部の教義としては、五蘊は苦ではなく、十二処は真実ではない。諸行が相互依存的に連続しその要素から構成され(諸行相待展転和合)、仮に名付けたものが苦なのであり、先行する業が増長し、それが因となって結果が異熟する。非業の死というものはなく。それにも因がある。果は転じて福徳となり、故に聖道を得るのであって、修業のみで、何の因果もなしに道は得られるものではない。また聖道は不壊である。これはつまり頓悟的な瞑想の努力だけで人は悟りを得ることはできず、善行を積み、それが果となって聖道を得るということを述べているのである。仏陀の悟りも前世の本生譚に見られるような福徳の積み重ねで得たものであって、その時に急に発奮して得られたものではない。これは菩薩道的な背景を有する教義である。

 我々は、多聞部と分別説部(設仮部)を既に散逸し、我が国にのみ残存しているウッジャイニー出身の我らが、パラマールタの『部執異論疏』から、その成り立ちを確認した。


    両者に共通なのは、ヤージュニャヴァルキヤなり、カーティヤーヤナなり、或る特定の人物が、或る部派にやって来るなり、入り込むなりして、そこで自説を開陳することにより、それに賛同する者によって、新しい部派が形成されるという部派形成過程のそのメカニズムである。これを一般化し抽出すると、
 
 
任意のAが任意のXという部派において、自説を展開し、それに賛同する者達により、新しい部派が形成される。 
 
 
 かくて上記の如く、分派の際に働く力を我々はこれより分派ベクトルと呼び、パラマールタを記念し、
 

分派ベクトルP(パラマールタ)
――――――→
 
 と名付けることにしよう。これは分派の際の基本的な型と見做しうる。この筆者が発見した一見なんでもないように見えて画期的な理論的有効性を持つ分派ベクトルPを使って、大乗仏教の起源史について考えてみる場合に、もしある部派内に、初めて大乗の教えを説く者が現れて、それを部派の人々に語る際には、当然の如く、分派ベクトルPが働くと想定してよい。しかし歴史が語る通り、おおよそ十八の部派が我々に知られているが、「大乗部」という部派の存在を我々は知らないのである。これは何を意味するのだろうか?我々は、大衆部や上座部の部派にある時期、大乗の影響があった事実を知っている。従って我々はある特定の部派に教団内にかかった圧力としてベクトルM(マハーヤーナ)が働いていたことを想定する権利がある。そして重要なことは、ベクトルMが、明らかに分派ベクトルPとは異なっているということなのである。もしそれが同じであれば、「大乗部」が存在して然るべきであろうから。 
 我々が現時点で確実に分かることは以下の事である。
 

(1)ベクトルM(マハーヤーナ)という謎の力が仏教教団に働いていたという事実。
 
(2)ベクトルP(パラマールタ)の構成要素。
 
(3)ベクトルM ≠ ベクトルP
 
 かくて我々は、ベクトルM≠ベクトルPに基づくベクトルMの解明こそが、大乗仏教起源史の解明に新たな光を投げかけるであろうと期待してよい。そして我々はここにおいて、有効な問いを立てることができるのである。問いはこうなる、「ベクトルMは、いかなる構成要素から形成され、その働きは、教団にどのような影響を及ぼしたのか?」
 
 
補足1
 
なぜ大乗仏教の起源を誰も証言しないのか?

もしベクトルPによって部派内において特定の者が大乗を説いたのであれば、そこに多数の目撃者が存在していたはずである。それ故に、その多数の中の誰か一人でもいいし、その噂を聞いた者でも伝承として残せたはずである。一方で目撃者の数が少なければ少ないほど、その証言の残る可能性は低くなる。証言の欠如からもベクトルPのようなメカニズムが働いて、大乗が生じたという可能性は低いと言えるであろう。
 
