第4章 第19節続き1 | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む

    次にバルトリハリの師匠から考えてみたい。バルトリハリの師匠は、ヴァスラータと言われている。彼は『アーガマサングラハ』を著したとされる。バルトリハリ自身がヴァスラータを「グル」と呼んでいると中村元も指摘し、注釈者のプニヤラージャ(11世紀)やジャイナ教のシンハスーリガニ(6世紀)もヴァスラータをバルトリハリの師匠と見做している。そしてこのヴァスラータが唯識派のヴァスバンドゥとライバル関係にあり、ウッジャイン出身のパラマールタ(499~569)の『婆籔槃豆法師傳』にそのことが述べられている。パラマールタはウッジャイン出身で、時代は僅かにバルトリハリと重なっているぐらいの人物なので、バルトリハリの師匠であるヴァスラータの話はそれなりに信憑性が高いと考えられる。三枝充悳の『世親』に平易な和訳があるので、そこから筆者がまとめる。
 

 ヴィクラマーディティヤ王(正勤日王)の太子はバーラーディティヤ(波羅帙底也、新日王)と言った。王は太子をヴァスバンドゥの下で受戒させていた。太子はその後、王位に登った。新日王の妹の夫は、ヴァスラータ(婆修羅多)と云い、外道の法師で、ヴィヤーカラナ(文法学)を理解していた。彼はヴァスバンドゥの『倶舎論』を論破しようとした。しかし逆にヴァスバンドゥに論破されてしまった。ヴァスラータはこれに恥じ入り、サンガバドラ(衆賢)にヴァスバンドゥを論破させようとした。
 

 以上がパラマールタ(眞諦)の『婆籔槃豆法師傳』からヴァスラータの部分だけを簡単にまとめたものである。ここでヴィクラマーディティヤ王は、年代的にチャンドラグプタⅡ世(375~415)であり、バーラーディティヤはその太子なので、クマラグプタ(415~455)と考えられる。一般的にバーラーディティヤというと時代がもっと下って6世紀のグプタ朝の12代皇帝ナラシンハグプタのことを指すが、当然のことながらヴァスバンドゥと同時代の王であれば、ナラシンハグプタであるわけがないし、そもそも著者のパラマールタが、ナラシンハグプタの時代に青春時代を送っているのだから間違うわけはなく、これはチャンドラグプタⅡ世とその後継者の物語である。このような時代背景を鑑みて、中村はヴァスラータを400~450年ぐらいの人と断定している。ここでまずヴァスラータが、クマラグプタの義理の兄弟であり、ブラーフマナであり、グプタ朝の宮廷で活躍していた人物であるということが分かる。チャンドラグプタⅡ世の娘を娶るぐらいであるから、かなり権勢を得ていた人物であろう。こうした人物の弟子になるには、それなりに社会的ステータスが高くないと近づくのも難しかっただろう。グプタ王朝の中枢にいる人物へ近づくには、グプタ朝と同盟関係にあるような王族の子弟であれば、容易であったろうと思われる。しかし、どこの者とも分からぬような卑賎な落ちぶれた貧乏ブラーフマナであれば、中々弟子入りは困難であろう。ここからバルトリハリが王族の子弟なら、弟子入りは容易であったろうし、それもグプタ朝と同盟関係にある国であれば、さらに師弟関係を結ぶのは容易だったと思われる。また田舎の貧乏ブラーフマナであれば、中々にこのような権門に弟子入りできた可能性は低まると考えられるのである。
 ここまではバルトリハリを研究すれば、誰でも気づくことである。次はこのブログ独自の方法論を取る。かくて
 
 
 
