第4章第18節の続き | 『パーシュパタスートラ(獣主派経典)』を読む




    さて、ここまでが落語で云うところの、枕である。かくてついに皆様お待ちかねの【<私説>インド中世宗教史及び中世ヨーガ史】に取り掛かることにしたいと吾輩は思うのであります。しかしここで本来なら、最初に大まかな目次に変わる見取り図を提示し、インド亜大陸縦断横断また縦断の時空間を飛び回るその冒険活劇の旅程を発表したいところであるが、以前に申し上げた通り、綺麗にまとめられたノートは出てきたが、そもそも筆者の頭の中で練り上げられた工程表は、ピケティやらケインズやらのお蔭さまでぶっ飛んだんで、今のところ、かなり自由旅行めいた、行き当たりばったりの無企画・無計画・無軌道の即興(インプロヴィゼーション)的な方法論で書いていくことになろうから、旅程表、工程表、計画表の提示は不可能である。しかし、2年前の筆者であったら分からなかったことも、今の筆者は鬼に大福、豆に金棒と何でもござれの無手勝流なので、羅漢に逢うては羅漢にカーフキックし、仏に逢うては仏をお陀仏にするという有様であるから、ガイドとしては非常に頼もしいと自画自賛をして売り込みたい限りなのである。何故なら今の筆者は、クンダリニー覚醒体験を経て、クンダリニー・シャクティそのもののダルシャンを得ているわけであるし、 また10年来の謎であったマントラの哲学を解明する、一般言語学と神秘言語哲学とを包括するメタ・言語学としての言語=存在論について、足を向けては寝られない大恩人である、大言語学者にして大詩人、大ヨーガ行者にして大ラージャであるアヴァンティの主こと、バリトリハリ尊師からすり抜けながらその理論の根本を掻っ攫ったので、2年前には謎過ぎた、『シヴァ・スートラ』におけるKa音から始まる、マーヘーシュヴァリー等の獣母達だとか、全身がグプタ文字で形成されているマーリニー女神だとか、言ってる内容はわかっても、何でこんなことを言ってるのか、2年前の筆者には全く腑に落ちなかったわけであるが、今では如何なる論理でかかる一般人には不可解なパズリング・クエスチョンとしての謎々が存するのかも理解可能となっている。



    ちなみに二年前の筆者より今の筆者の方が段違い平行棒に、序ノ口から序二段に上がったぐらい明々白々にその実力の違いがある。つまりガイドの実力は上がっているんだから、それほど厳密な計画に沿って論を展開していく必要はないだろうと思う。一応、順番としては、時系列に沿うのを基本にし、まずはパーシュパタの各支派からシャイヴァ・シッダーンタの大まかな流れに進み、そこからバイラヴァ・タントラやブータ・タントラなどのタントラの各支派、そしてシャクティ派の各支派からカウラ派、ナート派という風にまずは王道路線でシヴァ派は進む予定であり、ヴィシュヌ派は、とりあえず今でもあまり詳しくないので、勉強がてら余裕があったら概説程度で論じようと思う。またこうした流れとの対比で、インド仏教や金剛乗がそれらとパラレルの関係にあるのを念頭におきつつ適宜、仏教についても論じていく。
 本来ならその結果、クンダリニー覚醒のメソッドを炙りだし、2年後ケートゥ期に突入する筆者が、かくてクンダリニー覚醒に取り組むつもりであったのだが、本末転倒してしまったので、その結果、何がかかる論考の果てに見えてくるのか、筆者も皆目見当がつかない。もしかしたら「これってただの私の感想ですけど、インド人ってやっぱ変わってる人達だね~」という、とんでもない格言めいたまとめのお言葉で終わるやもしれないし、場合によっては、物質化現象の鍵を手にして、錬金術の地平が開けるやもしれない。なので今は何も最初から結末を決めつけずに、真っ白な気持ちで、クンダリニー覚醒者として、クンダリニー・マウントを取って恐縮ではあるけれど、まだクンダリニー覚醒していない読者諸賢と共に、真摯に筆者はインド哲学の研究に取り組む所存ではある。