 
補足2
 
佐々木閑の『インド仏教変移論』における、
 
A→(B,C,D,E,F…)という多様化の働きは、筆者の言うベクトルPと同じものであり、それを説明するに過ぎない。従って佐々木のチャクラベーダからカルマベーダへの破僧定義の変更に基づく仏教変移論は、ベクトルMを説明するものにはならず、大乗起源史の解明の為の説明原理たりえない。これまでの仏教研究家は、ベクトルPとベクトルMを同一レベル、同一平面上のものとして捉えようとしていたのである。我々はそれが全くことなるベクトルとして、流体と固体の力学ぐらいに違うものと考える。


 今回の記事のラスト・パートを始めよう。正直、第2パートのベクトルPとベクトルMの説明で大乗仏教起源史における筆者の仕事はもう終わったと言ってもいいのである。多少、自分でモノを考える力がある人ならば、あとは自力で大乗仏教起源史を解明できるはずであるから。とは言え、そこはプロの出る幕はないんであって、良心の呵責なき仏教素人の筆者が、悪魔の如き証明を以って解明してしまおうと思うわけである。
 
 
「僕が悪いんじゃない!のんびりしていた君達が悪いんだ!」
 
 
 前回の記事で可哀相になるくらいショーペンを論破してみせたのであるが、おさらいとして、筆者が適当にまとめたショーペンの大乗仏教に関する知見をここに再掲する。
 
 
ショーペンは、
①他の大乗経典(法華経など)については全く自分は考える気も思い出すこともないが、『八千頌般若』の流行はインドにはなかった。
②『宝行王正論』において大乗仏教徒は軽蔑の対象であった。
③金細工職人、王、商人の支持はなかった。
④美術上の大乗的な表現の証拠はない。
⑤法顕当時、大乗の証拠はない。
 
 
 上記の如く、様々な漢文資料を除いた資料を以って大乗の3~4世紀の大乗仏教をショーペンは概括してみせたのであるが、ここで筆者は再び問いを立てたい。「ショーペンの目は、何故にかくもふし穴なのか?」と。上記のショーペンの列挙した事実をすべて認めた上で、筆者においては、完全に見えているにも関わらず、ショーペンの知覚においては、完全に死角の如く見落とされている大乗教徒の姿がある。話は脱線するがショーペン教授が仮に寿命でこの世を去った場合に、様々な人々に惜しまれ、愛する家族に見送られ、沢山の教え子達の記憶の中で生き続けることだろう。またその業績はスポータなみの不朽性を以って未来永劫燦然と輝くこと確定であろう。もしかしたら教授の業績を記念して、巨大な記念碑がエジプトの金字塔よろしくカリフォルニアにファロスの如く聳え立つ可能性さえあるだろう。しかし世の全ての人が教授の如く、金字塔を約束されているわけではないということが理解されるべきなのである。ウィリアム・ブレイクは、「あるものは毎朝毎晩、甘美なる喜びに生まれ、あるものらは、終わりなき夜に生まれる」と歌ったのであったが、甘美なる喜び多い人生を生きてきた人間には、終わりなき夜を生きる人間の生活は理解できないものである。常に、はいつくばって世界の底辺で人生の泥濘を噛み締めながら、呪うべき世界を甘受しつつ、沈黙する者らが、偉大な教授殿にはどうやら見えぬらしいのである。筆者には遠隔透視などというくだらない能力を使わずとも彼らの姿がまざまざと見える。いや彼らしか見えないとさえ言っておこう。なぜ大乗教徒は軽蔑されたのか?それは構造的なものだ。その構造がショーペンをして輪廻をさ迷い、アメリカ人に生まれてもなお、盲目にさせるのである。金細工師、商人、王侯の支持はなかった?この世に生きている人々が彼らだけかとお思いですか?ピラミッドの上層を支える、その他、大多数の下層の人々は、博物館用の美術品や巨大な記念碑を2000年後まで残せると、本当に信じているのでしょうか、プロフェソーレ?一部の特権階級の人々にしか許されなかった美術品や記念碑を残すということをショーペンは、その他の大多数の人々に求めて、それができなかった人々を無と見なすのである。近視眼も極まればかく至るとはこのことである。



