第4章 第19節 続き2 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む
 ここで息抜きと小休止を兼ねてゴシップネタを書いていきたい。皆様も既にご承知おきかもしれないが、去る1月9日にブッダボーイこと、マハー・サムボーディ・ダルマサンガ・グル、本名ラーム・バハードゥル・ボムジャン容疑者がネーパール警察に、性的暴行容疑で逮捕されたのであった。



    筆者は、ブッダボーイがガチの少年時代からウォッチングしているので、このニュースにさしたる衝撃は受けなかったにせよ、若干遠い目をしたことは否めない。既に前回、前々回のブログで覚醒と解脱には違いがあり、覚醒によって人格陶冶が起こることはないと述べておいた。瞑想力がいかに高かろうと、あるいは世界の果ての果てまでクンダリニー能力で意識を上昇させ、世界の根源を悟ってもそれだけでこの輪廻世界ではクリアにはならず、ついつい過ちも犯せば、ふざけた真似もするし、若い魅力的な異性を見れば、覚者であっても欲情すること必定であるということについて、筆者のブログの読者においては共通認識に達していると考えるものである。従って、ブッダボーイのこの件についても、諾われるところではあるのだが、しかしながらまさかブッダボーイがこんなことになってしまうとは筆者も意表を突かれた感じである。ブッダボーイの瞑想能力自体は疑いなく高度である。不食というものに筆者は重要性をおかないので、ブッダボーイが話題であったあの当時の、ジャングルの木の下で、瞑想時に食べ物を食べたか食べてないかの議論に関しては、マジでどうでもいいと考える。


    お釈迦様もスジャータの乳粥を食べたことで、覚醒したのだから。そもそも黙って一日木の下にひたすら座るだけでも、これはなかなか大したものである。それが一週間、一ヶ月、一年と続けることができれば、それは、その瞑想能力が稀有であることの証でもある。その高度な瞑想能力を保有する彼が、何故かいつのまにか結婚(筆者と違ってブッダボーイは面食いではなかりけり!!)もし、結構いい感じの家に住み、iPhone・ipadを多数所持し、とは言ってもここまでなら別に許せるが、ダイエット用のトレーニング機器を家に置いていたことだけは筆者は絶対に許せない。






    ヨーギンたるもの、自重トレーニングでダイエットすべきであって、トレーニングマシーンを置いておくのは言語道断である。これは極刑に値する。当然ながら筆者が専制君主であれば、言わずもがな、打ち首獄門の刑である。ところでブッダボーイのこの性的暴行容疑に関しては捜査途中なので、実際にあったかなかったかの判断は、筆者の能力では遠隔透視でもしない限り分からない。しかしつまらないことに遠隔透視は使ってはならないという掟があるので、探偵みたいに覗き見することは筆者のポリシーが許さないので、遺憾ながらできない。なので真相は裁判結果が出るまで分からない。しかし情状酌量の余地はある。ブッダボーイぐらい信者が多数だと、大企業の顧客に一定数のアタオカの顧客がつくように、統合失調症的な信者を引き寄せる可能性も高くなるので、一概に疑わしきは罰するという方式で断罪するわけにはいかない。しかし限りなく黒に近いと予想される。考えてみれば、これが筆者のグルやソームバーリー・バーバーやニーブ・カラウリー・バーバーだったら逮捕劇は楽しい見物であったろうと思われるのだ。彼らクラスだと、そもそも牢屋からシッディで勝手に出てきたり、「お前達はなぜこのマーヤーの世界においてさらなるマーヤーを重ねて、私の前でさらなる愚か者を演じようとするのか!」などと言って裁判官や警察にマーヤー・シャクティによりその化身としての姿を現出させて威嚇したり、やりたい放題なので、見てるこっちも安心できる。しかしブッダボーイの逮捕劇を見ると、E先生曰く、「本人が不安そうでこりゃダメだ、ギャハハハ」みたいな感じの印象を受けざるを得ない。どうも無罪で出てくるのは難しそうである。筆者のグルが逮捕されたなら、筆者としては「いや~面白いことになって参りましたな~、化身のお手並み拝見ですな~」という感想しか湧いてこないのであるが、どうもブッダボーイは心もとない。ということで、これからの裁判については、ブッダボーイのお手並み拝見タイムであり、これはこれで中々に興味深い見物ではある。しかしブッダボーイは、瞑想能力は高くても、シッディはなさそうなので、あまりハイラーカーン・バーバーに期待できるようなことは期待できなさそうである。それにしても、ブッダボーイクラスでもこのように堕落するのなら、瞑想とは一体何なのだろうかと、瞑想万能論の反証可能性が高まったことは悲しい限りである。だったら瞑想なんかするよりも、王陽明よろしく事上磨練、ラクリーシャよろしく軽蔑探求行でカルマ解消をコツコツとして、人格磨きに精を出す以外に人の未来はないことになろう。それはそれで近道がなさ過ぎてウンザリである。というわけであるからして、ブッダボーイのこれからの裁判劇は大注目このうえない。