 ということで所信表明が終わったので、続いて、方法論の公準を述べる。まず我々がインド亜大陸を頭に浮かべた場合、現代人の感覚で云う南インドと、中世インドにおける南印度の感覚には違いがあるので、ここをまず押さえておきたい。今後、インド中世宗教史と中世ヨーガ史の記事で、南と云う場合、断り書きがなければヴィンディヤ山脈以南を南と云う風に考えていただきたい。つまりマハーラーシュトラ州を含めたインド中部も南インドの範疇に入る。【南とは、ヴィンディヤ山脈以南】。これが第一の公準である。なのでヴィンディヤ山脈を越えたら、もうそこは日本人で云う沖縄とかグアムとか、ハワイなんやと思って欲しい。





 次に時系列の把握は当然、歴史の再構成において必須であるが、インド中世史は、インド人特有の歴史アバウト主義によって、中国史の研究のように史書をひもとけばそこに正解があるというわけには行かないので、地理的把握を最大限の絶対防衛ラインとしてこれも時系列と同程度に優先して追及していかなくてはならない。つまり言語哲学者であるバルトリハリの年代もさることながら、彼がアヴァンティ出身か、否か、その蓋然性はどの程度なのか、ということが問題になり、彼がアヴァンティのマハーラージャであったなら、つまりそこは数世紀前には、ラクリーシャが闊歩していたウッジャインなのであり、当時のシャイヴァ・シッダーンタの震源地とも被るということが、分かるわけである。そうすれば、その時代の仏教徒がアヴァンティでどの部派が優勢かということを考慮に入れれば、より立体的にバルトリハリが把促できるようになるわけである。有名な密教徒のジュニャーナ・パーダは、父タントラをコンカン地方で学び、母タントラをウッディヤーナで学んだということがその伝記から知られているが、シャクティ・ピータの四大聖地(ウッディヤーナ、ジャーランダラ、プールナ・ギリ、カーマルーパ)の位置を考慮に入れて、地図と睨めっこしていれば自ずから分かることも出てくる。【何はさておき地理的把握を最大限行う】。これが第ニの公準である。


 続いて【政治的な中心地を必ず念頭に置くこと】、これが第三の公準である。これは文化を把握する上で重要で、例えば、パーシュパタのように放浪生活を基本として、解脱至上主義であれば、王権のサポートや支配地域などを考慮に入れることが本人達も少なかったであろうから、それ程重視する必要はないかもしれないが、シャイヴァ・シーダンタのような僧院を運営し、そうした僧院にどっかり腰を据えて膨大な聖典を量産したような人々は、王権との癒着抜きには、かかる僧院生活を維持するのは困難であったであろう。つまり彼らの生活は王権に依存しているわけで、そうなると王権の支配地域やその伝播などが、支配地域ごとに見えてくる。第二公準の地理的把握は、王権の支配地域の理解と相俟って、初めてより立体的に捉えることが可能となる。例えば・父タントラはコンカン地方の王権との関係でもって把促する必要があるし、母タントラはウッディヤーナ地方の王権との関係で把促することでより立体的に見えてくるものがある。
 第四の公準は、例外はあれ、大雑把に言って【教線の拡大、宗派の伝播は時間を追うごとに放射線状に拡大する】。これはある宗派を捉える場合に、原則的には放射線状に拡大するということであり、パーシュパタの震源は、ウッジャインであるから、その教線の拡大は放射線状にインドに拡大しているという理念型を念頭において地理的な分布を見えいくことが必要である。とは言え、アーディ・シャンカラの人生を考えれば、例外は当然ありうる。彼の教えの分布はかかる原則から外れているが、例外をもって通則を破棄すべきではないから、かかる理念型としての伝播モデルを念頭に置くことは重要である。
 第五の公準は【5世紀以降のシヴァ派とインド仏教の関係はパラレルである】。シヴァ派から金剛乗への流れの平行関係は、証明が必要であろうが、とりあえず公準として念頭に置くべきであり、ほぼほぼ間違いない。ある時点のシヴァ教からそれに後続するインド密教が平行関係として成立することから、特定のシヴァ教から分かることが、演繹的にインド密教のある段階に適用させて、その歴史の闇に埋もれたものを理解することが可能であり、その逆も真である。
 第六の公準は、【インドを横断、縦断した仏教僧は、歴史の再構成におけるチート級のお助けマンである】。法顕(337-422)、玄奘(602-664)、義浄(635-714)、ジュニャーナ・パーダ(750-800)等など。
 第七の公準は、言うまでもなく【碑文や遺跡、貨幣、美術等もできる限り参考にすること】。
 第八の公準、【日本人としての視点を活かせるところは最大限活かすべきである】。とりあえず、仏教徒たる日本人として、それは血肉となったア・プリオリな知識と言ってもいい(アップデートされてない場合も多いが)。日本人は比較的、仏教については理解する上で、シヴァ教を理解するのに比べれば、親和性がある。例えば、西洋人にとっては、仏教もシヴァ教も両方が我々にとってのシヴァ教のようなものである。こうした生まれもっての利点は最大限にアップデートしつつ活かすべきであろう。
 ざっと思いつく限りでの公準となりそうなものを列挙した。これらを暗黒のインド中世史の探検旅行の為の適当に羅針盤として事を進めたい。