【モル状のものと分子状のものについて】
 
 
 ドゥルーズ=ガタリは『千のプラトー』の9章でモル状のものと分子状のものについて語っていたものだ。筆者はだいぶ前の記事で、この二つの概念装置について簡単に触れておいたのだが、ここでこの二つの概念を再確認しておくのも無駄事であるまい。
 
 
したがってあらゆる社会が、そしてあらゆる個人が二つの切片性によって同時に貫かれていることになる。一つはモル状の切片性で、もう一つは分子状の切片性。『千のプラトー』
 
 
切片性が硬化すればするほど、われわれは安心できるのだ。 『千のプラトー』
 
 
 ショーペンが大乗仏教を研究する上で捉えることに成功しているのはモル状の切片性ばかりである。それは硬化しているが故に、分かりやすく、そして堅固である。或いはそれこそが学問的な対象とも呼ばれるわけだ。仏像だとか、カローシュティー文字や、ブラーフミー文字に、サンスクリットだとか、ダライ・ラマを筆頭に組織化されたチベット仏教徒のチベット語だとか、或いは、王侯、貴族、大商人といった一切合財がモル状なのである。モル状の切片性のピースによって構成された公式の、これこそが歴史である。大帝国は目に行くが、それよりも下位の部族国家は目にいかないものである。故に中村元は、『ヒンドゥー教と叙事詩』において、紀元前2世紀以降の群小部族国家林立時代を、うっかり「異民族侵入時代」と規定してしまったわけである。言うまでもなく部族国家も、モル状組織体である。しかし大帝国や、ギリシア人やサカ人の国家組織から見れば、それは分子状の働きをなす。貨幣の交換はモル状の流れを形成するが、その欲望は分子状である。哲学愛好家の意識にとり、ショーペンハウアーはモル状のものであるが、彼らにとりショーペンは分子状である。だったらベクトルPはなんだっつうんだよ!そういうことだったんだな!見者の俺は、感覚の乱用によって、太陽に溶けた海の如き永遠を捕まえたぞ!おお、我がアルチュール・ランボーよ!これこそが俺の怒りのカリフォルニア・ベトナム戦争ではなかったか!されば、お前もか!わが愛しの分子状ベクトルMよ!



【大乗ベルトについて】
 
 
 筆者は少し前に玄奘三蔵の『大唐西域記』を今後のインド中世宗教史の研究に用立てようと、個人的にまとめを行ったのであったが、その際に、7世紀当時大乗仏教徒のみの国家が二つ並列していて、帯状に大乗ベルトとも言うべきラインを形成していることに気づいたのであった。それが即ちウドラ国(現アウディシャー州)とナーグプルを擁する南コーサラ国の横並びのラインである。以下に筆者がまとめた玄奘の二国の項目を掲載する。 


 【ウドラ(烏荼)】(大○小×灰×外○)Ⅲp226
 
多くの者は仏法を信じている。伽藍は百余ヶ所、僧徒は一万余人。◎みな大乗の教えを学習している。天祠は五十ヶ所。異道の人々が雑居している。ストゥーパは十余ヶ所。どれも如来が説法されたところでアショーカが建てた。ウドラ=アウディシャー。国の西南境に大きな山の中にプシパギリ(波祇釐)僧伽藍がある。そこにストゥーパがある。この僧伽藍は現在のブヴァネーシュワルのカマダギリに比定される。またこの西北に山(ウダヤギリ)の伽藍の中にもストゥーパがある。ここの二つのストゥーパは、鬼神が建てたもので霊験奇跡が多い。国の東南の大きな海岸に臨んで、チャリトラ(折利呾羅)城があり、五つの伽藍がある。