【E先生がバルトリハリを遠隔透視した話】
 
 お前(筆者)が見て来いよと言われそうだが、筆者はまだバルトリハリには会いに行っていない。筆者が会いに行ったのは、このブログの対象時期のインド人では、「何人ナーガールジュナはおんねん」と思って会いに行ったナーガールジュナ(竜樹)くらいである。ちなみにナーガールジュナは第二も第三もおらず中観の人一人だけである。安心してください、一人だけですよ。彼は若い時に王宮に侵入した話とかもあり、インド、チベット仏教では大スターなので、さぞ華々しい人なんだろうと思って行ったのだが、すごい狭い陰気な暗い部屋に一人で黙然と座っていて、華々しさの印象は微塵もなかった。ナーガールジュナは、印象としては辛気臭い野郎であった。少々脱線したが、先日、筆者はバルトリハリが本当に王様なのか、夜も眠られず、E先生に遠隔透視してもらうことにした。幾つか見てもらった中で③の紙がバルトリハリであった。しかし最近は新鮮さもなくなってある種、遠隔透視も日常の退屈なワークの一つに過ぎないので、ぞんざいに③の紙と関連付けしたノートには、カタカナで「バルトリハリ」と名前だけ書いておいた。E先生は③と書かれただけの紙に意識を集中し、光の塊となって紙の中に没入し進入する。数分後、E先生が困ったような顔をしながら意識を日常に戻す。「何か、いつもと見えるものが違うんだけど」。E先生は腕組みして眉間に皺を寄せて落ち込んでいる。「何か、砂漠みたないところで、太陽が東から昇っていって、また西に沈んで行って、月が昇って来て、また太陽が東から昇って西に沈んでいくんだけど。何これ?太陽が運行しているんだけなんだけど」。最初、筆者は「珍しくこの先生、とんでもなく豚珍漢なものを見てやがるな、珍しいものだ、こんなに全く対象に的中しないなんて先生にはこれまでないことだ」と考え、猿も木から落ちるものなのだと逆に感心したものである。しかし少しして戦慄した。「コイツ、バルトリハリの語の意味を見てやがるな」。バルトリハリの、バルトリは「維持者」という意味であり、ハリは「黄色、ないし太陽神としてのヴィシュヌ神」である。つまりバルトリハリは「太陽の運行を維持する者」といった意味なわけである。筆者は内面で独りごちた。「やべぇーな、こいつサンスクリットの語義を遠隔透視できんのかよ、こんなんだったらインダス文字も解読できそうじゃん」。筆者はE先生に謝って、すぐに違うものが見えるようにするから待っててと言って、ノートの③の「バルトリハリ」のところを「バルトリハリという文法学者について」と書き加えた。「先生、すんません、俺のちょっとしたミスです、もう大丈夫だから早くもう一回見て来て、今度は全く別のが見えるはずだから、さっさと行ってきて」。「何か、スッゴい着膨れしてる東洋人のおじさんが見えるんだけど、何かスッゴい重ね着してるんだよね」「本人に王様ですか?って聞いてきて」「何も反応しないんですけど」「王様だったか聞いてきて」「何か頷いている」「王様だったのか?」「それっぽい」。ここでインド人なら頷くジェスチャーは、うんたらかんたらという批判もあるかも知れないが、我々の見ている世界はある程度、遠隔透視者の表象能力に依存して現出しているスポータ的世界である。一応E先生が肯定しているので、遠隔透視の結果からは、どうやらバルトリハリは、王様だったことがあったようなのである。かくて遠隔透視的にはバルトリハリは、着膨れした元王様という結果が出たわけである。



