中々進まないカウントダウン、ようやく再開します。
第7位 中学猶興館 校歌「雷海の潮」
作詞:林 釟蔵 作曲:不詳 制定:1917年(根拠資料不明)
1 雷海の潮昼夜休わず 亀岡の松 緑り千秋
海山の霊気に心を洗い 快活剛健 学びの業を
雄々しく努めん平門男児
2 庭に鄭氏の椎の巨木 堂に親王の猶興の額
この名も深き源の 公創立の本意を体し
雄々しく励まん平門男児
3 慶長の昔 蘭英の船 ここに集いて貿易振う
今は雌伏の時節にあらず いざ諸共に海外雄飛
雄々しく進まん平門男児
「中学」とありますが、今の中学校ではありません。旧制中学校です。
つまり県立猶興館高等学校の戦前の校名であり、その当時の校歌であります。
校名の「猶興」は『孟子』を出典とする自立自発を説いたの教えのことで、建学精神でもあります。
なお、普通は「猶興館中学」というところ、「中学猶興館」。
もう名前からして趣がありますね。
歌に入りましょう。
冒頭の「雷海」というところからして素晴らしいですね~。
平戸島と九州本土に挟まれた「平戸瀬戸」(海峡)は潮流が強く、「雷ヶ瀬戸」とも呼ばれるのですが、それを「雷海」とアレンジして冒頭に持ってきているわけですね。しかも、単に海のことを言い換えてるだけではなく、「雷海」とすることで、広い世界の比喩でもある「海」を更に荒々しく感じさせる効果も狙ったのだと思います。
曲は同校の同窓会ページにて聴くことができますが、詞と同様に非常に勇壮。
一番、二番、三番(正確には「連」と言うようです)の各連の締めは「平門男児」。これがまた曲とも合っていて非常に素晴らしい。
ところで「平門男児」とはどういうことでしょう? 旧制中時代は男子のみでしたので「男児」は当然として、「平門」とは「平戸」のことだろうとは思いつつ、「門」が少しひっかかります。「平家一門」というのが頭にちらついたりしますが、そんなわけはない…。
おそらくですが、「門下生」という言葉があるように学問や芸事で「一派」という意味で使うのに近いのではないかと。従って、校歌でよくある表現に置き換えると「平校男児」といったところでしょうか。
こういった表現も中々、他の学校では見かけないものですが、やはり平戸藩の藩校にルーツを持つということと関係あるのでしょう。
平戸といえば、江戸幕府による鎖国政策の際、当面は長崎の出島とともに貿易が許可されていたという港町。
そのあたりのことが三番には書かれているわけですが、二番では何と東アジアの英雄として広く知られる鄭成功が登場します。台湾をオランダの支配から解放し、「国神」の一人として崇拝される鄭成功は平戸で生まれ、母親が日本人だったということもあり、平戸でも記念館が建てられるなど非常に親しまれています。二番の「庭に鄭氏の椎の巨木」というのは、おそらく台湾桧の巨木のことと推察します。「椎」となっていますがおそらく桧のことと思います。
「台湾」とそのまま言っても芸がないので地元にゆかりのある「鄭氏」で分かるでしょう、と。
なお、現在の猶興館高校の校門には台湾桧の巨木が使われているとのことですが、それがひょっとして二番に出てくる巨木? ということは切られて門に使われたということでしょうか? まあ、さすがに昔から大事にされてきた木を切るということは考えにくいですね(笑) そのあたりの事情、ご存知の方がおられたら教えていただきたいところです。
ちなみに、ここでは三番までしか紹介していませんが、実は「校歌の広場」の参州人様の情報によると、四番まで歌詞が存在するとのこと。「尊く畏き大詔勅…」で始まり、「明治の帝の聖旨を守り」といった物凄い歌詞も飛び出します。同校の校歌の制定年について、何かの資料で1917年(大正6年)と見たのですが、大正6年になっても「明治の帝の聖旨を…」と作詞するだろうか? 明治天皇は歴代天皇の中でも特に国民から崇拝されていたようなので、没後6年たってもこのように校歌に謳われたのかもしれません。ともかく、今は封印されてしまっているようですが、校歌で明治天皇が登場したのには驚きました。「大君」とか「皇(すめらぎ)」などは戦前校歌ではよく出てきますが、時代的に大体昭和天皇か古くて大正天皇だろうというのがほとんどですので、ズバリ明治天皇というのは非常に珍しく、本当に同校校歌は色々と特徴が多く、インパクトがあるなと思った次第です。もちろん、曲もいい!