【コーサラ(憍薩羅)】(大○小×灰×外○)Ⅲp235
 
南コーサラ国。王はクシャトリアである。伽藍は百余ヶ所。僧徒は一万足らず、○みな大乗の教えを学ぶ。天祠は七十余ヶ所。城の南に古い伽藍がある。側にアショーカのストゥーパがある。如来が外道を説伏させたところである。後にナーガールジュナ(竜猛)菩薩が止住したところである。当時の王サータヴァーハナ(婆多婆訶)王が菩薩を尊崇して廬の門を警護させていた。アーリヤデーヴァ(提婆)菩薩がその頃、シンガラ国よりやって来て、ナーガールジュナに師事した。ナーガールジュナは薬学に詳しく、その年寿は数百であったが、王子に乞われて、その首を献じた。国の西南へ三百余里でブラーマラギリ(跋邏末羅耆釐)がある。王はナーガールジュナの為に、ここに伽藍を建立した。閣は五層で各層に四院がある。第一層は仏像と諸経論、最下の第五層は在俗の浄人や資産、汁物を入れた。


 以下の地図のオレンジ・ラインが大乗ベルトである。そしてこの大乗ベルトは、前2世紀以降のカーラヴェーラ王が統治するマハーメーガヴァーハナ朝の支配領域にほとんど一致するのである。






【それは詩人(カヴィ)の作った詩(カーヴィヤ)に過ぎない(कविकृतं काव्यमेतत्)?】
 
 
 
 我々はこれまで大乗経典というテクストが挙示的ロゴスを用いる、コンテクストを隠蔽する類のテクストであるという断定から、一旦、そのテクストから離脱して、さらに仏教史という一見、自己完結し、閉じたものと仏教徒からは、考えられているその流れを括弧でくくり、その時代のコンテクストの探求へと向かったのであった。ポスト・マウリヤ朝期の前2世紀以降のインドは、ヒンドゥー興起の時代であり、シュンガ朝・カーンヴァ朝の王達は、ヴェーダを信奉し、また彼らは、ギリシア人などの異民族の侵入にさらされていて、その中で地方には様々な都市国家や、群小部族国家が林立していたのであった。部族国家の発行貨幣に現れる神格は、ヒンドゥー教的性格を帯びていて、そのヒンドゥー教化においては、スータという吟遊詩人達が、それを強力に推進していたのであり、そのスータ達による、原『マハーバーラタ』に含まれる、原ヴァースデーヴァの教えが、地域や民族を超えた広範囲な拡がり見せていたことは碑文などの語るところであった。かくて我々は、現代日本の仏教研究家における、平均レベルの大乗仏教興起時代の歴史認識を遥かに超えたコンテクスト認識に基づく眺望の下、今や大乗経典のテクストに向かいうると確言することができる。
 大乗経典の最古層かつ最重要なテクストは、無論、『八千頌般若経』であり、そのサカ族出身のローカクシェーマ(支婁迦讖)が漢訳した『道行般若経経』ということになる。ガンダーラ語写本の『八千頌般若』も発見されているが、ここでは入手しやすい漢訳の『道行般若経』をもって、大乗仏教起源問題に迫ってみたい。しかしここで、すぐにテクスト研究に進む前に般若経典について、いささか筆者の体験を交えた私見を述べさせてもらいたい。
 筆者は日本人であるから、生まれながらの仏教徒であり、一応、天台宗の檀家ということになっている。親類には曹洞宗の住職をしている者もいる。しかしいかなる過去世の宿業が異熟したのか、はたまた親の因果が子に報いたのかは知らぬ存ぜぬことではあるけれども、ハイラーカーン・バーバーというゴリゴリのヒンドゥー教のグルの弟子ということに今生ではなってしまって、「仮面のヒンドゥー教徒」となり果ててしまったのだった。