 かくして奥書情報、『ヴァーキヤ・パディーヤ』からの筆者のバルトリハリの性格分析、バルトリハリの師匠のヴァスラータの社会的ステータスからの推論、E先生による遠隔透視情報。この四つからどうもバルトリハリは王様である蓋然性はそれなりにあると踏んで大丈夫そうである。しかし反論もなくはない。バルトリハリ死去140年後の義浄の『南海寄帰内法伝』のバルトリハリの描写に、王様であったという記述がないのは、当時、バルトリハリが詩人や学者であっても、元王様という認識が大衆になかった可能性を示唆するのではないかというのがそれである。これは一理ある。
 ともかく、とりあえず蓋然性はそれなりに高そうなので、一旦「バルトリハリがマハーラージャであり、アヴァンティの支配者であった」という仮説を取り込んで考察を進めてみたい。学問的にバルトリハリの年代は450年~である。そして彼は、アヴァンティの支配者であるならば、当然、次に我々が検討すべきは、450年~510年くらいのアヴァンティ地方の王朝ということになる。カーリダーサの時代、つまり5世紀前半は、ウッジャインはグプタ朝の首都であったが、5世紀後半からフーナ族の進攻で西インドは不安定化する。グプタ朝はかくして後退・衰退期に入る。サウラーシュトラ、つまり今のグジャラート地方では、475年頃にマイトラカ王朝がグプタ朝から独立する。チャンドラグプタⅡ世のひ孫、クマラグプタの孫であるプルグプタ(467~473)、クマラグプタⅡ世(473~476)、ブダグプタ(476~495)ぐらいにはグプタ朝の西インドの支配は揺らいでいた。この辺りの時代にアウリカラー朝が、独立を強め、ウッジャイニーにも勢力を伸ばして、マールワー地方、つまりアヴァンティの支配をしていたことが推論できるのである。つまりこのアウリカラー朝の王こそが当時のアヴァンティの支配者(イーシュワラ)であったわけであるから、この時代の王様にバルトリハリらしき人が存在していれば、めでたしめでたしなわけで、そうでなければ我々の仮説は当時のグプタ朝の西インド支配の如く瓦解するわけである。
 かくしてこれより我々が研究するのは、より詳細なアウリカラー王朝史であり、運の良いことにこの時代は幾つかの碑文から研究が相当進んでいて、かなりの詳細が分かるのである。
 我々が主に研究の材料として用いるのは、ヴァースデーヴ・ヴィシュヌ・ミラーシー(1893~1985)の『Studies in Ancient Indian History』(1984)と、


ダニエル・バロー(1974~)『Inscriptions of Aulikaras and their Associates』(2019)である。


    ミラーシーは、その著書の1章3節で主にリースタルで発見されたアウリカラー朝のプラカーシャダルマン王のリースタル碑文をメインに据えて研究している。他方でバローは当時のアウリカラー朝関係の碑文を網羅的にその著書で取り扱っていて、現在のアウリカラー朝研究の最先端のものと見做して良いだろう。
 既にこの記事の最初の方で簡単に触れているが、アウリカラー朝の王朝史を確認するところから始めたい。アウリカラー朝の王朝史は、ウッジャインの北西のマンダサウルやリースタルなどから発見された碑文をもとに研究が進み、おおかたの流れは解明されつつある。

(左の緑がマンダサウル、右がリースタル)

    サカ族の西クシャトラパ朝の衰退と共に、マールワー地方にアウリカラー朝が、グプタ朝の勃興と共に進出し始める。バローによる2019年の研究書がこれまでの先行研究をもとに総括され、ほとんどを網羅しているので、詳しくは、PDF形式でネットで拾えるはずなので、一読をお勧めする。アウリカラー朝は前期アウリカラー朝と後期アウリカラー朝に分かれる。ミラーシーは、前期アウリカラー朝の王名の後ろにヴァルマンと付くので、前期アウリカラー朝の系統をヴァルマン家、後期アウリカラー朝の王名の後ろにはヴァルダナと付くことからヴァルダナ家と分かりやすく弁別している。前期アウリカラー朝のヴァルマン家は、マンダサウルを首都とし、碑文の多くもそこから発見されている。また後期アウリカラー朝のヴァルダナ家は、マンダサウルから東に行くこと約40キロのリースタルに本拠地があった。ヴァルマン家の系譜は以下の通りである。
 
 
①ジャヤヴァルマン
   ↓
②シンハヴァルマン
   ↓
③ナラヴァルマン(404年〔A1〕、417年〔A2・3〕)
   ↓
④ヴィシュヴァヴァルマン(431年〔A4〕)
   ↓
⑤バンドゥヴァルマン
   ↓
⑥プラバカーラ(467年〔A5〕)
 