 さてここから今回の記事の後半である。我々は今回の記事の前半部分でウッジャイニーに縁のある人物を通して、1世紀から7世紀近くまでのアヴァンティ地方、後のマールワー地方の歴史の概括を行った。かくて我々のシヴァ教の歴史を中心とした中世インド史探訪の時空を超えた旅の拠点としてのウッジャイニーが、読者の脳裏にイメージとしてある程度、刻まれたことと筆者は信じるものである。そしてこれから我々は、仏教史における重要課題である大乗仏教起源問題に取り組んで行きたいと思う。そしてまずはその行軍を前に、二つほど筆者の随想をとりあえず以下に述べておくことにしたい。その後、この随想、随感に基づいて大乗仏教起源史を検討する上で筆者が、狂犬なみに気合い十分であることを読者に提示し、今回の記事の後半部分終了とする。最初の随想は【歴史の再構成について】、二番目は【オッカムの剃刀の有効限界について】である。


【歴史の再構成について】
 
 
 言わずもがな、学の構築において、所謂ソースと呼ばれる証拠資料や物品などをもとにそれらが構成されべきは論を俟たぬ。文献学なら文献資料、考古学なら遺物や遺跡、歴史学なら歴史資料など。まずその分野の対象物があってその領野が展開されるわけだ。しかるに、歴史を考える上で、根本的な欠如態との出会いがそこに待ち受ける運命に我々はある。歴史を考える上で、失われた資料の数は残された資料よりも膨大であると見積もる十分な理由が我々にはある。残された若干の資料によって再構成されうる歴史は、決して完全なものではない。資料や対象の欠如をもとに、そもそもそのようなものなどなかったのだと簡単に断じてしまいたい誘惑にかられるのは人の常である。当然、我々は無から有を生み出すわけにはいかぬのだから、学において空中楼閣を築くのはご法度とはいえ、残った資料によってのみ歴史を構成した場合の、その復元された歴史は、「完全なる歴史」というイデーに比すれば、欠損した不完全なものとなるであろうことは誰にでも予想できることではある。しかし往々にして、頭の切れる割り切り型の人間は、資料がなければ、それを0だと見做し、いわゆる「ソースを出せ」型の断定と共に、そこに「歴史」のイデーを見落とすことがままあるのだ。0‐100思考とは、アスペルガー特有のある種の精神の病でしかなく、これは現代の時代の寵児達が、自惚れと共によくやる思考の軽薄な過ちの典型例である。現存の歴史資料をもとに「歴史のイデー」を見落とし、0‐100思考をもとに割り切り型のソースでもって、再構成された歴史は、その0‐100思考のアスペルガー的人格同様に貧弱なものとならざるを得ないのは必定である。資料の証拠がなければ、それは0だと断じる方法論、、「歴史のイデー」を理解しない経験論的な方法論は、歴史を裏切る行為でもある。
 パズルのピースの如く、歴史の再構成において、その欠如態を推測し、その決して埋められない隙間を想定するのは、歴史を論じるうえで必須である。現存のピースだけで、完成された絵面を無理矢理作るべきではない。今にないものは過去になかったという態度で、0‐100思考に徹し、アスペルガー的に物事を知的に断じていく態度を我々は警戒しなくてはならぬ。しかしそういう態度を取る学者は、思いの外に多いのだ。それは現実という名のマーヤーによって被覆されたおのが切れ味鋭き思考に酔っているに過ぎない。彼らは、本来の現実のイデーより、思考のイデーに酔っているのだ。バルトリハリはかかる人をかくたしなめる。
 