     とは言え、インドのヴィザを取る時に宗教欄には「ブッディスト」と書かざるを得ないわけで、初めてインドのヴィザを取った16歳の時に、「俺って仏教徒だったんだなあ」と意識したわけである。そんな筆者は、幼年時代には、葬式や法事でナムナムナムとお経を聞かされていて、その意味は小学生の筆者には皆目見当もつかなかった。小学校五年生ぐらいの時に、『孫子』を読みはじめて、母親にレ点や一・二点の意味を教わり、漢文が読めるようになって初めて、お経が漢文だったんだなと知ったのであった。しかし、そんなものは戦争に役立ちそうもないので興味はなかった。当時の小学校五年生の筆者は第三次世界大戦に従軍する為の準備に忙しかったのである。そんな、最中に筆者は、中学生の時に中村元の衝撃作『ブッダのことば』を入手したのであった。

(筆者が中学生の時に買った『ブッダのことば』    筆者撮影)

    ビックリした。謎の意味不明な呪文を唱えているしか能のない金ピカ野郎のお釈迦様が、そこでは「ただ犀のように一人歩め」とか言っていたから。お釈迦様が漢文ではなくパーリ語で語っているのにもビックリした。パーリ語ってなんだよ!というわけである。さらに中村元がパーリ語を読めることにもビックリした。かくて読書開始数時間後には、一個の原始仏教原理主義者が誕生したのであった。この原始仏教原理主義者の中学二年生によって、ひろゆきなみのしたり顔で漢訳仏典は、秒で論破対象と成り果ててしまった。とは言え、小学校5年生の時より、『孫子』『論語』『孟子』『韓非子』『陶淵明集』『唐詩選』などの愛読者であっても、漢訳経典は、勝手が違ってスラスラと読めない、フラストレーションからうっちゃっておかれたのであったが。そうした中で般若心経は、短いのでとりあえず読んでいたのであったが、これがそもそも日本仏教の大乗思想の無理解の始まりなのであった。筆者の大乗仏教への無理解は、そのまま日本人の大乗仏教への無理解の典型例として見ることもできよう。人は般若心経を読むことで「空」に基づく大乗思想を理解した気になるが、大乗は六波羅蜜が基本であり、その六波羅蜜の一つが般若波羅蜜なわけである。六波羅蜜の思想の土台の上に般若波羅蜜を強調する「空」の般若思想があるのであり、三乗思想の土台の上に『法華経』の一乗思想が乗っているのであり、三劫成仏の思想の土台の上に、空海の即身成仏の思想が乗っているのと、それは一緒である。六波羅蜜、三乗思想、三劫成仏といった大乗仏教の基本思想は、般若心経からは全然見えてこない。原始仏教原理主義者の筆者には、そもそも仏教とは出家主義が基本であるから、六波羅蜜の筆頭の布施波羅蜜がまず理解できなかった。お坊さんは、布施される側であって布施する側では基本ないのに、最初に布施波羅蜜を言われることがなかなかに、原始仏教原理主義者の筆者には理解できなかった。それは「在家に言うことだろが」というわけである。また空海が即身成仏を強調するが、『スッタニパータ』をどう読んでも即身で成仏する以外の成仏法が記されていないのであるから、「即身以外の成仏なんてあるのかよ!」という話なのである。つまり大乗思想は歴史的な堆積層によって発展して出来上がった思想なので、原始仏教と『般若心経』『法華経』『即身成仏義』との間に存在するはずのミッシングリンク(別に失われては全然いないが)が理解できないと、なんのことやら全然分からないのである。こうした大乗仏教に関する基礎認識の欠如が、筆者においては最近まで続いていたのである。そして本来は『六波羅蜜経』と呼ばれるものが、その役目を果たしていたはずなのであるが、それは既に失われているので、それに最も近い歴史層に存在する『八千頌般若経』が、その役目を代替的に担うことができるのである。なぜ布施だの大乗は言うのか、一乗の何が画期的なのか、わざわざ即身成仏などと空海が強調するのはどういうことなのかということは、『八千頌般若経』を読むことで一挙に納得できるようになるのである。元来、筆者は聖徳太子信奉者なので、日本人として読むべき仏教経典は、聖徳太子が注釈を行ったと言われる、『法華経』『維摩経』『勝鬘経』の三つに、中国でパッチワーク的に作られたと言われるレジュメ的『大乗起信論』と『般若心経』、この五つで良いと考えていたのだが、今では『八千頌般若経』を読んでいない大乗仏教徒は、いわば『スッタニパータ』を読んだことのない原始仏教原理主義者みたいなもので話にならないと思っている。つまり何がいいたいかと言いますと、皆様『道行般若経』を読めとは言いませんので中公文庫の梶山雄一・丹治昭義訳『八千頌般若経』を、大乗教徒だと宣うんであれば、まず御託はいいから読んで下さいということなのである。