 
※西暦年の後ろの〔A○〕は、バローの著書の碑文に付せられた番号である。
 
 
 碑文を読むとヴァルマン家は、当時のグプタ朝と良好な関係を持っていたことが分かる。彼らは臣従関係か、同盟関係を有していたと考えられるが、時期的には、エフタルのフーナ族の勢力が増し、マハーラージャーディラージャ(王の中の王)を名乗ったエフタルの王トーラマーナ時代におけるグプタ朝の衰退と共に、ヴァルダナ家に王権が移行したようである。筆者の推測では、ヴァルマン家は、グプタ朝の廷臣的な立場にあって、グプタ朝の後ろ盾を失って失権し、その結果、リースタルのヴァルダナ家が王朝を引き継いだと考えられる。前期アウリカラー朝のヴァルマン家についてはそれほど多くの謎はない。
 次に後期アウリカラー朝のヴァルダナ家の系譜を挙げる。
 
①ドゥルパヴァルダナ(400~420年?)
    ↓
②ジャヤヴァルダナ(420年~440年?)
    ↓
③アジタヴァルダナ(440~460年?)
    ↓
④ヴィビーシャナヴァルダナ(460~480年?)
    ↓
⑤ラージャヴァルダナ(490~491年〔A7〕)
    ↓
⑥プラカーシャダルマン(アーディティヤヴァルダナ)(515〔A9〕)
    ↓
⑦ヤショーダルマン(ヴィシュヌヴァルダナ)(532年〔A10、A11、A12〕)
 
 
 
 ①~④までの王の年代は、特定できるものはないが、1世代20年として、ミラーシーもバローもおおよそのものとして上記の年代を挙げている。この中でまず断っておくべきところがミラーシーにおいてアーディティヤヴァルダナの特定問題が取り上げられているが、2002年のアシュヴィニー・アグラワールの説では、アーディティヤヴァルダナは、プラカーシャダルマンの別名であるとして、この説についてバローも今のところ最も可能性の高い説であると述べている。その次の代の有名なエフタルのミヒラクラ王を破ったヤショーダルマンの別名がヴィシュヌヴァルダナであるというのがニルドーシャのマンダサウル碑文〔A10〕にも記載があるので、このことからしてもプラカーシャダルマンにもヴァルダナの名があったというのは当然の推測であるから、年代的に言ってもプラカーシャダルマン=アーディティヤヴァルダナで間違いないであろうと筆者は考える。次に何故、ヴァルダナの家名だったものが⑥プラカーシャダルマンの代からダルマンの家名に変わったのだろうかという疑問が湧くのであるが、プラカーシャダルマンは、マハーラージャーディラージャ(王の中の王)を名乗ったエフタルの王トーラマーナを打ち破ったことがプラカーシャダルマンのリースタル碑文〔A9〕に記されているので、その戦勝によって覇権を握ったことに関連し、地方的な王家の名であるアーディティヤヴァルダナを、マハーラージャーディラージャとしての立場を表す為に(次代の⑦ヤショーダルマンの碑文には、マハーラージャーディラージャの名称が出てくる〔A10〕)、ダルマンの名称に変えたのではないかと筆者は推測するものである。以上がバローの著書から筆者が読み解けた範囲のアウリカラー朝の王統史である。


(エフタルの王トーラマーナ)

    かくて上記の内容を踏まえた上で、本題のバルトリハリ=ヴィビーシャナヴァルダナ王説の検証に入る。
 ①『ヴァーキヤ・パディーヤ』の奥書情報②バルトリハリの性格分析③バルトリハリのグル④E先生による遠隔透視情報に基づいて、それなりにバルトリハリが、アヴァンティ地方の支配者であった可能性が高いだろうという推論から、我々はバルトリハリが当時のアヴァンティ地方の支配者であるアウリカラー朝の王の誰かではなかろうかという当たりを付け得るのである。そして先述のアウリカラー朝の王統史とバルトリハリの年代論(450~500)から、仮にバルトリハリが王様であれば、それは後期アウリカラー朝のヴァルダナ家の誰かである蓋然性が当然の如く推論できるわけである。このような推論の過程を経て筆者は、ヴァルダナ家の後期アウリカラー朝史の研究を始めたわけであるが、最初は流石にここから先、上手くいくはずはない。筆者の推論もさらなる有望な証拠にぶつかることはないだろうと安心していたのである。しかし、プラカーシャダルマンのリースタル碑文〔A9〕を、ミラーシーの著作の註に全文がサンスクリットで記載があってそれを読んだ時に思いがけぬ記述に出くわしたのである。それがヴァルダナ家4代のヴィビーシャナヴァルダナの以下の記述部分である。訳は筆者である。