हस्तस्पर्शादिवान्धेन विषमे पथि धावता ।
अनुमानप्रधानेन विनिपातो न दुर्लभः ॥४२॥

手探りに従う座頭が、剣呑なる路を急行するが如くに、推論を第一の頼りとすれば、墜落するは容易い。(42)




【オッカムの剃刀の有効性について】
 
 
 
「措定する存在者の数はなるべく少なくすべきである」
「いくつかのものによって真なる命題が打ち立てられるとき、三つのもので十分なら第四のものを措定する理由はない」
「いかなるものも、しかるべき理由なく、その存在が措定されてはならない」
 
 
西藤洋  『ジョージ・バークリーにみるオッカムの剃刀』
 
 
 
 筆者は、このオッカムの剃刀の有効性の限界がますます最近よく分かるようになりつつある。故にこのオッカムの剃刀の限界をここで画定しておきたいと思うのだ。これはその名の通り、剃刀によって、余計なものを削ぎ落とすが如く、思考における余計なものを削ぎ落とすべきという思惟の経済原理を表したものだ。マッハの思惟経済説なども原理的には同じ類のものである。
 
 
「思惟の経済つまり事実の経済的叙述、これが科学の本質的な課題である」マッハ『感覚の分析』p44
 
 
 全て科学的な説明や思惟の理想は節約にあり、より少ない要素や原理でもって、複雑なものを説明することに科学の理想がある。しかし思惟の要請はあくまで要請であって、世界はかかる思惟の要請通りに成立しているかとなると、どうもそうではなさそうなのだ。前回の記事で我々は遠隔透視実験の幾多の観察から、遠隔透視対象のイデア性について確認した。かくてイデアは実在する可能性が濃厚であると結論せざるを得ない事態に我々は陥いったのであった。
 唯名論的な発想は、例えばオッカムの剃刀で有名なオッカムのウィリアムや、デーヴィッド・ヒューム、仏教論理学者のディグナーガやダルマキールティなどに散見される。大雑把にまとめれば、それらはオッカムの剃刀やマッハの思惟経済説に代表されるような発想と軌を一にし、結果的に、経済的な発想から、余分なものの存在は排除され、普遍やイデアというものは協約であり、仮設に過ぎないと断じる発想である。そして昔の筆者もまた同様の結論が合理的であると考えた。
 我々は遠隔透視実験を通じて、バルトリハリと共に、思惟の説明原理上、如何に余剰のものであるとも、イデアやスポータの存在を認めざるを得ない地点に達している。かかる点において唯名論的発想は知的な人間が陥りやすい罠であるとここで言っておきたいのだ。そもそも世界は、知性の思惟経済の利己性に基づいて作られてはいない。世界は知性と予定不調和的なのである。そもそも無より、要素が余分に一要素加増された、この世界が存在しているという事態が根本的に問題である。思惟経済の節約の原理から言えば、ブラフマンはブラフマンのままであることが思惟経済の原理に適ったものであり、マーヤーやカーラ・シャクティを通じての世界の創造自体が、オッカムの剃刀原理や、マッハの思惟経済説に反するのである。プラパンチャ(多様化)、ナーナートゥヴァ(複雑
性)への意志は、マーヤーの根本原理であり、その原理はメガラのテオグニスの「地上の人間にとって何よりも良いこと、それは生まれぬこと。次に良いことは早く死ぬこと」という反出生主義的な発想と真っ向から対立するものである。オッカムの剃刀やマッハの思惟経済説とは、畢竟、フロイト流に言えばニルヴァーナ原理であり、それはタナトス的なものに相通じる。従ってブラフマンはプラナーマ(展開)せず、ビッグバンは起こらなければ、世界はオッカムの剃刀原理に一致するのであり、知的に正解なのである。しかるに現実はそうではない。反オッカムの剃刀主義こそが、世界の創造原理なのである。
 故に局所的にオッカムの剃刀原理が妥当しても、全体性の解釈や世界を考察するうえで、オッカムのカミソリ原理は世界を説明し考える原理としては普遍的妥当性を有しない。知性に信ををおく人間には、この辺りの事情がよく飲み込めていないのである。知性に頼る傲慢さによってパースペクティブに歪みが生じているとしかいいようがない。知性は世界の一要素であるが、全体的なものではない。知性中心主義とは、西洋中心主義同様に自分が世界の中心だと考える、ある種の幼稚さがそこに残存していると断じざるを得ない。知性とは所詮、一つの玩具に過ぎない。そしてその効用の限界を知ることこそが彼をして本質的にスマートな知性と言われうるのであってみれば、それを知らぬ者は畢竟、玩具に没頭する嬰児の類に過ぎぬと言わざるを得ないのである。かくてバルトリハリはかく述べる。