【バルトリハリがヤバい奴な件】




 最近の筆者のマイブームであるバルトリの翻訳作業において、発見したバルトリハリが、ただのマハー・ヴァイヤーカラナ(大文法家)兼神秘言語哲学者であるにとどまらず、本当にマハー・ヨーギンだったのではないかと思わせる偈を見つけたのでそれについて遠隔透視論と絡めて論じていきたいと思う。
 これまでも再三再四述べてきたように、筆者は、遠隔透視方法論を分析し、推論によってその方法を探り当て、友人のE先生にも教えて、今や筆者もE先生も謎の遠隔透視能力保有者となるという摩訶不思議な漫画の主人公的能力を開発したのであったが、筆者自身の理論は、当然の如く滔々たる黄河の如く述べられるわけだが、権威筋からの追証めいたお墨付きたる理論がなかったのであったが、何とそれをバルトリの偈に見つけてしまったのである。それを発見した時の感想は、「あれ!?バルトリハリっち、もしかして遠隔透視できてた系の人!?」。それが以下の偈である。
 
आविर्भूतप्रकाशानामनुपप्लुतचेतसाम् ।  
अतीतानागतज्ञानं प्रत्यक्षान्न विशिष्यते ॥३७॥
 
明瞭に光明が現れ、圧倒されることのなくなった心を有する者達の、過去と未来の認識は、直接知覚からは区別されない。(37)


अतीन्द्रियानसंवेद्यान्पश्यन्त्यार्षेण चक्षुषा ।
ये भावान्वचनं तेषां नानुमानेन बाध्यते ॥३८॥

超感覚的で、知られることなき諸々の事物を、リシ(聖仙)の視力によって見るところの彼らの発言は、推論によっては排されない。(38)


यो यस्य स्वमिव ज्ञानं दर्शनं नातिशङ्कते ।
स्थितं प्रत्यक्षपक्षे तं कथमन्यो निवर्तयेत् ॥३९॥

人は、謂わば自らの〔獲得した権威ある〕知識の如くに、見たものは滅多に疑ったりすることはなく、直接知覚の主張に与する、かの人を、他の者がいかに拒否できようか。(39)