श्रुतविविक्तमनाः स्थितिमान्बली स्फुटयशः कुसुमोद्गमपादपः ।
जगति तस्य सुतः प्रथितो गुणैः कुलललाम विभीषणवर्द्धणः ॥९॥
 
シュルタ(聖学)とヴィヴィクタ(脱俗)に心を向け、有徳・有力にして、名声の花は樹木に満開(スプタ)と広がり、世間における名聞は、諸々の徳質によりて家門を荘厳せし、かの方(アジタヴァルダナ)の子息ヴィビーシャナヴァルダナ。(9)

सदुदयैः प्रविकाशिभिरुज्ज्वलैरविहतप्रसरैः शुभरोहिभिः ।
सुचरितैः किरणैरिव भानुमान्क्षततमाङ्सि  जगन्ति चकार यः ॥१०॥

真実の創造による壮麗なる光輝さの、
遮られることなく、伸び拡がり増進するその吉祥からなる、
かの方の、太陽の如き良き行状による、 閃光は、諸々の世界における闇を破壊せり。(10)
 

 まず「シュルタ(聖学)とヴィヴィクタ(脱俗、寂静)に心を向け」という記述が、一際目を引く。ヴィビーシャナヴァルダナの代までの(英語のリースタルのウィキにも翻訳があるし、バローの著作にも英訳があるので確認していただきたいのだが)①ドゥルパヴァルダナ②ジャヤヴァルダナ③アジタヴァルダナの記述は全て王族としての戦いにおける武勇や強さと言ったものでその特徴があげられているのに、突然④第四代のヴィビーシャナヴァルダナだけ、シュルタとヴィヴィクタと言う全くこれまでの先祖達の記述と毛色の異なる記述から始まるのである。つまりこれまでの武勲赫々たる王様としての美徳を有する先祖達と全く興味関心が異なる特質を有していた王様がヴィビーシャナヴァルダナという人なのである。さらにリースタル碑文では、有徳・有力であるというこれまでの先代達の美徳と同種のものを挙げつつ、次に「名声の花は樹木にスプタ(満開)と広がり」というのが、好奇心を注らせるのである。「スプタヤシャ(花開く名声)」という複合語の前分は、スプトという動詞に接尾辞aを付加された、複合語の前分を作る為にヴリッディ化されていないものだが、独立した名詞・形容詞としてはヴリッディ化して「スポータ」という語となる。スポータは当然、バルトリハリの名を有名にした言葉の本質としてのスポータ説を表す述語である。ヴィビーシャナヴァルダナの名声に関する記述でスポータを匂わすような用法が使われているわけである。そしてヴィビーシャナヴァルダナの花開く名声は、樹木を覆い咲き誇るかのようであったとリールタル碑文は述べる。そして彼の名声は世の中に広がりそれは家門を荘厳したと碑文は述べている。後半部分は、詩的な修辞の連続であるが、その人の真実の行状が太陽の如く、世の闇を打ち破ったということが述べられる。残念ながらヴィビーシャナヴァルダナ単独では、この碑文が記述するような世間に名を轟かすような記録は、歴史学上、この碑文以外に皆無である。しかし碑文では彼の名声は世界に満開の花が枝に拡がる如く広がり、その彼の名声は、我がヴァルダナ家を荘厳したと孫のプラカーシャダルマン王が自慢げに言うのである。ちなみにこのリースタル碑文はこの祖父ヴィビーシャナヴァルダナを記念して、プラカーシャダルマンが、シヴァ神の寺院にヴィビーシャナ池を開削したことを記したものである。エフタル族のトラマーナ王を破った英雄であるプラカーシャダルマン王にとって祖父のヴィビーシャナヴァルダナ王には特別な思いがあったということが分かる。しかし我々にはこの碑文以外に特別な情報がヴィビーシャナヴァルダナ王については、一切持ち合わせがないのが現状である。彼は先代などとは違い、シュルタ(聖学)とヴィヴィクタ(脱俗)に心を向ける異色の王であり、その名声は世界に花が樹木に満開に咲く如く広がっていた。また彼は世の闇をその真実により打ち破ったのであった。プラカーシャダルマン王にとって一族の誇りであり、彼にはこの祖父に対し特別な思いがあったのである。また一世代20年で計算した概算によるヴィビシャーナヴァルダナの年代は460年~480年とミラーシーとバローは算定しているので、この年代はきっかりバルトリハリの現在の研究における450年~500年という年代とも一致するのである。