धर्मस्य चाव्यवच्छिन्नाः पन्थानां ये व्यवस्थिताः ।
न ताँल्लोकप्रसिद्धत्वात्कश्चित्तर्केन बाधते ॥३१॥

ダルマの断絶なく存続する諸々の道を、世間周知ということでもって、タルカ(論証)によっては何人も排せない。(31)


यत्नेनानुमितोऽप्यर्थः कुशलैरनुमातृभिः ।
अभियुक्ततैरन्यैरन्यथैवोपपाद्यते ॥३४॥

巧みに推理する者達によって、アルタ(意味)が、注意深く推定されたとしても、より精励する者達によっては、全く別様に証せられる。(34)


 
 さて今回の記事の最後で取り扱うのは、今後の筆者の独自研究による大乗仏教起源論を展開する上で、現代において避けては通れない、グレゴリー・ショーペン(1947~)の『大乗とインド仏教中期 漢文資料という鏡を通して』で展開されたショーペン教授の漢文資料不要論的マニフェスト問題である。





   筆者は、13200円(税込)もの大枚を叩いてこの書を最近入手し、速読的に通読して感じた読後感は「この爺さん、上手い見せ方しやがって頭いいな」と言うものであって、しかしよくよく吟味しながら再読して生まれた印象は最悪だった。「こいつ、文献学的部分などの詳細部分はおいておくとして、この最初の論文は悪しきレトリックを用いた印象操作の多い、ただのプロパガンダのデマゴギーやん」というものであった。西洋の仏教学者の泰斗で、現代のミーハーな仏教学者なら、誰もが舌を巻く、雲上人であるショーペン教授に、学もなき一介の狂犬的ブロガーに過ぎぬ筆者が、かかる印象を抱いた、その理由をここに開陳し、ショーペンが、「逆張りのソフィスト」、仏教学における「ひろゆき」に過ぎぬことを、筆者はここに証明したいと思うのである。負け犬の遠吠えがどんなものか、とくとご覧ぜよ。
 ショーペン教授の真面目な文献学的研究について筆者には、如何なる反論も反感もない。しかし上述の『大乗とインド仏教中期 漢文資料という鏡を通して』(渡辺章悟監訳)というマニフェスト的小論はダメ絶対である。ショーペン曰く
 
 
 
たいていの時代区分、およびたいていの現在使われている概説書によれば、インド仏教中期は大乗仏教の時代とされているが、このことを支持する証拠などないことが、益々明らかになってきている。
 
