高校野球ファンなら誰でも知っている徳島県立池田高等学校の校歌。
私にとっても、小学生の時に高校野球を見ながら耳にし、自分が通う学校以外で初めて興味を持った校歌であります。
校歌ファンの集りで、「好きな高校校歌ベスト5」というアンケートをさせてもらった際にも、得票数トップだったのが池田高校でした。
オールドファンにとってもひときわ愛着の深いこの校歌ですが、圧倒的な知名度を誇るわりに、歌の全容や作詞、作曲者についてはあまり知られていないように思われます。
まず、歌の制定時期、全容について。
制定は1951年。戦後多くの高校の校歌が改訂されましたが、同校も旧制池田中時代の校歌を廃止し、新たに新時代にふさわしい校歌をということでこの校歌が制定されたと推測されます。
歌の構成は、3番+反歌というもの。有名な「讃えよ池高…」以降は「反歌」であり、1番の歌詞は「ひかりを呼ばん」までということ。
甲子園アレンジにより、反歌まで1番であると思われがちですが、HPでも長らくフルコーラス音源が掲載されていなかったことも、全容が知られにくかった一因かもしれません。幸い、ようやくHPでもフル音源が視聴可能になりました!
また、作者についてもパッと名前が出てくる人はマニアの中でも少ないと思います。
まず作詞者の合田公明。この方は地元の教師をしておられたそうですので、いわゆる著名な作詞家とは異なるので、致し方ありません。ただし、『校歌の大甲子園史』(渡辺敏樹)によると、合田氏の娘さんが蔦監督の息子さんと結婚したということで、「まさに甲子園と校歌が結んだ縁」という面白いエピソードもあります。
次に作曲者ですが、永井潔。ネットで検索すると画家で同名の方がいますが、当然ながら別人。池田高校HP沿革によると大阪音大教授と書かれています。
「大阪音大教授」「永井」と聞いて永井幸次を連想された方はかなりの音楽通か校歌マニアではないでしょうか。
そう、永井幸次とは大阪音大の創設者にて学長であった人物。 関西における音楽の発展に絶大な貢献をした人物です。また、校歌という点でもお膝元の大阪府内はもちろん、熊本工業や佐賀商業なども手掛けている、校歌の大家です。
特に大阪府内の高校校歌については、旧制も含めると30校以上手掛けており、永井氏の独壇場といえるでしょう。
永井潔とは、その永井幸次の長男なのです。
音楽界の超サラブレッドともいうべき存在ではありますが、早くして亡くなったため、著名な作品や校歌を多く残すことができなかったのではないかと思われます。その中で、校歌という「マイナージャンル」で圧倒的な知名度を誇る曲を作り、後世に残したのですね。
他に氏の作曲した校歌の存在を知りませんので、ひょっとすると手掛けた唯一の校歌かもしれません。それでこれだけ人に知られる曲を作れるわけですから、やはり天才の血を受継いでいたのでしょう!
また、驚くべきことに、父・永井幸次も実は池田高校と深い縁があります。池田高校の前身である旧制池田中の校歌の作曲者が永井幸次なのです!
<旧制池田中学校校歌> 作詞:川路柳虹 作曲:永井幸次 1942年制定
一、吉野の清流 巌うつところ 繞(めぐ)る山なみ 紫にほふ
玲瓏澄みたる山気を吸ひて 池中健児ら ここに立てり
二、阿讃の山稜 極まるところ 桜吹雪の上野ヶ丘に
栄ある歴史に聳ゆる母校 池中健児ら ここに立てり
三、雄々しき古武士の血汐をうけて 堅忍剛毅の精神(こころ)を磨き
皇国(みくに)につくさん熱血たぎる 池中健児ら ここに立てり
つまり、旧制中時代の校歌を父が作曲し、新制高校の校歌を息子が作曲したということになります。
新校歌を制定する際に、学校側が従来の曲の作者である永井幸次に義理を立てて相談したのではないでしょうか。
そうしたところ、永井幸次の都合がつかなかったか、幸次氏が息子にチャンスを与えたかったのかで潔氏が作曲することになった、と想像します。
父・幸次が作った旧制校歌は1942年に制定されましたが、その後間もなく終戦・学制改革の波を受けて、お蔵入りに。短命に終わってしまいましたが、後を受継いで息子・潔が手掛けた新制校歌は、やがて同校野球部の快進撃とともに人々を感動させ、「日本一愛される校歌」として長く歌い継がれています。
校歌というものも、こうしてみますと様々な縁というかドラマが背景にあるのだな、と改めて感じさせてくれる気がいたします。