 『八千頌般若経』のサンスクリット本は、11世紀頃のものであるとされている。ガンダーラ語の写本がもっとも古い文献ということになるが、次に古いのがローカクシェーマの漢訳の『道行般若経』であり、それは179年に漢訳された。それ以降のものとして支謙訳、中期のものとしては鳩摩羅什訳、第五会の玄奘訳、後期の第四会の玄奘訳、施護訳、ネーパール系サンスクリット本などがある。ちなみに梶山・丹治訳の『八千頌般若経』は、 ネーパール系のサンスクリット本を翻訳したものである。大乗仏教経典の成立は、当然のことながらパロールに基づく口承(第Ⅰ期)が初めに存在し、それ以降にエクリチュール化し、ガンダーラ語などの地方語で書かれ(第Ⅱ期)、最後にサンスクリットないしプラークリットで書かれた(第Ⅲ期)という順番になる。サンスクリット化は、仏教徒にとっては対抗宗教であるヴェーダ教の言葉を使用するのであるから長い間、忌避されていたのであり、4世紀以降ぐらいからようやく大乗経典のサンスクリット化が進行したと考えられる。従っていくら自分がサンスクリットが得意だからと言って、大乗経典のサンスクリット本を条件反射的に求めること自体、徒労となる可能性が高い。またサンスクリット本の欠如をもって、中国に残存する古い層の経典を安易に偽作と断じる態度も控えねばならならぬであろう。かくて大乗仏教起源問題においては、エクリチュール化(第Ⅱ期)以前の第Ⅰ期の復元を狙うのであるから、最早、推論によって復元するより他ない領域なのがここから分かるのである

 『八千頌般若経』は、仏陀による弟子への説法という形式を取るが、その説法の実際の対象は、善男子(クラプトラ)・善女子(クラドゥヒター)と呼ばれる、在家の人々である。少なくとも『八千頌般若経』においては、出家者に向けて語られているわけではない。実際の語り手=作者は当然不明である。それではこの善男子(クラプトラ)・善女子(クラドゥヒター)と呼ばれる人々がどういった人々だったのかを考えていきたい。
 『道行般若経』では、巻第二の功徳品第三では、般若経を信奉することの功徳として「まさに軍に入らしめられて、兵を被らず」と、仏教守護の神々に護られて、戦争で負傷したり、戦死したりすることがないという功徳が語られているので、善男子は、軍隊の徴集に応じざるを得ない境遇の人々であったということが分かる。また破邪や破摩の効果をうたっているので、現世利益的効果に近いものを強調するのであるから、邪悪なものや魔を恐れる迷信深い怖がりタイプの人々であったということが分かるであろう。こうした人々に『八千頌般若経』は、経巻崇拝を、お釈迦様の舎利を祀るストゥーパ崇拝に代わるものとして推奨する。これはお釈迦様の偉大さはその教えにあるのであって、その肉体の残骸である骨にあるわけではないからという論理に基づく。従って彼らは、元々はお釈迦様を慕い、ストゥーパを崇拝する人々であった。そのストゥーパ崇拝としては、
 
また、それ(ストゥーパ)に神々しい花、薫香、香料、花環、塗香、粉香、衣服、傘、幢、鈴、旗を供え、また周辺にも燈明や花環を供え、種々の供養の仕方をもって恭敬し、尊重し、奉仕し、供養し、讃嘆し、祈願する…
 