 
 以上の文章から始まる僅か原文で註を除けば、17頁のこの小論は、漢文資料を通してインドの大乗仏教史、ひいてはインド中期仏教を再構成することを、律の研究者として今後の若い仏教研究家に対し、厳格に戒めるために書かれたものである。つまりインドやチベットの資料を扱うのは、問題ないが、漢文資料はインド仏教を再構成するのに、邪魔になるだけで、百害あって一利なしだからダメだよという趣旨である。この小論を読んだことのない読者は「お前、絶対なんか悪意あるまとめかたをしてるんだろう」と邪推される方もいらっしゃることと思う。そうした方は、『インド大乗仏教の虚像と断片』(13200円)か、『インドの僧院生活』(4030円)のいずれかを購入して読んでいただけれ幸いである。またネットで『The mahayana and the Middle Period in Indian Buddhism 』スペースPDFでググれば無料でダウロンロードできるので、それでも構わない。ともかく漢文資料は使って実りある研究はできない。必ずインドの言語か、それを忠実に翻訳したチベット語か、どちらかでないとダメだと言うのが教授の見解なのである。何故そもそもそこまで漢文資料に教授が敵意を抱くのか、そこのところをニーチェ流の意地悪心理学を15歳から徹底的に学んでいる筆者なら、こう解釈する。教授の論文を読んでいると、嬉々としてサンスクリットやチベット語の文章を、得意満面、自分で英訳している場面に出くわすが、筆者はついぞ漢文資料から教授が嬉々として翻訳している頁を見たことがない。これは何を意味するのであろうか。当然、漢文資料の証拠・証明能力に疑義を呈する厳格なる裁判官が、漢文を読めないなどということはないと筆者は信じたい。チベット語を解しない筆者が、チベット仏教研究家に「チベット語なんてクソや、まっ、俺は読めんし知らんけど」と言ったら、当然、相手にされないはずである。しかし、これが西洋仏教学の泰斗からの発言ともなると、これまで抹香臭い漢文資料の埃まみれの山に埋まっていた、中島敦風の仏教研究家は、こう発言するのである。「ショーペン、スゲェわ、まじパネぇっす。そこにしびれる、あこがれるぅ」と。
 ショーペンが、漢文資料に基づいたインド仏教研究の弊害として挙げている事例が二つある。
    中国の儒教精神の根幹である孝心が、仏教に取り入れられたと一般的に研究者によって考えられ信じられてきた為に、インド仏教に存在した親孝行の研究が阻害されたというのが第一の実例である。しかし、これは果たして漢文資料の責任だろうか?
    またショーペンは、中国における浄土仏教の重要性の認識から推論した結果、インド仏教に浄土仏教を見つけだそうとする無駄な試みを我々はさせられることになったという第二の実例を挙げる。しかし、再びこれは果たして漢文資料の責任だろうか?という疑問が筆者には湧く。
    上記2点のショーペンが挙げた例は、研究者の資料解釈の問題であり、漢文資料の資料価値の有効性や証拠能力に疑義を呈することとは全く別ものである。はっきり言わせていただければ、これはただのクレーマーの意見でしかない。解釈者の資料解釈の間違いを資料のせいにするのは、悪しきレトリックでしかない。こうして悪しきレトリックにより印象操作がなされた挙げ句、漢文資料が断罪され、教授は漢文資料の立場を一般化する。
 

中国における仏教の展開は、インドにおける展開と時代的にある程度の間隔を保って、パラレルな関係にあった、すなわち両者はある程度、並行して展開してきたということが、深い考えもなく仮説としてまかり通ってきたのである。
 
 
 さすがショーペン、その深い考えに筆者も脱帽するより他ない。かくて現代の仏教研究者は、西洋コンプレックスと共にマエストロの登場であると、ここにシャッポを脱ぐのである。ショーペンは畳みかける。
 
 
般若文献――『八千頌般若(アシュタサーハスリカー)』、『二万五千頌般若(パンチャヴィンシャティサーハスリカー)』など――は中国で3世紀末から4世紀ごろ、ツュルヒャー教授が述べるように、仏教が教養ある上層階級の生活と思想に「浸透し始めた」時に、「最高度の重要性」を持つようになったことは、疑う余地がないように思われる。インド主義者はここで、いくつかの事柄に衝撃を受けるに違いない。もちろん第一に、この文献類、特に『八千頌般若』が、インドの「教養ある上層階級の生活と思想の中に」かつて浸透したという証拠は実質的にない。
 