 この偈を読んで普通の現代のインド学者なら、「はいはいでたよ~、インド人特有のオカルト系コレキタよ~、はいはいはい、オカルトオカルト、非科学的ですね~、やっぱどんな構造言語学の先駆的な業績を残した言語学者でも、これだからインド人は~ダメだね。どこか幼稚なんだね」。しかるに幼稚なのはお前だよ!と筆者は断言する。この第37偈を読んで、遠隔透視ができる人間なら、あれこいつ知ってるなと感づくはずなのであるが、所詮インド学者が遠隔透視家であると云う稀有な例はお目にかかることが当分ないと思うので、遺憾なことにこの偈の重要さを見落とすこと必定なのである。アービブータ・プラカーシャ(明瞭なる光の現出)というのがそれである。これは瞑想中に眉間のアージュナ・チャクラ近辺に瞑想をしていると光が現れて、その光を通してその先に見たいものを確定させて、光の中に意識を入れるか、扉が開かれるようなイメージを作るとその先に見たいものが見えるというのが、自然発生的な遠隔透視法なわけである。しかし筆者はこれを逆に自然発生的に光が現れなくとも、これまでの人生のどこかで生じた光明体験や、幽体離脱体験、明晰夢体験を思い出したその記憶像の想起であっても、自然発生的な光に代替できるということを発見して、誰にでもできる遠隔透視方法として、以前の記事で開陳したのであった。なんならサイケデリックな色彩を眺めて、それを記憶像として再現するだけでもいいし、強烈な光を単にイメージするだけでも、等結果的に遠隔透視は可能なのである。つまり誰でも遠隔透視など簡単にできるのであって瞑想時間1000時間などは必須ではないと断じたのが言わば筆者の慧眼であった。この点から言うとバルトリハリは自然主義的な正攻法において光が発生し、浄化された心によってトリカーラダルシン(三世を見通す視覚)を得ると述べているのであるから、筆者の発見した拡大適用した遠隔透視法は知らないのであるが、明らかに光を通して未来と過去を見るということが、本人が出来たか、出来た人に直接聞いたか、ぐらいのレベルでないと書けないことを偈に書いているのが分かるのである。あながちマハー・ヨーギンだったことも、間違いではないとここから推測できるわけである。この偈の価値を理解できるバルトリハリ研究家は、世界においても拡大適用した遠隔透視方法論の確立者としての筆者一人ではなかろうかと思われるのである。そしてこのようなトリカーラダルシンの能力は、リシの視力とバルトリハリは規定している。つまりどうやら、ちょっと自分で言うのも恥ずかしいのだが、筆者先生やE先生=リシ(聖仙)という等式がバルトリハリ尊師の第38偈を適用すれば成り立ってしまうのである。とは言え、37偈で心が様々な欲望などに圧倒されることがなくなったという条件も、尊師は挙げていらっしゃるので、この辺りで筆者もE先生もリシ試験に落第しそうではある。 第39偈では、見えるものは、見えるんだから、人間の感覚器官がうんちゃらかんちゃだの、感覚器官は限定的な能力しか有しないはずだとか、そんなことは理論的に有り得ないとかほざいても、見えるものは、見えるんだから、それは疑いようがなく、それは直接知覚同様であると尊師も居直っている。筆者はこのことからバルトリハリ尊師が間違いなく、超感覚的世界が見えている奴なんだと確信しているんだが、E先生はかなり見えているにも関わらず、見えていることも、見えている自分にも疑い深いトマスばりに半信半疑なのである。これは筆者がどれほど口を酸っぱくして、「いやいや、古今東西の様々なトリカーラダルシンの事例を鑑みても、お前がやっているのは、まさしくそれだし、ガチなんだ!疑う勿れ、疑えば道はなし。見れば分かるさ。1・2・3、トリカーラダルシーだあああああ」とか説得しても、筆者はE先生のグルではないので、どうやっても幼稚園時代からのただのうるさい奴ぐらいにしか筆者のことを思っておらず、いまだに納得させるに至っていないのである。しかし、ここにバルトリハリ尊師も「見えるものは見えるんだから、それはヴェーダの権威の如く明らかで、直接知覚の主張に与するその人の見たものを、一体誰が排し得ようぞ」とおっしゃっているのである。マハーヴァイヤーカラナであり、マハーカヴィであり、マハー・ヨーギンであり、マハーラージャであり、アヴァンティの大王様である尊師バルトリハリがおっしゃっているのに、塵の如き、貴様はいかなる権威で自分で見た遠隔透視の内容を、自己の妄想に相違ないなどと否定するのかと筆者はE先生にいいたいわけである。そもそも数字を見ただけで胎蔵界曼陀羅をイメージできるほどお前の妄想力も想像力も豊かでもなければ、高尚でもないだろうというわけなのである。ちなみに遠隔透視能力を使えば、曼陀羅の生起とか、いちいち一つずつのパーツを涙ぐましい努力で想像していくという作業は不要となり、一挙に曼陀羅の中に自己を参入させられるようになる。そしてそれが本来の被免達人(アデプトゥス・エグゼンプトゥス)における曼陀羅の活用なわけである。