 
 と述べられている。これに対応する『道行般若経』の読み下しを載せると、
 
 
 
自ら帰して、礼を作し、承事して、名華・搗香・澤香・雜香・綵華・蓋・旗・幡を供養す。
 
 
 とあり、このようにして、善男子・善女子は、お釈迦様を慕い、アショーカ王がインド全土に建てた82000に上ると言われるストゥーパに、祈りを捧げ、現世での何事かの功徳を祈る在家の人々であった。また『八千頌般若経』は、こうした在家の人々が、布薩の日である月の8日、14日、15日には自ら『般若経』の説法師(ダルマ・バーナカ)となって、『般若経』の教えを布教することを勧奨する内容が、『道行般若経』の巻第四の嘆品第七に述べられているので引用する。
 
 
若し善男子・善女人、法師となりては、月の八日・十四日・十五日に、説法する時には功徳を得ること復た計るべからず。
 
 
 こうした人々は、郷里にとどまって布教活動に従事するばかりではなく、時に穀物の少ない場所や、虎や狼や盗賊の危険のある遠い地域へと布教に向かった。『道行般若経』では上記のような危険のみを語るが、それがサンスクリット本だと劇的な描写に展開する。
 
 
説法者(ダルマバーナカ)は害虫のおそれや、猛獣のおそれや、人にあらざるもののおそれのあるところへ出かけるでもあろう。彼はそこへ歩いていき、住んでいるあいだに、猛獣のいる荒野、蛇のいる荒野、盗賊のいる荒野、沼地のある荒野・食物の得られない荒野へ踏み入るであろう。P305
 
 
 時に説法師となり『般若経』の教えを布教する善男子・善女子の心の中にどういったものが去来したかが語られている。
 
 
郷里を意念し。若し異方を念じ、若し異國を念じ、若し王者を念じ。若し有賊を念じ。若し兵を念じ、若し鬪を念じ、父母兄弟・妹親屬を意念し。
 
 
 『道行般若経』に描かれる、彼らはこうした郷里・異国の様子や王や賊に悩み、兵や闘いの心配をし、父母兄弟姉妹親族を思う、つまり名もなき民衆であり、庶民であった。これがサンスクリット本だとさらに劇的に描写される。
 
 
村や街や都市や郡や国土や王都に気をとられることがあろう。園林に気をとられることがあるであろう。先生のことに気をとられることがあるであろう。話に気をとられることがあるであろう。盗賊のことに気をとられることがあるであろう。水浴場に気をとられることがあるであろう。器具のこと、肩駕籠のこと、快楽、苦しみ、おそれ、女のこと、男のこと、両性具有(ふたなり)のこと、愛しきもの、愛しくないものとの別離に気をとられることがあるであろう。父母のことについて気をとられることがあるであろう。兄弟姉妹のことについて気をとられることがあるであろう。友、眷属、親族、郎党のことについて気をとられることがあるであろう。妻や息子や娘のことについて気をとられることがあるであろう。家や食物や飲物のことについて気をとられることがあるであろう。衣服のことに気をとられることがあるであろう。寝台や座席のこと、生計や(日常の)義務、貪欲や憎しみや愚かさ・季節や良時や悪時、歌や音楽や舞踏、美文学や戯曲や物語や論書、世間の言説や冗談、ミュージカル、悲しみや労苦・自我に気をとられることなど、これらやそのほかの気移りを…
 
 
 上記のようなことに一切気を取られない為に人は出家するのであり、善男子・善女子は上記のような心のあらゆる気移り、心配、関心の中で『八千頌般若経』に心の拠り所を見いだしていたのである。大乗仏教を信奉する僧侶は村住だったかのか林住であったのかという選言的に問われる場合が多いが、『八千頌般若』においては、林住であれ、村住であれ内面における遠離、精神的な隠遁が重要であって、独処・樹間・閑処に止まらなくてはならないというような「荒野・山間に向かへ」という既存の僧侶集団の勧告を真に受けてはないけないと述べられている。林住への欲求は、第二十一章において「声聞や独覚と相応した留意によって汚濁したもの」と見做される。少なくとも『八千頌般若』には、大乗を信仰する者が、荒野に向かうべきであるという勧告は見当たらないのである。