 もし仮に我々がヴィビーシャナヴァルダナ王の碑文の文章にバルトリハリを代入すれば、この文章の意義深さが増すのは明らかであり、この聖学と脱俗の方向に心を持った有徳・有力で、名声が世界に樹木に花が満開(スプタ)と広がり、真実により闇を打ち破った王こそが、バルトリハリその人であるという可能性を、この碑文は十分に証するものであると筆者は考えるものである。もしヴィビーシャナヴァルダナ王がバルトリハリであったならば、孫のプラカーシャダルマンが、祖父のことを我が家門を荘厳する誇りであるとする碑文の意味が我々によく理解できるし、碑文に祖父のことを記念したい気持ちはたいへん共感できるわけである。プラカーシャダルマン王にとり祖父のヴィビーシャナヴァルダナ王は自慢の祖父だったのである。もし仮にヴィビーシャナヴァルダナがバルトリハリでなければ、この碑文の文章は、内容が空疎で、なおかつ意味不明な独自性が出過ぎとしか言いようがない。何故わざわざ王として、それ以外の祖先と同じ有徳、有力であると言った紋切り型の表現にせずに、王としてそれほど誉められべきではないような特質を大書きするのか、その合理的根拠が筆者には思い浮かばない。また後半部分の美辞麗句に、単に少々学問好きであったというだけの人が耐えうる表現ではないと思われる。かくてこれらが筆者が発見したヴィビーシャナヴァルダナ王=バルトリハリ説の推論の根拠となる事柄である。大発見ではあるが、まさか一介のブロガーである筆者が、世界で一番乗りで気づいてしまったことをいささか遺憾に思うものである。もしかしたらこのまま誰一人あと五十年は、インド人や西洋人の学者もこのことに気づかない予感さえする(とりあえずどなたか蛮勇を有する学者の先生がいらっしゃったら筆者と連名でいいので、国際バルトリハリ学会にでもこのことを発表して、ぼんやりしている間の抜けたインド人や西洋人のバルトリハリ・ガチ勢に本当のことを教えてやって欲しい限りである。レンラクヲおマツ様)。
 次にバローの研究の中で碑文〔A15〕に、バルトリハリの名前に関して、参考になりそうな情報を発見したので、そこも簡単に追加情報として述べておく。だいぶ年代が下がって、7世紀初期のクマーラヴァルマンのマンダサウル残碑において、碑文の書き手としてバルトリ・アナンタの息子のバルトリ・チェーッラことラクシュマナグプタが書いたということが、そこに記されている。バローの解説では、「バルトリ」は、パンディットを表すような称号であろうと述べられている。バローは、一切バルトリハリは念頭にない書き振りであるが、バルトリハリもこうした「バルトリ」という称号を有するバルトリ・ハリという学名か筆名のようなものであった可能性がこの残碑から想定することが出来そうである。またこのバルトリという称号を有するバルトリ・アナンタやバルトリ・チャーッラの学問的系統の伝統の中に100年以上前に5世紀のヴィビーシャナヴァルダナ王ことバルトリ・ハリが位置する可能性を想定することができるかもしれない。さらに追加で、プラカーシャダルマンのリースタル碑文の年代は、515~516年なので、ヴィビーシャナヴァルダナ=バルトリハリ説が正しければ、この時期には既にバルトリハリは亡くなっていた可能性が高い。従って、義浄のダルマパーラとバルトリハリの同時代人説は誤りの可能性が高いと推定できるのである。
 というわけで以上、何故だか、世界最速で発見してしまったヴィビーシャナヴァルダナ王がバルトリハリであるという筆者のトンデも説の開陳はここまでにして、ここからさらに先を急ぐ。これでだいたい0~500年代までのウッジャイニーの様子は、結構、思いの外、歴史的に分かってきた。ここまでの時代は、日本で言えば記紀の時代であるから、インドは歴史が欠けているというが、本当は歴史書が欠けているだけで、それなりにコインや碑文などから結構分かることも多いのである。西クシャトラパ王国→グプタ朝・前期アウリカラー朝→後期アウリカラー朝と支配王権は変わっていき、その中で1世紀にラクリーシャが、4世紀にカーリダーサが、5世紀にバルトリハリがアヴァンティ地方で活躍したのであった。ここからは少し駆け足で、『ブリハット・サンヒター』の著書で有名な占星術師のヴァラーハミヒラと中国に渡った仏教僧パラマールタ(眞諦)のウッジャイニーを見ていき、最後に玄奘のウッジャイニーの描写を見て、今回の記事の前半部分である1世紀から7世紀までの大まかな都市ウッジャイニーの研究を終えたい。
 次はヴァラーハミヒラについて。ヴァラーハミヒラは、ペルシアからやって来たゾロアスター教徒の子孫で、著書『ブリハッ・ジャタカ』ではアヴァンティ地方の生まれであると自ら述べている。また年代としては著書『パンチャシッダーンティカー』で、505年を歴元として採用しているので、6世紀の人であったと考えられる。