 
 筆者はこの文章を再読した時にヒデぇなと感じざるを得なかった。これは狡猾なソフィスト的一般化による印象操作のお手本である。まずショーペンはツュルヒャー教授という共犯者を持ち出して、引用文として、中国で3世紀から4世紀に仏教が教養ある上層階級の生活と思想に「浸透し始めた」時に、と始める。原文も以下にあげておく。

There seems to be little doubt that the Perfection of Wisdom literature—the
aSTasaahasrikaa, the paJcaviMzatisaahasrikas, etc.—was in China, as Professor Zürcher
says, “of paramount importance” in the late third and early fourth centuries, when
Buddhism “began to penetrate into the life and thought of the cultured upper
classes.”
 An Indianist must be struck by several things here. The first, of course, is
that there is virtually no evidence that this literature, and particularly the
aSTasaahasrikaa, ever penetrated “into the life and thought of the cultured upper
classes” in India, 
 
 まず「began to penetrate」という語句の力点は、本来の力点は「began(始める)」にあるのであって、「  to penetrate(浸透)」にあるのではない。3世紀の中国とは、三国時代から西晋にかけてである。ショーペンが、この時代をきちんとイメージできているのか、中国マニアから言えば、甚だ心もとないと言わざるを得ない。つまり司馬懿‐司馬師‐司馬昭‐司馬炎のあの時代であり、そして4世紀とは五胡十六国と東晋の時代である。それは王羲之や五柳先生の時代であった。事態はこうだ。『道行般若経』などが翻訳されて、大海の一滴として、ほとんどは異邦人がメインであったが、一部の上流子弟に般若思想が浸透し始めた。しかしそれは般若思想に染まったわけではなく、認知され始めたという事態を表すに過ぎない。実際に中国仏教の僧尼が爆発的に増加するのは6世紀の遼の時代である。諏訪義純が唐代の法琳の『弁正論』を基に、『中国人の仏教受容について』で、数値化しているが、西晋時代で僧尼は三千人程度で、その後東晋→宋→斉までは三万人程度である。遼に至って八万人に増加し、隋唐時代以降になってようやく中国人に仏教が広く流布したのである。そしてツュルヒャーの表現も、「浸透し始めた」、すなわち認知され始めたぐらいのニュアンスであったはずのものが、ショーペンは、創造的誤読か、悪意ある解釈によって「浸透」の方に力点をおき、『八千頌般若経』が、中国の知的エリートと大衆にとり「最高度の重要性」を持つようになったと断言するのである。それはたかだか三万人程度の非常に少数のグループの中で『般若経』が「最高度の重要性」を持つようになったに過ぎないのが内情であった。ここで再び諏訪義純の論文から、歴史家の習鑿歯(~385)が仏図澄の弟子の僧侶道安(314~384)に4世紀後半ぐらいに送った書簡に当時の仏教界の様子が述べられていて、分かりやすい日本語になっているので、ここに孫引きだが挙げておく。
 

そもそも大教が東の方(中国)に流れてから四百余年にもなります。藩王、居士のうち時おりは(仏教を)信奉するものもありましたが、直丹の宿訓(=儒教)が上世に行われておりました。道理は運り時世は遷りましたが、世間の人びとすべてが(仏教を)理解したわけではありませんでした。よろこびさわぐこと濤波のごときは、下士ばかりでした(弘明集研究巻下)。