 大乗仏教の起源を考察する上で興味深い言及が『八千頌般若経』の第17章にある。『八千頌般若経』において、様々な邪悪な魔が善男子・善女子に般若経への信仰を捨てるように語りかけてくるのであるが、これは明らかに大乗を誹謗する旧来の仏教徒の言明である。従って邪悪な魔の言葉を集約すれば、当時の旧来の仏教徒の大乗観が透けてみるのである。その中で『八千頌般若経』がそもそも何かということを語る場面がある。すなわち、梶山訳だと「それは仏陀のことばではない。それは詩人(カヴィ)の詩(カーヴィヤ)に過ぎない(कविकृतं काव्यमेतत् )」と述べられているのである。



    当時の旧来の仏教徒は『般若経』を詩人の詩であると認識していたわけである。とは言え先程述べたように、サンスクリット本の『八千頌般若経』の成立は、11世紀と言われているので、漢訳においてこの言明がどうなっているのかを確かめなくてはいけない。
 
 
ローカクシェーマ(支婁伽)訳『道行般若経』(178年)
 

みな仏の説く所にあらずして、餘外事のみ(皆非仏所説。餘外事耳) 。
「全部、仏の説いたものではなく、それ以外のことばかりである」
 
 
支謙訳『大明度経』(3世紀)
 
前の説は外のことのみ(前説外事耳)。
「さきほど説かれたものは、外の事ばかりである」
 
 このように恐らくガンダーラ語から訳されたと思われる第1期のものは、特に詩人の詩であるということは述べられておらず、単に仏説以外ものであるという断定にとどまっている。
 
 
クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)訳『摩訶般若波羅蜜経』(408年訳)
 
 
仏の説く所にあらずして、皆これ、文飾の荘校の辞である(非仏所説。皆是文飾荘校之辞)。

仏の説いたものではなく、すべてこれは、文飾され荘校(荘厳され考えられたもの)された辞(朗誦のための詩文)である。
 
 
 
玄奘訳『大般若経第五会』
 
真の仏の語にあらず。これは文頌、虚誑の撰集なり(非眞仏語。是文頌虚誑撰集)。

「真実の仏の言葉ではなく、この詩文は、人を欺くものを集めたものに過ぎない」
 
 中期のものは詩文であるということが述べられているが詩人が作ったものに対応する明確な語としての文字はないが、「辞」「頌」は、詩の意味を含むので、中期の『八千頌般若経』において「カヴィクリタム・カーヴィヤメータト」という文章であった可能性が高い。
 
 
 
後期の玄奘訳の『大般若経第四会』は、第五会と一緒である。従って、第五会と同じ翻訳であるということは翻訳者の同一性から説明もできるが、同一の翻訳者が、異なった文章を同一の訳語にして労をを省いたと考えるより、元の文章が一緒だったと考える方が合理的であろう。不思議なのは、ウッジャイニー出身のダーナパーラ(施護)の11世紀の『聖仏母般若波羅蜜多経』では、「皆不眞實非佛説所説」とのみあって、後半が欠けているところである。
 以上の内容から判断するとガンダーラ語の時点では、「詩人の詩に過ぎない(カヴィクリタム・カーヴィヤメータト)」という言葉ではなかったが、5世紀以前のサンスクリット化に取り組んだ大乗経典作者が、当時のよくある非難として、旧来の仏教徒の一般意見として、それは詩人(カヴィ)の詩(カーヴィヤ)に過ぎないという認識を、そこに反映させたと考えて良いだろう。ここから大乗経典作者は、少なくとも4~5世紀にかけてカヴィ(詩人)的なものと見做さていたということがここから分かるのである。