    その著書『ブリハト・サンヒター』では、彼はアヴァンティ地方のマハーラージャーディラージャ家(maharaajaadhiraajaka)の王「nRpa」であるドラヴィヤヴァルダナ王について、その第85章で語っているが、その内容は他の先人達の言説と共に、ドラヴィヤヴァルダナ王の鳥獣占いの言説を纏めたものである。しかし、『ヴァラーハミヒラとその時代』(1991年)の著者であるアジャイ・ミトラ・シャーストリー(1934~2003)は、このドラヴィヤヴァルダナ王をマハーラージャーディラージャ(王の中の王)であると誤読して、ヴァラーハミヒラの当時のパトロンである大王の名前であろうと述べているが、実際にはマハーラージャーディラージャカと最後に「カ」が付加されていて、これはマハーラージャーディラージャの家系に属するという意味であり、実際にはヌリパ(王)であったに過ぎない。





    すなわち彼は後期アウリカラー朝のヴァルダナ=ヴァルマン家の初代のドゥラパヴァルダナ王であろうとバローは同定している。年代的に言えば、ヴァラーハミヒラは、我らがヴィビーシャナヴァルダナ王の孫であるプラカーシャダルマンや曾孫であるヤショーダルマンの時代の人である。ヤショーダルマンは、インドではエフタルのミヒラクラ王を打ち破った英雄である。彼は筆者の独自研究によれば、バルトリハリの曾孫にあたるということになり、これが事実ならバルトリハリは、絵本にさえなっているインドの英雄のひい祖父さんということになるのだから、筆者の独自研究の影響は、インドの歴史観に結構、影響しそうで、なんだか恐ろしい限りではある。


    ちなみにヤショーダルマンに打ち破られたエフタルのミヒラクラは、520年頃に中国人僧宋雲と会見している。宋雲によればガンダーラ国王のミヒラクラは人情の機微に達し、中国皇帝の詔書の受け取りで、宋雲と一悶着になったが、宋雲はミヒラクラを議論で打ち負かすことができなかったと、述懐している。

(ミヒラクラのコイン)