    以上のような状況にも関わらずショーペンにおいては、「中国において3世紀から4世紀に大乗仏教が中国の上層階級に浸透し、『八千頌般若』が最高度に重要なものとして尊崇されていた、況んや大衆をや」と言う命題へとどういうわけだか止揚されてしまったわけである。こうしてショーペンの脳内に、オリエンタリズムよろしく、奇妙な大乗国としての中華のイメージが出来上がってしまい、そのイメージをもって、インドの3世紀~4世紀に逆転適用し、同程度の大衆の人気がインドでは見られないと、ショーペンは首を振ってみせるのである。中国大乗仏教のショーペン的な虚像であるところの、空中楼閣、旋火輪をぶんぶんと振り回して、インドに同じものがあるんだったら出してみろよ、同じものなんてないだろがというのは、ヤカラの文句としか筆者には思えない。こうして中国仏教の誇大な虚像を使い、インドの大乗仏教を矮小化することにショーペンは成功し、それに釣られて読者も、そのレトリックに騙されて納得する始末である。こうして中国仏教とインド仏教のパラレルな位相関係は否定される(ショーペンの中では)。
 『八千頌般若』のインドでの大衆の人気の物的証拠の欠如でもって、漢文資料を基に構築されたインド大乗仏教の「インド春の般若祭り」の虚像が粉砕される(ショーペンの中では)。
    続く『ラトナヴァーリー(宝行王正論)』のショーペンの解釈に関しては、筆者に異論はない。
 ここで人はどんな嘘でも繰り返せば、信じるようになるという総統だか宣伝相だかの格言通り、ショーペンは、『宝行王正論』とナーガールジュナの記述の後に、再び繰り返すのだ。
 
 
 
中国では3世紀以降、大乗がますます主流になっていることが、相当に確かなことと思われる。ところがインドの大乗は周辺的であり続けたと思われる。
 
 
 
 実際には、中国でも大乗は周辺にとどまっていたのであり、三万人の僧尼の中でますます比率的に、ショーペンに教えられるまでもなく、主流になっていただろうことが、相当確かなことと筆者には思われるのであるが、ここからショーペンは得意な、碑銘だとか美術などをあげつらい、テクストに馴れてはいても、碑銘や美術を苦手にする人を、威嚇(おどか)しつつ、そこに大乗の痕跡は皆無と断じる。そして止めの一撃とばかりに、アンドレー・バロー(この記事の前半に登場したダニエル・バローではない)と共に、5世紀初頭の『法顕伝』の記述には、「非常に稀な例外はあるが、法顕は、インドにおいては特に大乗的な要素をほとんど何も記していない」と述べる。筆者は、一ヶ月かかって法顕・宋雲・玄奘のインド旅行記の記述を抽出したのだが、どうしても筆者には分からないことがある。それは『法顕伝』をどう読み込めば、「非常に稀な例外はあるが、法顕は、インドにおいては特に大乗的な要素をほとんど何も記していない」という結論に達するのであるかということである(大乗という言葉以上の詳細の説明がなければ無というわけであろう)。筆者は幻覚の『法顕伝』を読んでいるのではなかろうか、バローやショーペンの読んでいる『法顕伝』と自分の読んでいる『法顕伝』が別物かも知れないと判断し、直接知覚が疑わしければ、証言しかあるまいと、平川彰の『初期大乗仏教の研究』の700頁の『法顕伝』の平川のまとめから抽出したところ、規模や人口は違うとはいえ、『法顕伝』で36国登場する中で大乗の記述があるのは7国あるというのが確認できている。筆者の直接知覚と、平川の『初期大乗仏教の研究』の700頁上の証言に基づけば、4世紀初頭当時の大乗寺は20%を下回るくらいの国に分布していたのである。因みに7世紀の玄奘の時代にはその数値が40%になる。
 筆者の算定では、法顕当時の大乗仏教の分布率は20%を若干下回る程度であるという見積もりが、あら不思議、バローとショーペンにおいてはゼロとなるのである。
 かくて0‐100思考により、4世紀初頭の大乗仏教は存在しないこととされる(ショーペンの中では)。こうして大乗仏教は、哀しみと共にヘッセばりに荒野の狼として荒野へと向かうのである。林住比丘と村住比丘の対立関係の認識は今後の大乗仏教起源史の筆者の独自研究でも重要になるが、ショーペンは、大乗仏教は周辺的であり、インドの6世紀までの大乗仏教徒は、森林に住する周辺的な人々であったと記述する。

ショーペンは、
①他の大乗経典(法華経など)については全く自分は考える気も思い出すこともないが、『八千頌般若』の流行はインドにはなかった。
②『宝行王正論』において大乗仏教徒は軽蔑の対象であった。
③金細工職人、王、商人の支持はなかった。
④美術上の大乗的な表現の証拠はない。
⑤法顕当時、大乗の証拠はない。
 