【E先生が見ているものは、イデアなのか、スポータなのか、ロートなのか問題】
 
 
 遠隔透視の方法論とシャーマン的天空飛翔技法に基づく、超感覚世界の認識は、もはや筆者の中では、疑いなく実在する領野であり、かかる先鋭的かつ前衛的な問題意識が、驚いたことに5世紀のバルトリハリに於ける問題意識と共通であるということが今の筆者には分かりつつあるのだ。バルトリハリは、筆者の確率の感覚から言わせて頂ければ、7割ぐらいの可能性で、ヨーギンの知覚能力を本人が所有していて、彼の神秘主義的言語=存在論が、そもそも遠隔透視やシャーマン技法の能力を前提に構築されたもののようなのである。彼のいわゆるスポータ論ないしシャブダ論が、外界に、言わばプラトン流のイデア論に近い普遍的存在を想定しているのであるが、それが哲学的な要請や思考実験や、仮説などの推論を元にした哲学的な議論や戯論と言ったものでは全然なくて、ぶっちゃけ遠隔透視的なシャーマン的知覚野において見えるものが、ただ実在しているという、直接知覚の延長線上の、単なる事実認識に基づいて、理論を構築しただけということがどうやら真のようなのである。筆者は未だ、バルトリハリというとんでもなく天才的な御大将の哲学の全容を把握しているわけではないが、どうも御大、とんでもなく怪物臭い奴なのである。そもそも単純な言語哲学的観点から言っても、5世紀にシニフィアンとシニフィエの二項対立的な構造主義的な観点の萌芽ではなく、そのまんまソシュールと同じことを言っているので、それだけでもちょっと苦笑せざるを得ないレベルなのである。西洋の言語学を基準に、過去の東洋の学者を評価するという西洋中心主義の傲慢な価値評価は、馬鹿馬鹿しいものではあるが、どうも御大、普通にソシュールを超えて、それ以上の緻密さで構造主義的方法論を駆使しているようであり、どうもソシュールの構造主義の方が、稚拙かもしれないと思わせるレベルに達しているようなのである。言語の構造自体が構造主義的であり、その上、サンスクリットのシステムは、パーニニ以来のアルゴリズムとメタ言語学的な手法の鬼みたいなレベルに達しているので、5世紀にソシュール越えも実際に頷けるのではあるが、それにしても御大は、5世紀のかかるとんでもない方法論家でありながら、遠隔透視家であり、ヨーギンの知覚能力を有し、E先生が見ているものと同様のものを見ているのであるからして、21世紀になってようやくそのレベルに達した筆者と同一の地平に5世紀に問答無用に殴り込んでいるわけであるから、ちょっとアタオカレベルである。とは言え、今回はバルトリハリのスポータ論はおいておくとして、とりあえずE先生が見ているものは何かというのを記述しておきたい。
 E先生が見ている遠隔透視の対象は、この物質次元の4次元と同一平面のものと若干異なっていることが観察されるのである。例えば、E先生にテオドール・イリオンがシャンバラに行ったかどうかを見て貰った時に、E先生は、原っぱで寝そべっているイリオンを見た。それは実際のある時、ある場所の実際のテオドール・イリオンというよりかは、何かユングの言うような元型ないし、プラトン流のイデアに近い、そうしたイデアルな存在としてのイリオン像と言えるものであった。それは生身のイリオンではなく、イリオンのある種のイデアのようなものである。そしてそのイデア的な人物像に質問すると返答を得ることができ、我々はそのイデア的人物から必要な情報を聞き出すことができるのである。それは生身のイリオンというより、生身のイリオンを構成する情報の塊(マッス)というに相応しい存在であり、遠隔透視でよく出会うのが、かかる情報の塊なのである。そしてバルトリハリは、かかるスポータは無時間的であるが、カーラ・シャクティに基づいて、時間的な線型の言語的展開を得るということを述べている。


नादस्य क्रमजन्मत्वान्न पूर्वो न परश्च सः ।
अक्रमः क्रमरूपेण भेदवानिव जायते ॥४८॥

ナーダ(音)の順序の生成に従い、先行もなくまた後続もなき、その順序なきものが、順序ある姿をとって、区別を有するものの如くに生じる。(48)


प्रतिबिम्बं यथान्यत्र स्थितं तोयक्रियाविशात् ।
तत्प्रवृत्तिमिवन्वेति स धर्मः स्फोटनादयोः ॥४९॥

あたかも他の所に投影された映像が、水の作用力の故に、その振舞いに従うが如くに、スポータとナーダの両者間にあっては、そのダルマ(法則)が存する。(49)