    ヴァラーハミヒラはアヴァンティ地方で活躍した占星術師で、その時代は後期アウリカラー朝のプラカーシャダルマンやヤショーダルマンがマハーラージャーディラージャ(王の中の王)を名乗りマールワー地方に覇権を確立した時代であった。そしてヤショーダルマンはブラフマプトラ川から東のマヘードラギリ山、北はヒマーラヤやインド西海岸までを支配する強大な帝国を作りあげたのであった。その時代にヴァラーハミヒラは生きて、祖国の栄光をその目で見たことだろう。しかし550年頃には帝国は崩壊したようなので、彼はアウリカラー朝の衰退をも見たのかもしれない。
 次にヴァラーハミヒラと同時代人のウッジャイニー出身のパラマールタ(499~569年)を見ていく。


    彼はディグナーガの一世代後の人であるが、彼は出身地から言っても正量部で受戒した可能性が高い。それは、船山徹によって文献学的にもその可能性が示されている。またディグナーガとの動向における共通性も示唆されている。どちらも犢子部系の部派で出家し、唯識思想に接近した。また彼の唯識思想は、グナマティ系の無相唯識に位置づけられるので、スティラマティの活躍したヴァラビーから、マールワー地方なども含めて、インド西部よりの唯識思想との親近性がある。従って彼は、ディグナーガから護法へと続くナーランダー直系とは言い難いが、ディグナーガの書を翻訳しているので、ある程度、ディグナーガの思想にも全部ではないにせよ触れていたことが窺われる。彼のインドのウッジャイニー時代は、後期アウリカラー朝がエフタルを打ち倒した時期であり、戦乱と勝利と栄光の時代であった。彼が中国の建康に やって来たのは、548年なので、途中どのくらい扶南国に滞在していたかは不明であるが、532年頃までには、ヤショーダルマンがエフタルのミヒラクラを打ち破っているので、彼もまたヴァラーハミヒラ同様、祖国の大勝利を見ていたはずである。しかし彼の晩年には既に祖国のアウリカラー朝は崩壊していた。彼は大変な望郷の念に駆られながら中国で没したとされるので、彼は祖国の栄光の記憶と共に中国に旅立ち、そして祖国の没落を見ることなく遠い異国で亡くなったのである。彼がウッジャイニー出身である以上、バルトリハリのことはよく知っていたであろうし、彼がヤショーダルマンのひい祖父さんであることもこのブログの読者同様知っていたと考えられる。
 最後に玄奘の『大唐西域記』からウッジャイニーの項を全文引用して、今回の記事の前半部分の最後としたい。
 
 
ウッジャイニー国は周囲六千余里ある。国の大都城は周囲三十余里ある。農産物・風俗は蘇剌佗(スラッタ)国と同じである。住民は殷賑に、家々は富裕である。伽藍は数十ヶ所あるが、倒壊しているものが多く、残っているものは三つ五つ。僧徒は三百余人、大・小二乗を兼ねて学習している。天祠は数十ヶ所、異道の人々が雑居している。王は婆羅門種である。邪教の書物に博く目を通し、正法を信仰していない。ここを去ること遠からざる所に窣堵波がある。無憂王が地獄(監獄)を作った処である。
 


(ウッジャィンの街並み  筆者撮影)
 
 ウッジャイニーの王は、バローの〔A15〕の研究における7世紀初期のクマーラヴァルマンのマンダササウル残碑では、当時、アウリカラー朝の王統が細々と続いて、当時の王の名前としてクマーラヴァルマンやバースカラヴァルマン、ヴィーラソーマという名前が残っている。この辺りの王達がアウリカラー朝の残存勢力であったようなので、玄奘のこの記述のブラーフマナ種の王というのもこの系統の王であった可能性が考えられる。しかし玄奘のウッジャイニーの描写にはもはや昔日の栄光の様子はない。当時この一帯の覇権は、グジャラートのマイトリカ王国の西方分国である北ラータ国とアラビア海よりのマールワー地方西部に広がるマイトリカ王国の東方分国たる南ラータ国に移っていた。既にそこにはラクリーシャやカーリダーサ、バルトリハリに、ヴァラーハミヒラやパラマールタが知るウッジャイニーの殷賑さは消えうせていたのである。