 
 以上の内容から0‐100思考により、インド中期仏教における大乗仏教の位置づけがショーペンにおいて再構成されるのである。それは最大限の悪しきレトリックをもって印象操作された大乗仏教像である。そしてショーペンは小乗仏教が過小におとしめられてきたのであると結論づけて、その既存の安定したグループから抜け落ちた不運なグループこそが大乗であると結論する。結論は筆者は特に間違っていないと考える。玄奘の時代でさえ、大乗は4割だったのだから。しかし大乗が自らを持ち上げるために、小乗を下げたのと同じ手法で、小乗を上げるために、大乗を下げる必要はなかったのではないかと筆者は考える。また自分の得意なインド・チベット文献を持ち上げるために、自分の理解できない漢文資料を感情的に貶める必要はなかったと筆者は考える。ショーペンは過去世の悔しい思い、サンスカーラとしての溜まった怨みを晴らしたかったのだろうと思うが、学者の手法としてこのようなクレーマー的手法と悪しきレトリックで大乗を規定すべきではなかったと筆者は残念に思う。ショーペンの大乗仏教観は最低の下限を表している。そして大乗の大乗による大乗のための大乗仏教観を最大上限とすれば、ジャイナ教徒流に言えば、この二つの偏ったナラの見方の間にこそ、真実の大乗仏教があると筆者は考えるものである。そしてその探求が、これから数回の記事で行われるはずである。南無仏






参考文献

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Dr.Balusupati Harikrishna『Political relations the Satavahanas and the Western Kshatrapas』2022 International Journal of History
カーリダーサ 『ラグフヴァンシャ』野部了衆訳 永田文昌堂
カーリダーサ  『季節集・雲の使者』木村秀雄訳 百華苑 
カーリダーサ  『シャクンタラー姫』辻直四郎訳 岩波書店
Dr.v.v.Mirashi『Studies in Ancient Indian History』1984  Maharashtra State Board for Literature and Culture Bombay
Dániel Balogh『Inscriptions of Aulikaras and their Associates』2019  European Reserch Council
義浄撰 『南海寄帰内法伝』宮林昭彦・加藤栄司訳 法蔵館
玄奘 『大唐西域記』水野真完訳 平凡社 
静谷正雄 『小乗仏教史の研究』 百華苑
中村元 『ことばの形而上学』 岩波書店
ソーマデーヴァ 『屍鬼二十五話』 上村勝彦訳 平凡社
Subramania Iyer 『Vakhyapadiya of Bhartrihari』 Deccan College 
宇野智行 『ヤショーヴィジャヤによるナヤの定義』2014
三枝充悳 『世親』 講談社
船山徹 眞諦三蔵研究論集所収『眞諦の活動と著作の基本的特徴』2012
『アショーカ王碑文』塚本啓祥訳 第三文明社
ヴァラーハミヒラ 『ブリハット・サンヒター』矢野道雄・杉田瑞枝訳 平凡社
Ajay Mitra shastri 『Varahamihira and His Times』 Kusumanjali Purekashan Jodhpur
法顕・宋雲 『法顕伝・宋雲行記』長沢和俊訳 平凡社
西藤洋 『ジョージ・バークリーにみる「オッカムの剃刀」』1999
エルンスト・マッハ 『感覚の分析』 須藤吾之助・廣松渉訳 法政大学出版局
Gregory Schopen 『The Mhaayaan and the Middle Period in Indian Buddhism』2000 
グレゴリー・ショーペン 『インド大乗仏教の虚像と断片』渡辺章悟監訳 国書刊行会
グレゴリー・ショペン 『大乗仏教興起時代 インドの僧院生活』 小谷信千代訳 春秋社
諏訪義純 『中国人の仏教受容について』1990
平川彰 『初期大乗仏教の研究』春秋社
『大乗仏典14 竜樹』所収『法行王正論』梶山雄一・瓜生津隆真訳 中央公論社
鎌田茂雄 『中国仏教史』 岩波書店
エーリク・チュルヒャー 『仏教の中国伝来』 田中純男・成瀬良徳・渡会顕・田中文雄訳  せりか書房