    つまり情報の塊は無時間的だが、それが我々の時間意識の俎上に登ることで時間的な展開を見せるのだと尊師は述べていらっしゃるのだが、もう「あんた、俺らと同じもの見てるんっすな」と苦笑せざる得ないわけである。殆どの現代の学者は当然、遠隔透視能力もシャーマン的知覚能力も皆無だから、バルトリハリのかかる偈を読んでも勝手な想像をしやがって、コイツ適当なこといいやがってからに、だからインド人はオカルトだから嫌だみたいに内心で現代人の科学主義という名の自己の無能さをもって達人を断罪し、内面で軽蔑するわけだが、もうこの点については今の学者の方が盲目で絶対的に無能なのである。とは言え、こういう無能さは21世紀時点ではご愛敬ということで大目にみてやらなくてはなるまい。子供がヨチヨチ歩きをしているからと言ってさっさと歩けとぶん殴るとしたら、それこそアタオカと言わざるをえない。従って彼らが、シャーマン的知覚能力を得るのは、筆者の1700年代の過去世から今日までの発展史を鑑みれば、学者が達人になるのに300年は要するわけであるからして、彼らが真実に至るのに300年の猶予期間は必要と考えねばなるまい。
 かくてプラトンのイデア論は、どうやら真実臭いのだ。ニーチェ流に言えば、イデアとは生命力の減退した弱者の願望の投影物に過ぎず、イデア論とは弱さの徴候に過ぎないと断じられるわけであるが、今の筆者から言えば、「それはニーチェさん、あなたが遠隔透視を身につけていない本の虫に過ぎないから、イデアをそんな願望の投影物と解釈して頭で理解してしまうんですな。本と解釈とパパ・ママコンプレックスを捨てて、超感覚的シャーマンの知覚領野に決然と出るがよろしかろう!あなたは頭だけの世界から飛び出るべきでしょう」と言わざるを得ない。しかしプラトンがイデアを本当に見ることができたのかは、今でも筆者は疑っているが、まさしくE先生が見ているのは、プラトンのイデアというものに該当し、まさしくそれとしか言いようがない代物なのである。E先生と同様の能力を有していたアメリカの幽体離脱の達人であるロバート・モンローは、それをロートと名付けていた。ロートとは、「知識の集合、思考の玉。思考の「パッケージ」。心の働き。記憶にある全て、知識、情報、経験、歴史」である。それはシャーマン的知覚野における存在者同士がコミュニケートする際に用いられるものである。それは塊として受容され、線型的な言語的コミュニケートを介さずに、それを受容すれば一挙にその必要な情報が塊として存在者にダウンロードされる類のものである。全てのシャーマン領野の存在はかかるロートを有し、それによって相互に情報の伝達をするわけである。そして我々の言語脳はかかるロートを一旦、地球上の言語に翻訳して理解することが必要なのである。結局のところイデアもロートもシャブダとしてのスポータも、どれもほぼほぼ同じ存在の異名でしかないのである。そしてこれはE先生や筆者が遠隔透視の知覚領野で出会う情報の塊そのものなのである。かかる情報の塊が無時間的なシャーマンの知覚領野に実在していて、それを我々は見ているのであり、つまりそれは俗に言うアーカシャ年代記であり、かかる情報はシャーマン的知覚領野に実在しているのである。それが不滅なのか、可懐的なのかは、現在、まだ研究中である。世界の壊滅以前、ビッグバン以前の旧世界のかかる情報の塊を遠隔透視できれば、物理次元の世界の壊滅から守られているという点でかかる情報の塊は不滅と見なしも良いであろう。これは今後の研究課題である。かくて我々は、バルトリハリのシャブダとしてのスポータ論が、実はプラトンのイデアやモンローのロートと同一性を有するものであり、それはE先生が見ているものであるという見解がほぼほぼ真実らしいということが分かるのである。つまりスポータはE先生の見ているものであり、それはバルトリハリがヨーギンの知覚能力で見ていたものに他ならないのである。とは言え、バルトリハリの言語哲学の全貌を掴むまではただ予備的に今は仄めかすにとどまるのではあるけれども。
     筆者はヒューム哲学の線上で物事を理解するので、イデアとは印象の写し絵に過ぎず、それは実在するものではないという唯名論的な解釈で元々、イデアを捉えていたので、まさかイデアの実在を説くことになろうとは夢にも思わなかったのである。普遍としてのテオドール・イリオンのイデアだとか、牛性の普遍的なイデアというものは、単なる唯名論的な約束事という仮の存在ではなくして、どうやらシャーマン的な知覚の領野に実在するようなのである。そしてその情報の塊(マッス)は、勝義諦と世俗諦という二分法の間の中間領域に存在しているのであり、かくて我々はシャーマン的な知覚領野としての輪廻諦を想定せざるを得ず、そこにこそ普遍者が存在するようなのである。遠隔透視者において牛のスポータないし、牛のイデアは拡大した知覚の対象として実在するのである。


   今回もとりとめのない内容に終始したが次回は、玄奘を軸にインド中世宗教史、ヨーガ史再構築の為の仮の足場を作っていきたいと思っている。